神か、バケモノか

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「別のもの?」 「なぜ、その芸術家が鑿を握れなくなったか……聞きたいか」  尋ねられたマルコは、頷く代わりに老いた双眸をまっすぐ見つめ返した。   **  リカルド・ダッラは、その日も夜遅くまで自分の工房に籠り、鑿を握っていた。短くなった蝋燭の明かりだけを頼りに、目の前の石を彫り進める。  フィレンツェから吹き始めたルネサンスの風がローマにも及び、都には多くの芸術家たちが吸い寄せられるように集まってきていた。  リカルドもまた、芸術家の一人だ。同業者がしのぎを削る中、街の片隅に自分の工房を構え、二人の弟子を抱えている。  リカルドには自負があった。自分は芸術家であるということ。そして、芸術家たるもの、依頼主の注文に切実に応えるべきであること。  その頃、多くの芸術作品は教会や貴族の求めによって作り出されていた。どんなものを作るかは依頼主の希望による。芸術家はその要請に応じ、自分の出来うるすべての力を注いで作品を仕上げる。  必要なのは確かな技術だ。依頼されたものを、希望通り寸分違わず作り上げる。それこそが一流の芸術家の証である。  リカルドは日が沈んで工房を閉めたあとも、明かりを灯して腕を磨いた。すでに三十歳をいくばくか越えていたが、基礎的な鍛錬は欠かさず、練習用の石と日々向かい合う。  しかしそのリカルドの手は、このところ止まってばかりいた。  現在、昼間の時間をほぼすべて費やしているのは、ある聖人の像だ。ローマの中心に住む貴族が、玄関に飾るために依頼してきた品である。  リカルドは注文通りに大理石を彫り進め、身体や装飾品は完成に近づいていた。だが、肝心な部分――像の魂ともいえる顔に、手が付けられていない。  今日も、練習用の石を前に困り果てていた。  目は開けるべきか、薄く閉じさせておくべきか。唇に微笑みを乗せるか、真一文字に結ぶのがいいか……。  実は、リカルドの手元には彫刻の元となる素描がある。依頼を受けた時に、貴族の希望を聞いて描き起こしたものだ。依頼主は素描を見て大変喜び、この通りに彫ってくれればいいと言った。  が、なぜか迷いばかりが募る。本当にこれでいいのか。この顔を彫り込んでいいものか……。  小さな違和感が波紋のように胸に広がっていく。しかし、そろそろ納期だ。期限を守ることも、芸術家に課せられた重要な役目である。  リカルドは鑿を握り直した。やはり素描の通りに彫り上げよう。作品は己の心のためにあるのではなく、見る者のためにある……。 「……違うな」  突然背後から声を掛けられ、リカルドは持っていた鑿を取り落としてしまった。  振り向くと、工房の戸口に一人の男が立っている。  月明りを背に受け、室内に影が長く伸びていた。まるで、聖書に出てくる悪魔のように。 「誰だ」
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