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翌朝、目を覚ますといいにおいがした。トマトと玉ねぎとベーコンのスープは朝ご飯の定番で、時間があるときお母さんはそこにポーチドエッグを落としてくれる。寝ぼけまなこのまま僕は空腹につられ、ふらふらと部屋を出た。
「あっ……」
リビングに入った瞬間、はっとする。
そこにいるのは長い赤毛を背中に垂らしたお母さんではなく、艶やかな黒髪をきれいに撫でつけた男の人の後ろ姿だった。昨日までとおなじように、白いパリッとしたシャツにプレスのきいた黒いズボン。足元はぴかぴかの革靴。生活感のない格好に家庭用のエプロンをつけているのが奇妙に見える。
彼は、キッチンに立って朝食の準備をしている最中だった。
「おはようございます、アキ。もうじき食事の準備ができますよ」
振り返った「AP-Z92-M」は少しだけ笑っているように見えた。まるで昨晩は何もなかったかのように。僕が彼を嘘つき呼ばわりして出て行けといったことすら夢であったかのように。
でも、僕は簡単にはだまされない。いくらこいつが何もかも忘れたふりをしたって、昨晩の出来事は忘れず全部覚えているし——どんなにスープがおいしそうだったとしても、いや、むしろそれがお母さんの作るスープとそっくりのにおいを漂わせているからこそ、僕はこいつを受け入れたくない。
「いらない!」
僕はそうきっぱりと言った。
「おまえの準備した食事なんか、いらない」
「私が準備しなければ、食べるものは何もありません。アキ、わがままを言わないで」
優しげな口調は明らかに、わがままを言う子どもをいさめるときのものだ。馬鹿にされているようで僕はますます面白くない。
「だったら、ずっと何も食べない!」
すると「AP-Z92-M」は、ようやく体全体で振り返り、リビングの真ん中に仁王立ちしている僕と向き合った。まじまじと全身を見つめられているのがわかる。目の辺りが熱を持って腫れぼったい感じがするのは昨日ベッドの中で泣いたからで、それがこいつにばれてしまうだろうかと僕はちょっとだけ気まずい気持ちになった。
数秒。数十秒。もしかしたら数分。ようやく「AP-Z92-M」は口を開いた。
「そうですか。では、お付き合いしましょう。あなたがご機嫌を直して何か召し上がる気になるまで、私も何も食べません」
そして彼はコンロの火を消し、鍋に蓋をした。エプロンを外すときれいにたたんでダイニングチェアの背に掛けて、ひとつ大きなため息をついた。
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