本の箱庭

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 ほとほとと、エレイナは人気(ひとけ)のない王宮図書館を歩いていた。どこの窓もカーテンが締め切られており、隙間からうっすらと茜色が漏れている。  間もなく夜の帳も降りる。エレイナは歩きながら盛大なため息をついた。心がぽっかりとしていて、虚しくて、泣いてしまいたい。  王宮図書館が閉まった後、エレイナは司書長にたっぷり叱られた。それは別に良かった。叱られて当然だということを、エレイナはしてしまったのだから。  しかし。  ――オスカー・ルンペリア様は一週間の出禁とさせていただきました。  その、司書長の言葉が耳から離れない。私のせいで、オスカー様の仕事に支障をきたしてしまった。そのことがやるせなくて、できるのならば過去に戻ってやり直したいと願ってしまう。  少しずつエレイナの歩みが遅くなり、……止まる。エレイナは頭上を仰ぎ見た。 (何をやってるんでしょう、私……)  王宮図書館にやって来れて、再び本を手に取れて、浮かれていたのかもしれない。雇ってもらっている身なのに、仕事を放り出して、……。  全くもって情けない。これからはもっとちゃんとしなければ。  そう切り替えようとするけれど、どうしても無理で。じくじくと痛む胸を、きゅ、と握った。 「エレイナ」  降ってきた声に、エレイナは振り返る。そこには気まずそうな表情のアーシェラがいた。彼女はエレイナに近寄ると、ポン、と頭に手を置いた。  ――オスカーと同じように。  じくり、と胸が痛んだ。オスカーと似ているけれども、彼ほど温かく、大きくない手のひら。鼻の奥がツンとした。  アーシェラは少し撫でると、その手を下げた。 「これで、良かったのよ。あなたも分かっていたでしょう?」 「……何の、ことでしょう?」  エレイナは必死に震える唇を動かした。知りたくなくて、認めたくなくて、とぼける。だけど、アーシェラはそれを許してくれなかった。 「……オスカー様とのことよ」  どきり、と胸が跳ねた。 「結局、こうなるしかなかったのよ。あなたとあの方じゃ、身分が釣り合わないわ。だから――」 「分かっています!」  静かな図書館にエレイナの声が響き渡った。その声は反響し、遠くへと消える。 「分かっていますよ、そんなこと……」  ぽつり、と寂しげな声が漏れた。  最初から、分かっていた。私たちの間には身分差があって。ただ、一緒にいたい。そんなことさえも認められない仲で。  だから、見ないふりをしていた。気づいていないふりをしていた。――この、恋心を。  エレイナの肩が大きく跳ねる。静かで、悲しげで、寂しげなしゃっくりの声が、小さな彼女から零れ落ちる。  アーシェラはそんな彼女を、痛ましげな瞳で見つめた。 「エレイナ……」 「知ってたんですよ、それくらい……わかって、い、いたん、です」  そう言って、エレイナはしばらくの間泣き続けた。  泣き止む頃にはもうどっぷりと日が暮れていた。「ほら、行きましょう」というアーシェラの言葉に押されるように、エレイナは出口を目指した。  王宮の敷地内は昼間とはまた違う様相を見せている。今日は舞踏会が開かれてないためか、活気に満ちた雰囲気はどこへやら。シン、とした緊張感に包まれており、闇の中から何かがこちらを見ているような気さえする。  けれどもそれは少しの間のことだった。門に近づくにつれ、少しずつ何やら叫び声が聞こえてくる。何でしょう? エレイナが首を傾げたときだった。 「うちの娘はまだか! まさか何かの事件に……!?」 「もう勘弁してください! 知らないものは知らないんですよ!」  焦りと怒りを含んだ声と、今すぐにでも泣きそうな声。片方はエレイナにとって、馴染みのありすぎる声だった。アーシェラも聞き覚えのある声で、二人は顔を見合わせると足早に門へ向かった。  そこには、数人の門兵とエレイナの父がいて。エレイナの父がどうやら門兵に食いかかっているようだった。 「……父様? 何をしているのですか?」  エレイナの声に、父が彼女の方を見た。「エレイナ!」と駆け寄って、その瞳が赤く染まっているのを見つけると、再び顔を真っ赤にする。 「何があった!? こんなに目を腫らして……」 「大丈夫ですよ、父様。ただ、ちょっと仕事で失敗してしまって……」 「そうか。……気にしなくて大丈夫。誰にだって、そんなときはある。父様なんて失敗してばかりだ。だから取り返せばいい。些細な失敗なんて誰も気にしなくなるほどの、大きな成果をこれからあげればいいんだよ、エレイナ」  その言葉はじんわりとエレイナの胸に染み込んできて、暖かな思いに、思わず目頭が熱くなる。だけどここで泣いたらまた父に心配をかけるから、エレイナは精一杯微笑んだ。 「はい、父様」  エレイナの笑顔に、父は少しだけ瞳を揺らした。何故でしょう? とエレイナは首を捻る。 「エレイナ」  だけど、それを深く考える前に、アーシェラがエレイナに声をかけた。彼女は安心したように笑って、手を振る。 「じゃあ、私馬車を待たせてあるから。また、明日」 「はい、ありがとうございました。また明日です」  アーシェラの背中が人混みに紛れていく。その背が見えなくなるまで見送って、エレイナは父の方を見た。 「帰りましょう、父様」 「――ああ、そうだな」  父はどこか寂しげな笑みを浮かべて、歩き始めた。  このとき、もし無理矢理にでもその笑みを理由を聞いていたら。きっと、あの悲劇は起こらなかっただろう。 △▼△  それからエレイナは頑張った。父に言われた言葉を胸に、失敗を取り返すように働いた。  けれど、時折何かを探すように辺りを見回す。一週間は、仕方がない。そう自らに言い聞かせていたけど、出禁の一週間が過ぎても彼は見当たらなくて。同じような金の髪を見つけては一喜一憂する。そんな日々だった。 (……あそこは、『本の箱庭』だったのです)  ちら、と禁書庫へ続く扉を見ながら、エレイナはそう思った。  本に囲まれた箱庭。本で作られた箱庭。その中でだけ、私たちは二人きりでいられる。触れ合える。  ……その箱庭も、あっけなく壊れてしまったが。  はぁ、とエレイナはため息をつく。過去には戻れない。分かっていても、願ってしまう。せめて、もう一度でもいいから、彼に――。  フルフルと首を振った。これじゃあダメ。エレイナはパチン、と頬を叩く。きっと、これで良かったのです。そう、きっと。 (嬉しいことでも考えましょう)  とは言っても、嬉しいこと。ううん、と唸って、はた、と思いついた。 (そういえば、そろそろ借金が返せますね)  貯金の額を頭で計算して、頷く。ちょっと生活費が厳しくなるが、またしばらくすると利子が増えてしまう。なら、そろそろ借金を全部返した方が良いだろう。  次の休みは明日。早速返しに行こう、と意気込んで、エレイナは仕事を再開した。 △▼△  翌日。トルフィーラ伯爵邸を訪れると、ちょうど伯爵はいないようだった。とりあえず執事にその場でお金が足りてるか確認させ、証明書も書かせると、エレイナは帰宅の途につく。  王都の端の端の端。そんなところに今にも壊れそうな、だけどなんとか長年しつこく耐えている寂れた宿がある。そこが、エレイナたちが仮住まいをしている宿だった。  本来なら一年以上ずっと宿を借りるなんて迷惑極まりないことだが、この宿の寂れ具合は尋常ではなく、観光目的の客なんて来やしない。だからむしろエレイナたちは有り難がれていた。 「ほら、母様。おかゆですよ」 「ごめんなさいね、エレイナ。迷惑かけてしまって……」 「大丈夫です。それに借金も返せましたし。しばらく家計がきつくなりますが、貯金のことはあまり考えずにいられます。もう少し貯まったら、アパートの部屋を借りる余裕も出てきますよ」  エレイナがそう言うと、母はベッドの上でくしゃ、と顔を歪めた。  先日から母は体調を崩して寝たきりになっていた。もう、没落してから一年が経っている。ここにきて疲れが一気にやって来たのかもしれない。  疲れたように熱っぽい息を吐く母に、エレイナは眉を下げた。どうにかして母の肩代わりをしたいけれども、今の生活では無理。やるせない思いが湧き上がってきて、押し殺す。こんなこと、考えてはいけません。 「大丈夫ですよ、母様。きっと、もうすぐ楽になりますから」  エレイナのその言葉に、母は泣きそうな顔で頷いた。 「ええ、きっとそうね。きっと……」  このときの無理に微笑む母の真意を、エレイナは間もなく知ることとなった。
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