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第25話 眠り姫の目覚め
グレートブリテン及び北アイルランド連合王国
United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland
ウィンザー
Windsor
森と小川に囲まれた屋敷
A house surrounded by woods and streams
【眠り姫の目覚め Waking up the sleeping beauty's eyes 】
花や果実の彫刻で装飾されたレトロな雰囲気のドレッサー、その鏡台の前に座り、艶のある栗色の髪を梳かす少女の姿がある。
鏡には、美しく穏やかな表情をした少女が映し出されていた。
「いつの間にか眠ってしまったのね」
少女が呟きを漏らす。
少女が座る背後の壁には、ロセッティの名画が飾られている。
(何か夢を見ていた。不思議な夢、とても懐かしい気持ちが込み上げてくるの… 何かしら? 何か大切なことが起こりそうな予感がする)
少女は鏡越しにロセッティの名画『ベアタ ベアトリクス』を見詰めた。
背景にフィレンツェのヴェッキオ橋が描かれたベアトリーチェの美しい容姿を見るたびに、アクエリアスは自分の内部にある何かがそれに重なるように感じてしまう。そして愛の女神と共に、絵の背景に並ぶダンテ アリギエーリの姿が、アクエリアスには魔王の存在を想像させるのだ。
この絵は、ニューヨークに住む母の友人から送り届けられたもの。
『送り主は、私が一度も会った事のない人の筈!?』 のそれが、何故か絵画の裏には ”親愛なるAquariusに贈る” と記されている。
母親には、「貴方が生まれる前より随分とお世話になっている方なの、いずれ御会いできるわ』と言われていた。
アクエリアスは贈られたこの絵画が大層気に入り、朝夕に、それはこの名画を見詰める度に、ひとりやわらかな空想に耽っていたのである。
「アクエリアス。少し早いけれど夕食にしましょう!」
階下から母の呼ぶ声が聞こえてきた。
「ええ。解ったわ!」
ドレッサーの前で立ち上がったアクエリアスが、部屋のドアを開けて応えた。
二階に六部屋ある間取り、アクエリアスは帯状の装飾の付いた壁紙がお洒落な廊下に出て、螺旋の階段を下りて行く。
「あら。良い香り」
アクエリアスが階下から漂う甘い匂いに反応する。
「何とも言えない甘い香り。何時だったかしら? 遠い昔に、この香りの中で楽しい食事をした記憶がある。そうよ、マッシュポテトよ! ふんわりと空気を中に含ませて、作られているのよ。その上には香ばしいアーモンドスライスがかけられていた。あれは何時のことだったかしら?」
アクエリアスが思案しながら、一階のリビングダイニングに姿を現わす。
「お母様。マッシュポテトの好い香りがするわね!」
ゴシック風に装飾されたリビングダイニング。白いテーブルクロスが敷かれた食卓にはカトラリーが並べられ、美味しそうな料理が既にテーブルの上に用意されていた。
「そうよね。甘く優しい香りに抱かれたような気持になるわ」
アクエリアスの母親が答えた。
「もう手伝う事は何もないのね!?」
夕食の準備がなされた様子を確認したアクエリアスが自分の席に着座する。
二人の兄は大学に進学し、家から離れ一人暮らしをしていた。父は私が生まれる前に亡くなったのだと母から聞かされていた。
「マッシュポテトだなんて、何時以来かしら? お母さまが、マッシュポテトを作った事なんてあったのかしら? 私、もしかして記憶にないかも?」
「そうねえ」
母は考える素振りをしている。
「食べても好い?」
アクエリアスが母に尋ねる。
「いただきましょう!」
「頂きます!」
母娘二人で食事前の挨拶を唱えた。
アクエリアスはスプーンを使い好い香りのするマッシュポテトを取り皿に移すと、大きく一口、やわらかみのある温かい甘味を口に含んだ。
「美味しい!!」
なめらかな舌触り、甘味と旨味がアクエリアスの鼻腔に広がる。
しかし、アクエリアスの大きな瞳からは何故か涙がこぼれた。
「美味しい。でも涙が出るの… 解らないわ⁉ こんなに美味しいのに何故、涙がこぼれるの?」
アクエリアスの大きな瞳からこぼれ落ちた涙が、桜色の頬を伝い、真っ白なテーブルクロスを濡らした。
「アクエリアス…」
目の前に座る母親が娘を気遣う。
「おかしいの‼ だってこの食卓に並べられた全ての料理が、食べなくても全部美味しいのがわかるんですもの」
テーブルの上に灯されたキャンドルライトが、アクエリアスの頬に伝う涙を照らしている。
「タマネギのドレッシングでさっぱりと仕上げたグリーンサラダ、ふんわりと空気を含ませ作ったマッシュポテト、酸味が嬉しいキャベツのマリネ、パスタはミニトマトのカペッリーニ、このサルティンボッカのサクサクとした食感が、私、大好きだわ。サルティンボッカに使う生ハムは、必ずその場で切り分けて貰うのよ…」
「アクエリアス。貴方にこれを…」
母は、誕生月の星座をあしらったペンダント・ネックレスを娘に差し出す。
「みずがめ座のペンダント・ネックレス。大切に保管しておいたの!」
母親はアクエリアスにそう告げる。
遠い過去、双子の姉妹に両親が与えてくれたペンダント・ネックレス。星座のあしらわれたペンダントトップにはそれぞれに色違いの宝石が嵌め込まれていた。
アクエリアスは差し出されたペンダント・ネックレスを握り締める。
「お母様。この料理、誰が作ったの?」
アクエリアスが泣きながら母に尋ねる。
「おじさまよ!」
「おじさま!? セラヌ… おじさんが来てるの?」
「そうよ。思いだした? あなたの大好きなセラヌおじさん」
アクエリアスは黙って頷いている。
「時が来たのよ、貴方が総てを思い出す時が… ありがとう、アクエリアス。私の大切な娘でもあり、私の大好きな妹でもあるアクエリアス、貴方の御蔭で私は再び命を与えられ、子供達ととても幸せに暮らすことが出来たの。そして貴方ともこんなに素敵な日々を過ごさせていただいた。貴方にはどのように感謝しても感謝しきれない気持ちよ! 何時もそう思い生きて来たの…」
母親がアクエリアスに感謝の気持ちを伝える。
「いいえ。私の方こそ幸せだったわ。姉さんの娘に生まれ変わって、いつもたくさんの愛情をいただいていたもの…」
アクエリアスはテーブルに置かれたナプキンを使い、両手で目頭を押さえ涙を拭っている。
「全て思い出したわ!! おじさんが、ここに居るのね!?」
アクエリアスが椅子から立ち上がり、リビングダイニングを見回す。
「おじさん。出て来て頂戴!! 居るんでしょう!? セラヌおじさん!!」
アクエリアスは大きな声でセラヌの名を呼んだ。
その声に呼ばれ、厨房から男が姿を現す。男は、美しい肢体にフォーマルなスーツを見事に着こなしている。
「デザートを作っていたんだ。ジャックにも教えていない僕だけのオリジナル」
男はそう言うと、アクエリアスの前に片膝を付く。
「美しき眠り姫、貴方をお迎えに上がりました!」
セラヌはアクエリアスの瞳をしっかりと見つめて、口上を述べる。
「おじさん」
アクエリアスはセラヌのもとへと勢いよく飛び込んで行く。そして優しいセラヌを抱きしめる。
「16年もの、時間が進んだのね?」
「そうだ。正確には16年と11か月の月日が流れた」
優しい香りのするアクエリアスに、抱き締められたセラヌが答える。
「ジャックは勿論、元気に暮らしているのね?」
「勿論、健康ではある…」
「健康ではある? …ジャックに何かあったのね⁉」
アクエリアスの瞳からは涙が止まらない。
「もう一秒も待てない! 私を、直ぐにジャックのもとに連れて行って! おじさん、お願い!」
ジャックへの募る思いが、アクエリアスのやわらかな唇を小さく揺らしていた。
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