本の箱庭

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 雲が出ているのだろう。窓から差し込む月の光が、時折翳っては元に戻り、また翳る。そんな、静かな晩だった。  薄暗く、埃っぽい牢獄の中。エレイナは膝と膝の間に顔を埋めるようにして座っていた。伏せられた顔からは、なんの表情も読み取れない。  そのとき、扉を開く音がエレイナの耳を打つ。そして二つの足音も。  足音はゆっくりと響き渡り、エレイナのいる牢の前で止まった。 「エレイナ・カールレンだな」  その言葉に、エレイナは何の反応も返さなかった。微動だにせず、ただただ時が過ぎるのを待っている。  はぁ、というため息が、やけに大きく響き渡った。とても面倒くさそう。それなら来なくていいのに。エレイナは心の中で呟いた。 (……せめて、静かにさせてください。父様と母様の死を、悼ませてください)  だけどそれは許されないことだろう。何しろエレイナは親殺しだと思われている。殺人者が殺した相手の死を悼むなど、許されるはずがない。遺族から罵倒される。  ……その遺族も、エレイナ一人だけれど。  腕の下で、エレイナは歪な笑みを浮かべた。 「とりあえず、幾つか質問をさせてもらう。まずは――」  エレイナの返事も待たずに紡がれる言葉。拒否権なんてなかった。  だけど。 「はいはい、団長は堅苦しすぎますよ。怯えてるじゃないですか」 「おまえは緩すぎるぞ、ザック」 「ですけど、こういうときは俺みたいにゆるーくやった方がいいんですよ。どうせこの子犯人じゃないですし」  犯人じゃない。エレイナは目を見開き、顔を上げた。格子の外にある深緑の瞳とぶつかる。エレイナに見つめられ、彼――ザックは口角を上げた。 「うん、そうだよ。君が犯人じゃないってことは分かってる。だから安心してくれていい。少ししたら出られるだろうから。何か必要なものはある? 幾らでも持ってくるけど」  そう告げる彼を、エレイナは呆然と眺めた。だけどすぐに気を取り直し、彼の言っていたことを考える。必要なもの……。 「――手紙を」  無意識に零れ落ちたのは、それだった。 「父様と母様が、いなくなる前に残した手紙……です。宿の机の上に、置いてあります。――最期の手紙、なので……」  最期。そう、最期だ。父様と母様はもういない。あの手紙が、エレイナの手元に残った遺品。  エレイナの言葉に、ザックと、団長と呼ばれた男性が顔を合わせる。頷き合い、団長が体の向きを変えた。 「では、私が取りに行く。恐らく中身が調べられるだろうが、ちゃんと傷つけずに届けると約束しよう」  コクリ、とエレイナは頷いた。手元に戻って来るのなら、何だっていい。父様と母様の残したものなのだから――。  そんなエレイナを見て、団長は少しだけ口元を緩めると、歩き始めた。足音が響き渡り、しばらくして扉の開閉音。彼の足音は、もう聞こえない。 「さて、エレイナさん。少しだけ話をしよっか」  そう言って、ザックは表情を変える。真剣な瞳がエレイナを射抜いた。 「どうしてこうなったのかは、オスカーにでも聞いて。諸悪の根源はあいつらだけど、俺を含め、油断したオスカーも悪いから」 「あの……お知り合いで?」 「俺とオスカー? うん、そうだね。腐れ縁ってやつかな」  へらり、とザックは笑う。その笑顔はとても嬉しそうで、ああ、とエレイナは思った。 (本当に、大切なんですね……)  多分、この人はなかなか他人を信じない。けれどオスカーの話をするときは笑みを浮かべていて、彼のことを信頼しているのだと、大切に思っているのだと、簡単に分かった。  ゆるりと笑みを浮かべる。 「それで、」  ザックが言った。 「あなたに一つ、お願いがあるんだ」  再び、真剣な表情に戻る。エレイナは首を傾げた。何でしょう? もしかして、二度とあの方に近づかない、とか……?  サッと青ざめるエレイナを見て、ザックはほんのりと笑みを浮かべる。 「大丈夫。それほど難しいことじゃないから。ただ――」  エレイナは唾を飲み込む。ほんの僅かな、けどエレイナにとっては永遠にも等しい時間、沈黙が辺りを支配した。  ザックがゆっくりと口を開く。 「このままずっと、オスカーの傍にいて欲しいんだ。多分、あいつは君を傷つけたことを責めてしまうだろうから。だから――」 「もちろんです」  食い気味に、エレイナは言葉を発した。そんなの当たり前。だって、私は……。 「私は、あの方のことが好きですから」  今まで怯えて口に出せなかった気持ち。けれどするりと口から出てきた。  微笑みながらも意志の強い瞳でそう語るエレイナに、ザックも自然と目元を緩める。 「それなら、良かったよ」  そう言って彼は一歩下がり、牢の中のエレイナに向けて頭を下げる。 「では、またいつか」 「はい、またいつか」  エレイナの返事に、ザックは笑みを浮かべながら牢の前をあとにした。 △▼△  重い扉を開けて夜空の下へと出てきたザックに、オスカーは駆け寄る。 「ザック! エレイナさんは……!?」 「落ち着けよ。大丈夫だから。ちょっと話しただけだし」 「だが……!」 「はいはい、黙れ黙れ。動揺するのは分かるが、うるせーから。叩きのめしたくなるから。中でのこと話さないぞ」  若干の面倒くささを含んだ声に、オスカーは押し黙る。中での話は、聞きたい。未だ一文官であるオスカーには牢に入る権利などないのだから、ザックの話はたいそう貴重だった。  そんなオスカーを見て、ザックはニヤリと笑みを浮かべる。 「おまえ、本当あの子のこと好きなんだな」 「……っ、ああ、好きだよ。悪いかよ」  照れながらも言うオスカーを見て、ザックはニマニマと笑いながら頷く。 「いやぁ、変わったなぁ、おまえも。以前だったら絶対に認めなかっただろうに」 「うるさい」  穏やかな空気が二人の間に流れる。だけどそれはほんの一時(いっとき)のことだった。  ザックが笑みを消すと、途端に緊張感が漂い始める。オスカーも自然と表情を消した。  ゆっくりと、ザックは口を開く。 「それで、何か分かったか?」  その言葉にオスカーは頷き、神妙な面持ちで語り出した。 「部下に色々と調べさせた。そしたらある酒場で、こう大声で言ってた人物がいたらしい。『さすが元子爵。世間知らずで騙すのが楽だった。これで後はあいつらに任せれば金が手に入る』って」 「雇われた奴らか」 「恐らく。ここ数年の間に没落した貴族は幾つかいたが、子爵はあまりいない。しかも、話していたのはつい一昨日。子爵夫妻が殺されたと思われるのは昨日だから、辻褄は合う」 「なるほどな……」  ザックは顎に手を当てた。しばらく考えた後、オスカーを見る。 「それで、犯人は?」 「――僕の親戚と、娘を僕の妻にしたい人たち」  はぁ、とザックがため息をついた。憂鬱そうで、オスカーは少し申し訳なくなる。  彼らがエレイナを陥れた理由は単純だった。親戚たちは、没落令嬢を侯爵夫人にすると家格が落ちるため許せなくて、自らの娘をオスカーの妻にしたい者たちは言わずもながら。ハルルト公爵が動くと思っていて、彼らの方に注意を向けなかったオスカーらの落ち度だった。  そう言えば、ハルルト公爵は結局何をしたかったんだろう? オスカーは心の中でつぶやく。動いていたことは、間違いないはず……。 「じゃあ、とりあえず確実な証拠集めて、捕まえるか」 「――ああ、そうだな」  ザックの言葉に、オスカーはどこか浮かない表情で返事をした。そして、くるりと踵を返す。その背に、ザックは話しかけた。 「ああ、そう。団長の許可は絶対取るから、全部片付いた後、あの子を迎えに行けよ」 「は!?」  思わず、オスカーは振り返る。驚いた表情の彼を見て、ザックはニヤ、と笑みを浮かべた。 「逃げるなよ」
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