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鼠色のコートを羽織った男が、ある家の前で佇んでいた。男はしばらくメモ帳をぱらぱらとめくると、意を決したようにそれをポケットに入れ、その家のインターホンを鳴らした。
「すみません、わたくし、多賀谷と申します。怪しいものではありません。お宅の息子さんについて、大事なお話が御座います。今、お時間よろしいでしょうか?」
男は穏やかな、それでいて有無を言わせないような威圧感のある口調でそう告げた。
相手はすぐに玄関から出てきた。瀬戸秀也の母親だろう、と男は思った。女性は男の足元から頭までを、訝しむようにじろじろと眺めた。
「あの、どちら様で?」
「ああ、突然すみません。あなたが怪しむのも分かります。ですが、申し訳ないですが、ある事情があって、私の正体を明かすことは出来ないのです。安心してください、あなた方に危害を加えるようなことは、決してしないと約束いたしましょう」
男はそう言ってはぐらかすと、紳士的な笑顔を見せた。女性が何か言おうとするのを遮り、男は更に続ける。
「息子さんの瀬戸秀也君について、重要な要件が御座います。今、私が彼と話をすることは可能ですか?」
「あ、いや、あの、息子は二階におりますので……」
「ああ、その件については承知しています。私が直接二階に言ってお話をさせていただきたいのですがね」
男がそう言うと、女性はたじろいで、やんわりと断ろうとした。しかし男は、女性がまともに喋る隙も与えず、遂に靴を脱いで家に上がり込んでいった。男はそのまま二階への階段を上り、秀也の部屋の扉をとんとんと叩いた。
「すみません、困ります」
女性が二階にたどり着いた時には、男は既に秀也の部屋の中にいた。
「怪しいものではありません。すぐに終わりますから、余計なことをしないように」
男は鋭い口調でそう言うと、秀也の横たわるベッドに手をかざし、目を瞑った。それと同時に、女性は男を止めようと部屋の中に入ってきた。しかし、そこで女性は小さく悲鳴を上げ、その場にへたりこんでしまった。
ベッドからは、秀也の姿が見えなくなるほどの、黒い霧のようなものが発生していた。
「秀也君が部屋から出てこれなくなったのは、彼のせいではありません。このベッドは、寝た人を拘束して離れられなくするという怪異を起こしていた。そして秀也くんは無意識に、この不可解な現象への対処として、それを自らの問題だと思い込んでしまっていたのです」
黒い霧はやがて、空気に溶け込むようにすっかり消えていった。そして、満足げな顔をした男と、目を見開いて驚く秀也とその母親が、部屋に取り残された。
秀也は、大きく深呼吸をした。そして、強張った顔を歪めて、微かに笑みを浮かべた。
「あの、これは一体……」
「お母さん、秀也君は明日からでも学校に行くことが出来ますよ。もとの生活に戻れるんです。安心してください、私はこちらの事情で怪異を解決したまでですから、あなた方に害を与えたつもりはありません。誰かがちゃんと秀也君の心と向き合うことが出来たなら、私でなくても、彼を救うことは不可能ではなかったでしょうしね」
男はそう言うと、そそくさと部屋を出ていった。母親と秀也がその後を追おうとしたときには、既に男の姿はどこにも無かった。
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