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「今日のうお座の運勢は最高にハッピー☆素敵な出会いがあるかも。ラッキーアイテムは懐中時計!」
私はそれを、ごはんを食べながら、ぼんやりと聞いていた。
私、うお座。
ああ、今日は運勢がいいのか。素敵な出会いがあるかも?こんなときに、そんなことを言わなくたっていいのに。懐中時計?そんなの持ってるわけないじゃん。
「姉ちゃん、まだ食ってんの?」
「あっ」
弟の声にはっと我に返った。そうだった、この占いが終わるころには、家を出ないといけないのに。私はあわてて箸を置くと、背もたれにかかっていたコートを手に取り、席を立った。コートを羽織りながら、急いで玄関に走っていく。
「お弁当、忘れてるわよ」
「ああっ」
今度は母親の声がした。お弁当を忘れる。私はあわあわとリビングに引き返し、カウンターに置かれた弁当箱を手に取った。
「いってきます」
今度は忘れ物がないように、一度家を見回し、私はドアを開けた。
外の風はまだ冷たかった。今年は例年と比べて暖冬傾向にあるというが、マフラーをしてきてよかったと思った。部屋を出てすぐは、やはり体が寒い。私は少しだけ小走りをした。まだ電車には間に合うけど。でも、気分を変えたかったから。
昨日、先輩を振った。
振った?そのことばに少し笑ってしまう。振ったって、そんなことないのに。事実としてはそうかもしれないけど。振られたのは、むしろ私のほうなのに。
こんなときでも、案外、普通の生活が送れるものだなあと、しみじみ考える。あんなところ、見たくなんかなかったのに。
公園を突っ切る。駅への近道。ちらりと腕時計を見る。大丈夫、乗り遅れない。余裕が出てきたので、私はスピードを落とし、歩きに変えた。
大丈夫、間に合う。いつもの公園のまっすぐな道。いつもと変わらない木々と人波が、私の横を通り過ぎていく。
後ろから人が走ってくる音がした。じゃりじゃりと土を踏む音と、息遣い。こちらに近づいてくる。何気なく振り返ったとき、私のすぐ横を通り過ぎていった。紺色のスーツを着たサラリーマン。コートも着ずに、マフラーだけをして、寒そうな。
かちゃっと音がした。男が何かを落とした。しかし、男はそれに気づかずに、どんどんと走り去って行く。
声をかけることができない。
回りにも人はまばらで、男の落とし物に気がついている人は誰もいなさそうだった。私はゆっくりと男の落とし物に近づいていった。
それは、時計だった。
手のひらに収まるほどの小さな時計。チェーンがついて、そこが切れてしまったのだろうか。つながる部分を失い、ぶらんと、力なく地面に向かってたれていた。
もう一度顔をあげた。しかし落とした男の姿はもうどこにもなかった。
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