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第3話 それぞれのスタート
「って話」
「ふうん。それで軽音部に入っちゃったんだ」
「そう。やっぱ、断れないよー。顔も覚えられてたし」
「変装しとけばよかったのに」
「はあ?変装して入学?」
「忍びの世界では結構フツーだよ」
忍者が大好きな杏が呑気に言う。天然に『ド』がつく性格の杏なのだが、成績は優秀で医学部を目指している。杏の母親も現役の医師であり、しかし母子家庭である。摩耶にとっては杏のお世話もライフワークになっていて、どちらも相手の保護者と言い張っている仲だった。
「通用する訳ないでしょ」
摩耶は呆れて言い返した。
「ほう。でもさ、軽音部って全然路線違うじゃん。摩耶、難しくて退屈な奴専門でしょ」
「クラシックと言ってくれ。いいのよ、POPSもアニソンも弾いてるし。憧れのピアニストのサオリさんだって、ずっとクラシックピアノだったのよ」
「あー、『あの世の終わり』とか言うグループだっけか」
「ちょっと違うけど多分それ」
「じゃ、ピアノ習ってるのは辞めちゃうの?」
「ううん、そっちは続ける。ピアノの先生には大変よーって言われたけど、もうちゃんと発表会の曲が用意されてたし」
「へえ、いつあるの?発表会」
「うーん、夏休み入ってすぐ、だったかな。7月の二十何日か。杏は部活、どうするのよ」
摩耶は話題を無理矢理切り替えた。
「へへ、入っちゃった。陸上」
「えー?陸上?なんで? あ、安土君とおソロ?」
「あんなの関係ないよ、即、レギュラーって言われたからさ、あんま技術とか関係なさそうだし」
「怪しいな。安土君、めっちゃアプローチしてたじゃん中学の時。カッコいいし足も速いし秀才だし、杏は何が気に入らないのよ」
安土君とは、摩耶と杏の中学時代の同級生、安土尊(あづち たける)の事だ。陸上部のスプリンターで、今は私立の男子進学校へ通っている。杏にぞっこんで盛んにアプローチしていたが、杏の天然ボケに躱され続けてきた気の毒な男子だった。
「そう言う問題じゃないよー。彼は空気みたいなもんだから意識しないの」
「それが恋に繋がるのよ、一般的には」
「うるさいな、摩耶だってどうするのよ。浜名君とはすれ違いカップルでしょ?」
浜名君とは摩耶の彼氏である浜名柊(はまな しゅう)。野球部の内野手で市立高校で野球を続けている。自転車で通っており、電車通学の摩耶と接点がないため、会う機会が減っているのは事実だった。
「あー、それはそうなんだけど」
摩耶は溜息をつきながら1年3組の扉を開けた。高校の野球部って日曜も練習って言ってたし、どうしようもないよ。
一方、進はフラフラと教室に戻ってからもぼーっとしていた。摩耶の方をちらちら見る。何てことない普通の女の子なのにな、どこからあの表現力や音色が出てくるのか。数学の公式も英語の単語も、全てが音符の連なりに見えてくる。俺、もしかして音楽に恋しちまったかな。下校時の駅のホームでも電車の到着メロディまで華麗に聴こえる。進は首を振った。人間、春には馬鹿になるっていうじゃんか。
進は電車が入ってくる直前、反対側のホームに摩耶を見つけた。他の女子と楽しそうに喋っている。何てことない普通の女の子なのにな。あれ?俺、もしかして音楽じゃなくてあの子に恋しちまったのか?ああ、やっぱり春は人間が馬鹿になる季節だ。進が再び首を振った瞬間、目の前で電車の扉が閉まった。ったく何やってんだ。
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