7 電話ボックス

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7 電話ボックス

 空は底が抜けたように真っ黒で、まん丸な御月様以外に、光るものが見当たらない。その代わりに、地面に林立する細長い棒や、巨大な建造物や、たまに乱暴な音を出しながら横を通り過ぎるCAR(カー)のような物が、眩い光を発している。そんな様々な光に囲まれながら、俺は呆然と立ち尽くしていた。  何かが起こった、ということだけは、かろうじて理解できた。俺は本能的に、今この瞬間までの自分の行動を振り返った。俺はさっき、電話ボックスで恋人と話をしていた。そして、一通り話を終えて、電話ボックスの扉を開けた。すると目の前に、この訳の分からない光景が広がっていた。  俺は慌てて電話ボックスに戻った。今のところ俺がこの世界で知っている場所は、この電話ボックスの中だけである。  俺は震える手で、押し慣れた数字のボタンを叩き、受話器を耳に付けた。いつもなら何回かのコール音の後、彼女の声が聞こえてくるはずだ。しかし、俺の耳に飛び込んで来たのは、この電話番号が使われていないという旨を伝える、機械的な女性の声だった。  押し間違えた、というはずはない。そう分かっていながらも、俺はもう一度ボタンを叩き始めた。しかし、結果は同じだった。夢ではないかと思い、自分の頬をつねり、叩いてみる。乾いた皮膚に、ぴりぴりとした痛みが走った  俺は力なく受話器を戻すと、ボックスの中でへたり込んだ。外では依然として、夜の闇を切り裂く光が跋扈している。その光景は、とてもこの世のものとは思えなかった。  俺は目を瞑って、深呼吸をした。冬だというのに背中に汗をかいているらしく、もたれるとそれがひやりとしていて冷たかった。  俺はあらためて、電話ボックスの中から、外を見回してみる。真夜中であるにも関わらず、道を歩く人の姿は見当たらない。  この世界には、人間は、自分一人しかいないのではないかという考えが、頭をよぎった。それと同時に、頭が氷水に漬けられたかのような感覚と共に、計り知れない恐怖が押し寄せてきた。心臓が、狂ったように激しく鼓動する。小さい頃、町の中央売買場(ばいばいじょう)で迷子になった時の感覚が、フラッシュバックした。  とにかく、誰でもいいから人に会いたい。少なくとも、自分が今置かれている状況を理解してくれる人間に会いたい。俺はそう思って、もう一度外に目をやった。すると幸か不幸か、一人の男がこちらに向かって歩いて来ているようだった。  俺はしばらく迷った後、遂に電話ボックスから出た。冷たい風が、男の頬を撫でた。  「あ、あの。すみません」  俺は近づいてくる男に、そう話しかけた。少し声が震えたのが、自分でも分かった。近くで見ると意外に背が高かったので、俺は少し驚いた。  男は灰色のコートのポケットに手をつっこみながら、こちらを見下ろした。そして、優しそうな笑顔を見せて、「何でしょう」と返した。俺の知っている世界の人間がみせるような、特に珍しくもない顔。しかしそれ故に、それを取り囲む、絢爛で無機質で、あまりに異常な環境との不調和が、一層不気味に感じられた。  「えっと、ここは、一体どういった場所でしょうか?」  俺がそう尋ねると、男は眉をひそめて、訝しむようにこちらの目を見た。俺は少し焦って、更に続けた。  「あの、ここは日本ですよね?だからその、いや、僕はさっきまで東宮(ひがしみや)都の海松(うなまつ)にいたんですけど、ここは、そこじゃないですよね、多分。ですから、その、ここの地名というのは……」  俺がそう言葉を切ると、男は不思議そうに首を傾げて、口を開いた。  「東宮、というのは存じ上げないですね。ここは東京都の浅草のですが」  「え、あの、トーキョートというのは」  「ここが、東京都なんです。」  男は依然として、きょとんとした表情を浮かべている。俺はそんな男の様子を見ながら、だんだんと自分の置かれている状況の恐ろしさを、本当に実感し始めていた。  この男は、東宮都を知らない。あるいは、この男の様子を見ると、この世界には東宮都というもの自体、存在しないのかもしれない。  これが夢でも冗談でもないのなら、一体何だというのか。俺は一体、どうすればいいのか。一瞬にして、様々な考えが頭に浮かんできた。しかし、それらは明確な形を為すことなく、ただ無意味に蓄積されていくだけだった。  ふと、頭の上から含み笑いをするような声がした。見上げると、男は先程と同じような笑顔を浮かべて、こちらを見下ろしていた。  「すみません。あなたの様子がなかなか興味深かったもので、少しからかってみたのです。心配しなくても、あなたの身に何が起こったかは、私が全部把握していますよ。」
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