本の箱庭

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 そして二日が経った。  一つの足音がゆっくりと響き渡る。徐々に徐々に足音の間隔が開くようになり、エレイナがいる牢の少し手前で止まった。沈黙があたりを包み込み、エレイナは首を傾げる。どうしたのでしょう?  しばらくして、意を決したように足音が再び近づいてきた。普段よりも少し早めに。  そしてエレイナの前に現れたのは――。 「こんばんは」 「……こんばんは、エレイナさん」  オスカーだった。月明かりは彼のところまでは届かず、金の髪は闇に溶け込んでおり、あまり表情が見えない。だけどその声から緊張しているのが分かった。 「……今、開けます」  そう言ってオスカーはしゃがみ込み、牢に近づいた。月光の下に躍り出る。少しだけ窶れているよう。その顔色が悪いのは、果たして月明かりのせいか、否か。  しばらくして、キィ、という音を立てて格子の一部が開いた。彼が手を差し出す。エレイナは立ちあがって傍まで行くと、彼の手を取った。冷えきった手のひらに、何となく胸騒ぎがした。 「ありがとうございます」  牢を出てエレイナが礼を言ったが、オスカーは頷くだけ。用が済んだとばかりに離れかけた手のひらを、ぎゅっと握りしめて離れないようにする。……もう、離したくはありません。  そんなエレイナの行動に何を思ったのか、はたまた何も思っていないのか、オスカーもそっと、僅かに握り返した。どきり、とエレイナの胸が跳ねる。触れた手が熱くて、まるでもう一つの心臓になってしまったよう。 「……行こうか」 「はい」  オスカーの言葉にエレイナは頷き、歩き始めた。二人の間には静寂が横たわっていたけれど、そんなこと気にならない。ただ、触れられている。それだけで幸せだった。  外に出ると、柔らかな月光が目に差し込む。朧月夜。霞がかった月はぼんやりとしていて、あやふや。  オスカーはエレイナの方を振り返ることなく、どんどん進む。やがて王宮の門に着くと、馬車に乗せられた。オスカーは乗らずに、にっこりと作り笑いを浮かべてエレイナに言う。 「今日は僕の屋敷に泊まって。僕は仕事があるから、ここで。じゃあ」 「え、あ……」  パタン、と閉じられる扉。しばらくした後、馬車が動き出した。 (ど、いう……ことでしょう?)  何故、私は今馬車に乗っていて、どうして、あの方は隣にいない? 疑問が脳内で渦巻く。分からない。彼は、何を思っているのでしょう?  エレイナは馬車の中で、ただ呆然とするしかなかった。一人きりの馬車。ほとんどない振動。高級な、ふわふわのクッション。何だか場違いなところへ取り残されてしまったようで、不安でたまらなかった。  エレイナがそわそわとしている間に、馬車が止まった。扉が開けられ、下ろされる。  目の前には、豪奢な屋敷があった。エレイナがかつて住んでいた子爵邸よりもさらに煌びやかで、オスカーの話を信じるのならば、ここがルンペリア侯爵邸だろう。  それは分かった。問題は――。 「私、どうしてここに……?」  エレイナがほうけている間に、中から人が現れて連れて行かれる。あっという間に風呂場へと連れて行かれ、全身を洗われたかと思うと湯船に入れられた。しばらくして風呂から出され、元貴族だったエレイナでも着たことのないほど質の良いワンピースを着せられる。食堂へ連れて行かれ、待っていたのは多くの高級料理たち。味のしないそれらを何とか食べ終わると、次はどこかの部屋に連れていかれ、寝巻きに着替えさせられた。 「では、おやすみなさいませ」  閉じられる扉。エレイナはとりあえずベッドに横になることにした。  ふんわりと適度な柔らかさに全身を包み込まれる。疲れた体にはまさに癒し。  けれど、眠気はやって来なくて。 「いったい、どういう状況なんでしょうね……」  ぽつり、と零れ落ちた言葉は、どこか寂しげに響いた。  翌朝。エレイナが目を覚ますと、すぐに着替えさせられ、朝食を食べることに。昨夜は考え過ぎてて眠れなかったので、少しだけ頭がぼうっとしている。全部、あの方のせいです。  食事を終えると再び着替えさせられる。ドレスではなく平民らしい、シンプルで質の良くないワンピース。少し、不安を覚えた。  そして嫌な予感ほど当たるもので。着替えた後、エレイナは外に放り出された。どうやらこのまま帰れとのことらしい。 (帰る……? そんなこと、できるわけがありません)  昨夜からずっと、オスカーとまともに話せていない。最後に見たのは、作り笑い。それで去れ? できるわけがない。  ふと、数日前のことを思い出す。 『このままずっと、オスカーの傍にいて欲しいんだ。多分、あいつは君を傷つけたことを責めてしまうだろうから。だから――』 『もちろんです』  エレイナはそっと目を閉じ、そして少し移動して、門のところで座り込むことにした。 △▼△  オスカーは馬車の中で重たいため息をついた。背を持たれかけさせ、目を閉じる。瞼の裏に浮かんだのは、戸惑った表情を浮かべる彼女だった。  我ながら未練たらしい。そう思いながら、オスカーは必死に面影を消そうとする。けれど決して消えることはなくて、諦めることにした。しばらくすればきっと忘れる。そう言い聞かせて。  オスカーは、もうエレイナと顔を合わせないつもりだった。見かけても、言葉は交わさない。そう決めた。それを彼女も望んでいると、思い込もうとした。  だけどほんの少しだけ期待してしまう。もしかしたら、そんなことはないかもしれない。彼女は、僕の手を取ってくれるかもしれない。――結婚、してくれるのかもしれない。  再度オスカーはため息をついた。これはかなりの重症だ。もう、諦めなければいけないというのに。  そんなとき、馬車が止まる。扉が開けられ、そこにいたのは――。 「こんばんは」  にっこりと作り笑いを浮かべるエレイナだった。 △▼△  エレイナはオスカーを見つめた。目を見開き、動揺しているよう。その隙に彼の手を取り、絶対に離さないようぎゅっと握りしめた。 「なんで、エレイナさんが……」 「もちろん、話し合うためです」  意思の強い瞳で、エレイナはオスカーを見る。オスカーは気まずげに視線を逸らした。きっと彼も、エレイナに酷いことをしたと分かっているのだろう。それでもエレイナは口を止めない。 「何で、こんなことをしたんですか」  予想はついていますが。そう、エレイナは心の中で付け足す。だけど彼の口から聞きたかった。全てをさらけ出して欲しかった。 「ちゃんと、話してください。私はあなたのことを、あなた自身の口から聞きたいのです」  ――好きだから。たとえ理解し合えなくとも、せめて本音を知りたかった。  その言葉にオスカーは視線を揺らす。それでもエレイナはじっと彼を見つめ続けた。……しばらくして、観念したようにオスカーがため息をつく。 「……エレイナさんは、僕のことが憎くないのですか? 僕と関わったから――僕のせいで、エレイナさんのご両親が……」  オスカーは口を噤んだ。言ってはならないことを言ってしまった。そんなふうに思ったのだろう。  だけど、エレイナは全く気にしなかった。 「憎くはありません。だって、あなたのせいじゃないですから。悪いのは、襲った人たちです。それに……父様と母様は、手紙で言いました。『王都で幸せに』って……。だから、私は幸せになります。それが、父様と母様の願いですから」  エレイナはにっこりと笑った。牢にいる間、ずっと考えていた。死んでしまった父と母のために、何ができるのか。そのとき、ザックから手紙が届けられて……幸せになることが、二人への弔いになると、そう思ったのだった。  そんなエレイナに、オスカーは「やっぱり、エレイナさんは強いね」と告げる。エレイナは首を振った。 「いえ、強くなんてありませんよ。――そう言えば父様と母様を襲ったのは、やはりご親戚の方々に雇われた者たちですか?」 「あ、うん……そう。あと、自分の娘を僕の妻にしたい人たち」 「だったら尚更です。あなたは全く悪くないじゃないですか」 「だけど、」  言い募ろうとするオスカーの口に、人差し指で触れる。それだけでオスカーは黙りこくった。不安げに瞳を揺らす彼に向けて、エレイナは微笑む。 「私が言っていいことなのかは分かりませんが、ルンペリア侯爵の嫡男とはいえ、あなたはまだ若造です。ただの人です。できないことがあって当然なのですよ」  オスカーは目を見開いた。驚いた表情を浮かべた後、嬉しそうに、安心したように笑みを零す。 「そっか……そう、だね」  その笑顔に、エレイナも笑みを深めた。 「そうですよ。だから、その……えっと…………」  脳裏に浮かんだ言葉に、エレイナは頬を朱に染める。さ、さすがにこの言葉を言うのは……恥ずかしい、です。  俯いて口をぱくぱくとさせるエレイナに、オスカーも目を細めた。愛おしげに彼女を見つめ、そして抱きしめる。 「ひゃ!」 「エレイナさん、一つお願いがあるんだけど」 「な、何でひょう……!?」  動揺して声が裏返ってしまい、エレイナはいっそう顔を赤らめた。……恥ずかしい。穴があったら入りたいです!  うう……と心の中で呻いていると、ふっ、と耳に息がかかる。それほどまでに、近い距離。バクバクと鳴り響く心臓がうるさい。 「僕と、これからも一緒にいてくれませんか」  少しだけ強ばった言葉。オスカーの手が僅かに震えているのが、布越しに伝わる。  きっと、緊張しているのだろう。そう思うと、自然と答えは零れ落ちていた。 「はい」  ふっ、とオスカーの体から力が抜ける。安堵の息が耳に吹きかかって、こそばゆい。ふふ、と笑い声が漏れた。  そして二人は向き合うと、幸せそうに微笑みあったのだった。
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