本の箱庭

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 オスカーは王宮図書館を出ると、そのまま人気のない裏手へ行く。そして辺りを見回して誰もいないことを確認すると、真っ赤になった顔を押さえてしゃがみ込んだ。 (何やってんの僕――っ!?)  全くもって無意識だった。無意識のうちにキスをしようとしていて、慌てて口ではなく額に唇を落として。彼女と関わると、自分ではなくなるような気がする。……いや、違う。今まで必死に積み重ねてきた『オスカー・ルンペリア』という侯爵嫡男としての仮面が、彼女の前だとどうしても剥がれてしまうのだ。  はぁ、とオスカーは大きなため息をついた。情けない。自分の感情も制御できないなんて。だけど――。 「……オスカー?」  聞き慣れた声が鼓膜を揺らして、顔を上げた。そこには騎士服を着崩した、とてもじゃないが一小隊を任せられてるどころか、今は王族の護衛についているとは思えない幼なじみがいた。  オスカーはあからさまに顔を顰める。 「なに、ザック」 「いや、おまえのような人影が人気のないところへ行ったから、もしや密会か!? と思って後をつけて来たんだが……何やってるんだ?」 「うるさい」  オスカーの素っ気ない言葉に、ザックはケラケラと笑う。そのことが腹立たしくて、オスカーは握りこぶしを作るとちょうどいい高さにあったザックの膝を叩く。するとザックは「おー、痛てぇナー」などと棒読みで言った。  笑い声が響く。ザックはオスカーの隣にしゃがみ込むと、その顔を覗き込んだ。 「それで、何があった? まぁ、大方あの元子爵令嬢関係だとは予想つくけどな」 「何で分かったっ!?」  くわっと驚きに目を見開き、動揺する彼を見て、ザックはにんまりとした笑みを浮かべる。 「そりゃ、噂になってるからだよ。みーんな、おまえらに注目してるぜ。あの(・・)王女の求婚も断って仕事一筋だったオスカー・ルンペリアが、没落令嬢にあっさりと陥落したってな」  不穏な光を宿しながら、ザックが語る。その言い方にほんの少し違和感を覚えた。頭を回転させて、気づく。  先ほどとは別の理由で目を見張り、瞳を微かに揺らすオスカーを見て、ザックは神妙な顔で「そうだ」と告げた。 「王女様が何かしないとは、限らねぇ。実際、ハルルト公爵が動き出してるぞ」  ハルルト公爵は、王女の信奉者だった。顔立ちもよく権力があるにも関わらず、浮いた噂一つないのは王女に忠誠を誓ったからだと言われている。まさに狂信。しかも年頃の王女が未だ婚約者を持っていないのは、彼女が妾の子であることに含め、公爵がそうさせないよう兄である国王に進言しているからとも、まことしやかに囁かれている。  そんな公爵が、既に動いている。王女の狂信者。オスカーが恋をしたと聞いてきっと王女が悲しむから、だから……。 「エレイナさんが危ないと。そう言いたいんだね、ザック」  冷徹な瞳で、射殺しそうな瞳で、オスカーはザックを見つめる。いつものように軽い調子で「ああ、そうだよ」とザックは言った。 「あの嬢ちゃん、借金もあるし、何より住んでいる場所が場所だ。暗殺とかしやすいだろうな」 「……そっか。ありがとう」  礼を告げ、オスカーは立ち上がった。もう、しゃがみ込んだときのような浮かれた気持ちはない。そんなことより、彼女の安全の方が最優先だ。 「おう、頑張れよー。そんで、いつか紹介してくれ。あ、結婚式には呼んでくれよー」 「け、けけ、結婚っ!?」 「何だ、まだそこまでいってないのか。さすがにキスはしただろ」 「そ、そもそもそんな関係じゃ……!」 「じゃあ、どんな関係だよ」  ザックが尋ねると、オスカーはもごもごと口を動かしながら視線を逸らした。赤く染まった頬が、彼の気持ちを雄弁に語っている。  しばらく待っても一向に話さないオスカーに、ザックはため息をついた。 「おまえなぁ、そんなんじゃ他の男に取られるぞ」  サァ、とオスカーの顔から血の気が下がった。それは、嫌だ。彼女が他の誰かの隣に収まるなんて、考えたくない。そんなことになったら……。 「相手の男を、どうにかしないと……」 「いや、そうじゃなくてだな」  不穏な言葉に、ザックはすぐさまツッコミを入れ、はぁ、とため息をつきながら頭を掻いた。 「おまえもさすがに分かってるだろ。相手の男をどうにかしたら、その男が好きだった元子爵令嬢は間違いなくおまえを恨むぞ」 「だ、だけど……」 「だから、積極的に手を出せって話だ。ちゃんと心を射止めて、紹介してくれよー。あわよくばその子の友人も」 「おまえなぁ……」  今度はオスカーが呆れる番だった。全くもって、この幼なじみの放蕩癖はいつになったら治ることやら。オスカーを含め、多くの人々が彼に苦言を呈しているが、未だに治まる気配はない。彼自身は「もうすぐだからー」とは言っているが……。  そうオスカーが思っていると、「はいはい」とザックが言う。 「そうやって話逸らそうとしたって無駄だからね。頼んだよ」 「……分かった」  しぶしぶ、といった感じに頷いたオスカーに、ザックは満足げな笑みを零す。 「頑張れよ」  その言葉は、どこか寂しげだった。 △▼△ (さて、彼女にどう伝えよう……?)  一週間後、オスカーは王宮図書館へ続く道のりを歩んでいた。ハルルト公爵が何か動いていることは分かったものの、その全容がうまく掴めない。どう考えてもエレイナを害する方向に行ってなくて、戸惑う。何か盛大な勘違いをしているのでは、と不安になるが、それで油断してエレイナが暗殺などされたら元も子もない。  とりあえずエレイナには注意をする、ということでオスカーは彼女の元へ向かっていた。  いつも通りエレイナに話しかけ、彼女に鍵をとってきてもらう。そして二人で禁書庫へ向かい、扉を閉める。  オスカーはいつも通り本を棚から取り出すと、机の上に広げた。  静かな時間がしばらく流れる。ふっ、とオスカーは息をついた。言わなければ。それが、彼女を守ることに繋がるのだから。 「エレイナさん」  エレイナがこちらを向いた。その顔はどことなく嬉しそうで、胸が跳ねる。この笑顔は、絶対に失いたくない。 「実は……」  言おうとして、固まる。言葉が喉の奥に絡みついて出てこない。どうにか言おうとするけれど、もし、告げることによって彼女が笑わなくなってしまったら。そう思うと、呑み込んでしまいたくなる。  だけど、それで笑顔が失われたとしても、失われるのは永遠ではない。告げなくて、彼女が死んでしまったら。そうなったら永遠に彼女を失うのだ。  それなら、どちらが良いのかは明白で。 「エレイナさんが、狙われている」  しばし、間が空いた。オスカーの言った意味を察して、エレイナが青くなる。 「それって……暗殺、ですか?」 「そうかもしれないし、そうでないかもしれない。とりあえず、エレイナさんの命を狙っている人物がいる。それを覚えておいて」  エレイナは俯くと、きゅ、と黒いスカートの裾を握った。その姿はとても弱々しくて、脆くて、儚くて。オスカーは思わず手を動かし、彼女の頬に触れた。  ハッ、とエレイナが顔を上げる。そして、引き攣らせたように笑った。 「だいじょうぶ、です」  だけど、とてもそうには見えなかった。顔色は青白く、指先は細かく震えている。  彼女は強い。しかし、命を狙われるほどの悪意なんて味わったことなどないだろう。怯えてしまっても仕方のがない。  オスカーは優しくエレイナを抱きしめた。 「大丈夫。僕が守ります。だから、怯えを隠さなくていい。怯えてしまうのも、仕方のないことだから。安心して、泣いてください」  ぽろ、と零れ落ちたのは小さな雫だった。一粒、二粒。それはやがて大量の涙となる。  エレイナは小さく肩を震わせた。スカートではなくオスカーのシャツを握りしめ、声を漏らさぬよう、涙を流す。  どれほどの時間が経っただろうか? エレイナはオスカーのシャツを離すと、精一杯微笑んだ。 「ありがとうございます」  その笑顔に、どきりと鼓動が大きくなる。 「……いえ」  絞り出せた言葉は、そんな微かなもので。オスカーは情けないと思いながらも、赤くなった顔を隠すように視線を横に向けた。  僅かな明かりに照らされた室内。外から誰かが入ってくることのない、密室。  ふと、『さすがにキスはしただろ』というザックの言葉が頭をよぎった。キス。口づけ。接吻。チラリ、とオスカーはエレイナを見た。  涙に濡れた頬。泣いたせいで僅かに赤くなった瞳。儚げなその姿に、少し、欲望がかき立てられる。 (ダメだ。さすがにこんなところで――)  だけど、ちょっとだけなら、という思いもあった。ほんの少し。触れるだけ。それくらいならやってもいいのではないか――?  しばらく時間が経って、オスカーは「エレイナさん」と呼びかけた。 「はい、何でしょう?」  その問いかけに答えず、オスカーは彼女の顎を持つと顔を近づけ始めた。十センチ、五センチ、三センチ……。次第に距離が近くなるにつれ、早まる鼓動。あと僅かで触れる――というところで、 「失礼します。エレイナ、あなたに――」  時間が、止まった。入ってきた司書長の目の前には、口づけをかわす直前の二人。  サッ、と血の気が下がった。いけない。ただ、それだけしか考えれなくて、オスカーはそのまま固まった。  ……やがて、司書長が口を開く。 「――そうですか。仕方ありません。エレイナ、あなたは仕事へ戻りなさい」 「司書長様……」 「早く!」  滅多に聞かない司書長の怒声に、エレイナは肩を震わせた後、追い立てられるように禁書庫を出た。  再度の沈黙が辺りを満たす。けれど先ほどとは違い、凍てつくような、静かな怒りに満ちた沈黙だった。 「オスカー・ルンペリア様ですね」 「――はい」  一瞬認めようか迷ったけれども、オスカーの身分証は金庫に保管されているし、彼自身有名だという自覚はあった。素直に頷く。 「うちの従業員に手を出されるのは、困ります。本来は永久に出禁にしたいところですが、あなた様もお仕事があるでしょう。ですので、一週間の出禁とさせていただきます」  ぎゅ、と心臓が握り潰されるかのようだった。しかしそうなるほどのことを、オスカーはしたのだ。別に、恋愛関係になるのは咎められることではない。だが、状況がいけなかった。  オスカーがキスをしようとしたのは、禁書庫の中。禁書庫には必ず一人と司書しか入ることができず、その中で余計なことをして長く居座るのは、他の利用者にとって迷惑極まりない行為だ。出禁をくらうのも、仕方のないことだろう。 「――分かりました」  その声は、とても寂しげだった。
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