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3 心の雨
「今までのことは、忘れてほしい」
彼は申し訳なさそうにそう告げた。七海は呆気にとられて、彼の顔を見る。しかし、彼はもう目を合わせてはくれなかった。
「ごめん」
そう言い残して、彼は七海に背を向けた。訊きたいことは山ほどあったが、その全てが喉につっかえて、言葉にできないまま消えていく。彼の背中はどんどん遠ざかっていき、友達グループらしき生徒たちの輪の中に入って、見えなくなってしまった。
彼らが談笑しながら階段を下りていくのを、七海は黙って見送った。そして、七海と七海の体の影だけが、放課後の静まった廊下に取り残された。
七海はしばらくその場に立ち尽くしていたが、やがて肩を落として教室に戻った。そこには、掃除当番の者以外は誰も居なかった。七海は教室の隅においた通学鞄を肩にかけ、そそくさと教室を出ていった。
何がいけなかったのかと、ここで初めて七海は考えた。だが、思い当たる節は何もない。考えれば考えるほど、分からなくなってしまう。そう分かっているのに、考えずにはいられなかった。
一階に下りて下駄箱まで辿り着くと、学校を出る者が皆、傘をさしていることに気がついた。外を見てみると、さっきまで出ていた太陽は灰色の雲に隠されており、グラウンドには不気味な薄暗さが広がっている。
天気予報では晴れだったのにな、とどうでもいいことを考えながら、七海は鞄から折りたたみ傘を取り出した。
靴を履き替えて外に出ると、七海は傘を開いた。既にぽつぽつと雨が降っていた。七海はふと、目の前を歩く生徒たちの姿を眺めた。ここにいる全員が、自分の失恋を嘲っているように思えてしまい、つい早足になって校門を出た。
雨はだんだんと、ざあざあという音が聞こえるくらい激しくなっていく。濡れた道路を一人で歩きながら、七海はまた彼のことを考えていた。
今更遅いと分かっていても、どこかで彼を傷付けてはいないかと、彼といた時間を思い返した。そして、自分で反省しようとした。ところが頭に浮かんでくるのは楽しい思い出ばかりで、結局どうしようもない切なさと悲しさしか残らなかった。
安物のビニール傘を、大きな雨粒が執拗に叩きつける。雨はどんどん激しくなっていくようだった。傘をさしているのにも関わらず、七海の制服はびしょ濡れだった。今なら泣いてもばれないかな、と思った時には、既に目から涙が溢れていた。
「すみません、お嬢さん」
背中から、男の声がした。七海はしばらく足を進めてから、ようやく自分が呼ばれているのだと気付き、立ち止まった。そして、涙のつたう顔を傘で隠して、振り返った。
そこには、大きな黒い傘を持った背の高い男が、こちらを向いて立っていた。灰色のコートを身に纏っているのは見て取れたが、首から上はお互いの傘に隠れて見えない。
「突然すみません。少し、お話いいですか?」
男はよく響く低い声で、それでいて優しい口調でそう言うと、傘を傾けて、微笑を浮かべた顔を見せた。
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