本の箱庭

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本の箱庭

 扉を開けた途端に鼻腔をくすぐる、懐かしい書物特有の香り。思わず感嘆のため息を零してしまうのを堪えて、エレイナは一歩踏み出した。  足を下ろしても、高級な絨毯が使われているためか一切音が立たない。この静謐な空間に響くのは、(ページ)をめくる音だけ。そのことに胸がきゅん、と切なくなる。 (――そう、私が望んでいたのは、まさにここです。戻って、来れたんです)  色々な思いが込み上げてきて、目の奥が熱くなる。エレイナは髪と同じ栗色の瞳を擦ると、しっかりとした眼差しで前を向いた。さぁ、仕事を始めましょう。 「エレイナ」  後ろから声をかけられて、エレイナは振り返る。そこには司書の……確か、アーシェラ。 「アーシェラ様、何でしょう?」  もしかして、早速注意でしょうか? それとも解雇? そんな不安がエレイナの胸中に生まれる。解雇なんて、そんなの嫌。  だけどそれは杞憂だったようで。アーシェラはポン、とエレイナの肩を叩いて、にっと笑みを浮かべた。 「これからよろしくね、同じ王宮図書館の仲間として」 「……っ、はい!」  零れ落ちそうになる涙を堪えて、エレイナは満面の笑みを浮かべた。 △▼△  エレイナは今こそ身分は平民だが、元は子爵令嬢だった。一人っ子のため家族やメイドたちからの愛情を一身に浴び、大きな病にかかることなく十五まで成長した。  と言っても少しばかり他の令嬢とは変わっていて、彼女は本という本が大好きだった。普通の令嬢方が好む恋愛小説も好きだが、令息方の好む冒険小説も、果ては専門家しか開くことがないであろう分厚い専門書まで。  そんなエレイナを「はしたない」という人は多くいた。女は男を立てるもの。必ず男よりも劣っていなければならない。そんな考え方がまかり通ったこの国の貴族社会で、エレイナのように男よりも優れている令嬢は「はしたない」と言われる存在だったのだ。  だから、「ちゃんとした貴族令嬢になってもらうため」という大義名分の元、彼女から本を取り上げようとする親戚は多くいた。だけどそんなことに屈するエレイナではなく。ちゃんと夫となる人物を立て、むしろ夫のためにその知識を使ってさり気なくサポートするなどの知識を得たことによる利点を話すと、大抵の親戚は引き下がった。むしろ「よく気づいた」と褒める者も。  そのためエレイナはずっと、大好きな本を読んで生きてきた。  ――そう、あの日までは。 △▼△  珍しく王都に激しい嵐がやって来た晩のことだった。窓を叩く大粒の水に、建物をガタガタと揺らす風。子爵邸のメイドたちは怯えて抱き合い、花が大好きな庭師は(恋人)の様子を確認するため嵐の中に飛び出した。  そんなときにも関わらず、エレイナは一人、王宮図書館で借りた本に目を落としていた。  今の時代、本は高級品の部類に入る。そのためエレイナのカールレン子爵家にはエレイナの求める量の本を買うお金はなく、貴族なら誰でも入れる王宮図書館で借りるのが常だった。本心では専門家しか入ることのできない専門図書館にも行きたいが、子供、しかも女など入れてくれるはずもない。  はぁ、と憂鬱そうにエレイナがため息をついた、ちょうどそのとき。 「お嬢様、旦那様のご帰宅です」 「今行きます」  部屋の外から聞こえてきた声に、エレイナは本に栞を挟んで立ち上がる。どうやらやっと父が帰って来たよう。いつもなら夕食前には帰って来るのに、今日はそれから一、二時間ほど経っている。 (仕事が立て込んでいた、という理由以外は認めませんよ。全くもう……)  エレイナが心の中でぶつくさと言いながらエントランスへ向かうと、そこには既に母とメイドたちがいて。彼女らの視線の先には一人の男性がいた。メイドたちからタオルを受け取っていて、その顔は異様なほど青白い。 「父様、お帰りなさい。……何()あったのですか?」  その言葉に、父の肩が大きく跳ねる。冷や汗が額を伝っていて、何故か従者もおらず、びしょ濡れ。まるで、何かあったのです、とでも言ってるような様子だった。  だけどおっとりとした母は何が何だか分かっていないらしい。首を傾げていて、ほんわかとした空気を漂わせていた。 「あら? どうかしたの?」 「――実は、だな……」  そう言って、父はもごもごと口を動かす。けれど、なかなか声が発せられることはなくて。どうやら余程言いたくないことのようだ。  だがそんなに待ってはいられない。父はぐっしょりと濡れているため、早くお風呂に入らなければ風邪をひいてしまうことは明らか。  そう判断して、エレイナが口を開きかけたときだった。 「お邪魔します。カールレン子爵、あのことはお話しましたか?」  そう言って屋敷に入ってきたのは、派手な身なりをした、父と同じ年頃の男性だった。彼はにっこりと笑っていて、青白い顔をした父とは対照的。彼の代わりに父の従者がびしょ濡れになっていることから、恐らく父よりも高位の爵位持ちだろう。もしくは、どこか大きな家と親しいのか。  エレイナがそう分析していると、父が「すみません、まだです」と男性に謝った。そんな父に、男性はイラついたよう。「では、早くしてくださいね。私はあなたとは違って(・・・・・・・・)時間がないのです」と冷たく言い放つ。  その様子に、密かにエレイナは苛立つ。時折情けないとはいえ、実の父を馬鹿にされて喜ぶ娘はそうそういない。 「その、だな……領地に関することなんだが……」  そこまで言って、父は口を噤んだ。気まずそうに視線を左右に彷徨わせていて、冷や汗も垂れている。  そんな父にイラついたのか、男性がトン、トン、と足で床を叩く。それは次第に早く、大きくなっていき、不満を募らせていることが窺えた。きっとしばらくしたら爆発するだろう。そう思い、エレイナは父に向かって呼びかけた。 「父様」  のろのろと父がエレイナを見る。その顔は、今にも倒れてしまいそうなほど。だから不安を解消するため、エレイナは笑顔を浮かべた。 「大丈夫ですよ」  ずっとずっとそうだった。人一倍優しくてお人好(ひとよ)しな父。彼の失敗をエレイナがフォローすることは、今までにも幾度があったこと。それでも何とかなったのだから、きっと今回も大丈夫。  その言葉に、父は僅かにためらった後、心底申し訳なさそうな顔をして告げる。 「実は……全財産が取られることになった」  その言葉に、空気が固まる。誰も彼もが目を見開き、有り得ないとでも言うような表情で父を見つめた。  だけどその中でも、エレイナだけは真剣な眼差しを浮かべていた。しっかりと現実を見つめ、今後のことを考えている。  すると、父が顔を俯けた。 「後は、トルフィーラ伯爵が……」 「はい、ここからは私が。マルケン準男爵をご存じでしょうか? 実は彼、借金をしてまして、こちらのカールレン子爵が連帯保証人だったのです。しかしマルケン準男爵は借金を返済できず夜逃げし、カールレン子爵が払うことになったのですが、その量が膨大でしてね……。カールレン子爵が払えない返済額の半分を私が払うことになり、代わりに領地と爵位をいただこうということです」  待ってました、とばかりに饒舌に語るトルフィーラ伯爵。隠しきれない笑みに、早く財産を手に入れたくてたまらない、という気持ちが簡単に察せられた。  エレイナは人差し指を顎に当てて考える。恐らく、トルフィーラ伯爵の言っていることは真実だろう。父はたとえ準男爵という一代限りの貴族でも、頼まれたら断れない性格だ。その光景がありありと目に浮かぶ。  そんなエレイナとは対照的に、母は顔を抑えて泣き崩れ、メイドたちが慌てて駆け寄る。父もゆっくりとだが母の傍へと行き、「すまん」と言って抱きしめた。  はらはらと涙を零すメイドたち。重苦しい雰囲気に押し潰されそうなエントランスで、ただ一人、トルフィーラ伯爵だけはにこやかに笑っていた。 「――トルフィーラ伯爵」 「ん? 何かな?」  エレイナがトルフィーラ伯爵に声をかけると、伯爵は一瞬顔を顰めた後、すぐに作り笑いを浮かべてエレイナを見た。その目は笑っておらず、エレイナたちを蔑んでいるのが窺える。  トルフィーラ伯爵は、最近領地に特産品ができたことによって力をつけてきたことで有名な貴族だ。恐らく、全財産を没収され、貴族ではなくなるエレイナたちを見下しているのだろう。 「カールレン子爵家長女、エレイナと申します。まずは、わざわざこのような所まで足を運んでいただき、感謝いたします」  そう言い、作り笑いを浮かべながら、エレイナは淑女の礼をとった。すると、トルフィーラ伯爵は満足げな笑みを浮かべる。おそらく、敬われるのが大好きなのだろう。  貴族らしいですね。そう思いながら、エレイナは続けた。 「私共(わたくしども)はこれから平民になりますが、その際に折り入ってお願いがありまして……」 「へぇ、言ってごらん」  エレイナの言葉に、ニィ、と伯爵は口角を上げる。一体何を想像しているのでしょう。愛人にでもなると思ってるのですかね? そう心の中で毒づきながら、だけどそれを表には出さないようにして、エレイナは告げる。 「一月(ひとつき)ほど、無職の平民が生きていけるだけの最低限の資金を援助してもらえないでしょうか? さびれた宿で暮らせる程度のお金で結構です。後でお返ししますので、どうぞお考えください。あと、メイドと料理人たちなのですが、これからトルフィーラ伯爵の管理する領地と屋敷は増えることになります。その為、元カールレン子爵家の別荘だった場所の管理人として、これから一時(いっとき)だけでもいいので雇っていただけないでしょうか」  スッ、と伯爵の顔から表情が抜け落ちる。そして数瞬後、その瞳には苛烈な怒りが輝いていた。きっと、女のくせに、とでも思っているのだろう。それが貴族としての『普通』だ。  予想できていたことだとエレイナは思う。だけどやはり、他人の悪意は、痛い。 「お、お嬢様……」  メイドの一人が不安げな声を発した。彼女に安心させるよう笑顔を向けてから、エレイナは再び伯爵を見る。 「メイドたちに関しては仮契約で構いません。その間に彼女らが新たな就職口を探せばいいのですから。どうかお考えください。資金に関しても、利子をつけて数年かけて返すと誓います。誓約書でも書きましょうか?」  笑顔で、だけど眼光は鋭く伯爵を見つめると、伯爵は何やら考え始めたよう。  仮契約の賃金は本契約の半分ほど。それでしばらくの間増えてしまった屋敷の管理をできるし、お金も利子をつけて返す。正直、伯爵には利益しかない。  伯爵もそのことに思い至ったのか、ふむ、と満足げに頷く。 「分かった。それで良いだろう」  その言葉に、後ろからあからさまな安堵の息が聞こえてきた。多分メイドの誰かだろう。  エレイナも心の中でそっと息をつきながら、ドレスの裾を持ち上げた。 「ご好意感謝いたします。それでは、我が家はこれから今後について考えなければならない為、お帰り願いますでしょうか? 屋敷を出るのはいつまでが宜しいでしょう?」 「一週間後で」 「分かりました」  早いですね、と思いながら、すっ、とエレイナは伯爵の後ろに控えていた従者に目線をやる。優秀な従者はそれだけで分かったようで、小さく頷くと再び雨の中へ飛び出した。馬車を近くに連れてくるのだ。ここで伯爵に濡れられて不機嫌にもなられたら、話し合いが全部無駄になるかもしれないのだから。  そしてトルフィーラ伯爵がほくほく顔で嵐の中に去った後。子爵一家は食堂で顔を突き合わせて話をすることに。 「とりあえず一ヶ月分の生活費は何とか確保できましたので、次の問題は住むところや仕事ですね。ここを出るまでに一週間しかありません。メイドたちに市井(しせい)の暮らしを教えてもらいましょう」  エレイナがハキハキと言うと、シュン、と父は項垂れた。 「すまんな、エレイナ……」 「大丈夫ですよ、父様。これまでも何とかなってきたんですし」  そう励ましても、父は重たい空気を纏ったままだった。昏い瞳を、自らの手元にやっている。 (これは、どうしましょう……)  エレイナは心の中で呟いた。彼女が今何か言っても、きっと全てが逆効果になる。  うーん、とエレイナが悩んでいると、母が父の肩に手をやった。 「そうよ、旦那様。きっと大丈夫。だから、過ぎ去ってしまったことじゃなくて、これからのことを考えましょう? ね?」  母のその励ましに、ぎこちなくではあるが、父がゆるりと笑みを浮かべた。どうやらもう大丈夫なようだ。エレイナはほっとため息をついて、言葉を発した。 「では、これから頑張りましょう。父様は力仕事などを、母様は料理をメイドたちから教わってください」 「分かった。……だが、良いのか、エレイナ?」  父の言っている意味が分からず、エレイナは首をひねる。一体、何のことでしょう?  そんなエレイナの様子に、父は気まずそうに口を開け閉めした後、ゆっくりと告げる。 「私たちは貴族じゃなくなる。つまり……王宮図書館にはもう入れなくなるぞ?」  エレイナの視界が文字通り暗くなって。「お嬢様ー!」というメイドの悲鳴を聞いた……ような気がした。  そして一週間後、エレイナ・カールレンはただのエレイナとなった。
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