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どうしよう、これ。
私はあわてて立ち上がり、男が走り去った駅の方を見た。もしかしたら、落としたことに気がついて戻ってきてくれるかもしれない。少しだけ立ち止まってみたけれど、そんなことは一向に起こりそうにない。人波は駅に向かう一方通行で、人が戻ってくる様子などどこにもなかった。
ああ、どうしよう。
一度拾ってしまったからには、元には戻せない。もう一度地面に置いて、気づかなかったことに、なんて。
それに、きっとすごく大切なものなんだろうな。
私は拾った懐中時計に目をやる。ところどころに傷がついていて、それでも丁寧に磨かれているのがわかる。きっと古いもので、そして、とても大切にされてきたものなんだろうな。
どうしよう。
私は懐中時計と人波を交互に見つめた。そして、ふと懐中時計の時間が目に入った。
「ああっ」
このままじゃ遅刻してしまう。私はあわてて駅に向かって走りだした。
そして何とか、電車に乗ることができた。
きれいな時計。
電車の中でも私はじっと、その時計を見つめていた。落としたあの人は、この時計がないことに、気がついているだろうか。そして、どこで落としたんだろう、そんなことを言って、あわてふためいているだろうか。それとも。
ふと、昨日のことが思い出される。それとも、もういらないやって、捨てられてしまったのだろうか。
前澤先輩のことが頭に浮かんでくる。昨日、会社の給湯室で、紺野さんとキスしていた先輩。私の彼氏である先輩。でも、先輩はきっと私のこと、そんな風には思ってないんだろうな。
今日のラッキーアイテムの懐中時計。まさかこんな形で出会うとは思わなかった。
ふと気がついた。あれ、懐中時計の時間がずれてる。ほんの少しだけ、2,3分とかそれくらい。そんなことに気がつく自分の細かさに、我ながら驚く。でも。そう思って私はふっと微笑んだ。せっかくだから直してあげよう。
なんておせっかいだろう。もしかしたらあの人は時計をわざとずらしているかもしれないのに。
それでも、私は時計の横のねじを回してみた。時計を進める方向に。けれど、ねじは回らない。
「あれ」
ねじと時計がつながっていないのな、どれだけねじを回しても、時計の針はちっとも動かなかった。何度も何度も回してみたが、全然だめだった。
私はそれにふっとため息をついた。そして、今度はねじを逆方向に回してみた。そっちになら、回るかもしれない。時計の針が戻るほうに。
今度はねじはすっと回り、時計の針が、左回りに動いた。
その瞬間、目の前がふっと真っ白になった。
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