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男は例のごとくメモ帳を睨みながら、ある家の前に立っていた。情報によると、『怪異』が起こっているのはこの家だという。たしかに、ここから何か怪しいものを感じる。メモ帳にはこの家の写真と、茶色の猫の写真が挟まっていた。実は、『怪異』の影響を受けているのはこの猫だ。
この猫は、この家で飼われている猫だ。だがこれには、かつてこの家の息子だった男の子の「意思」が宿っている。この猫は体も心も、人間である男の子の「意思」によって動かされているのだ。しかもおそらく、男の子自身は、自分が猫の体を借りていることに気付いていない。
周辺で数人に取材をしたところ、その男の子は数年前に交通事故で亡くなっているらしい。もともとシングルマザーだったその男の子の母親は、それでひどく塞ぎ込んでしまったという。それで彼女は、哀しみを紛らわせようとこの猫を飼い始めたのだ。
つまり、猫に宿った男の子の意思は、本来この世に存在し得ないものなのだ。そういう訳で、これは非常に重大な『怪異』だと言える。
男はひとつ息を吐くと、気を引き締めて、インターホンを押そうとした。
ところが、指がボタンに触れる寸前で、玄関が開いた。そして、男の子の母親らしき女性が出てきた。
「タロちゃん、タロちゃん!」
女性はそう叫びながら庭へと出てくると、こちらに気付いたのか、慌てて「すみません」と頭を下げて、道に出てきた。
何が起こったのだろう。そう思う間もなく、男は自分がとんでもないミスをしていたことに気がついた。
道に出てきた女性が見ていた方向には、足早に走り去っていく猫の姿があった。考えるまでもなく、例の『怪異』の猫である。
猫のスピードと家との距離を考えると、おそらくあの猫は数秒前に、男の足元を通り過ぎていった可能性が高い。ところが、あろうことか男はずっとメモ帳に目を落としていたため、それに気付けなかったのだ。
「すみません。少しお待ちを」
男はそれだけ言うと、猫の方向めがけて走り始めた。
「タロちゃん!」
後ろから女性の声が聞こえた。ところが肝心の猫は、遊びのつもりか、何かを追っているのか、一切走るスピードを緩めない。
それでも男はみるみるうちに猫との距離を縮めていく。そして、ついにもう少しだと思ったところで、猫はそのまま大きな国道を横断し始めた。もちろん、車たちは突然現れた猫のことなど気にもかけずに、猛スピードで次々と走り去っていく。
「危ない!」
男は思わずそう叫びながら、悲鳴を上げる足に鞭を打って走り続けた。左右を確認する暇などなかった。男は何度かクラクションを鳴らされては身をひるがえし猫の茶色い背中を追った。すると、ここに来てようやく身の危険を感じたのか、猫は急に走るスピードを落とし始め、左右にきょろきょろと目をやり出した。そして、男はこのチャンスを逃さなかった。遂に猫を体で覆うように抱きかかえると、ふらふらになりながら反対側の歩道へと滑り込んだ。
だが、男の仕事はまだ終わっていない。男は素早く建物の影に飛び込むと、目を固くつむって猫を抱きしめた。しばらくすると小さな手応えを感じたので、男はゆっくりと目を開けた。向こう側の歩道に、こちらを心配そうに見つめる女性の姿があった。
男は大きく手を振って笑い、横断歩道のある方へ向かった。
「すみません、ありがとうございます。私の不注意でした」
男が横断歩道を渡ると同時に、女性は深々と頭を下げた。男が猫を猫を差し出すと、女性はそっとそれを受け取った。
「申し遅れました。私、多賀谷と申します。実は、あなたの猫にはある『怪異』が……」
男はそこまで言ってから口を閉ざした。別に、この人に『怪異』のことを教える必要はない。『怪異』は、既に思いもよらない形で解決してしまったのだ。よって、これで男の仕事は終わりである。
それに、交通事故で亡くなった息子がまた事故に遭いかけたなんて、とても言えなかった。
「あの、どうしました?」
女性が心配そうに、男の顔を覗く。猫もきょとんとした目で、男を見つめている。その目からは、もう男の子の意思は感じられなかった。そういえば今日は母の日だったな、と男はふと思った。
「いえ、何も。とにかく、無事で良かったです。その猫、大事にしてあげてください」
「ありがとうございます」と女性が再び頭を下げたときには、男はもうどこかへ消えてしまったいた。
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