黄泉平坂物語

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 その声に、力任せにその青年の手を引いていることに気付いた。指を外して、冷静さを取り戻そうと深呼吸する。青年は怯えたような目で今野を見ていた。こんな目で、見られたりしない。そうだ。亨のはずがない。彼は今、生死の境を彷徨っているのだから。だとしたら、亨に生き写しのこの青年はいったい? そして、ここはどこなのか。辺りを見回しても、襖と障子に遮られている、薄暗い部屋だということしかわからない。枕元には今にも消えそうな短い蝋燭を灯した古めかしい燭台。今野は混乱したまま、青年の言葉を待つしかなかった。 「黄泉比良坂で」  激しい眩暈、そして頭痛。自分は倒れたのだろうか。 「倒れたあなたをここへ」 「君が?」 「はい」 「そんな細い身体で、一人で」  不思議になって、尚も尋ねる。 「ここは?」 「……近くです」 「ああ」  そういえば、坂を上っている時、何軒か、人家があったのを覚えている。 「ありがとうございました。ほんとに。助かりました」  青年は唇に手を遣り、くすり、と笑った。やわらかな鶯色の着物を纏い、優雅に振る舞う。まるで絵のような美しさに今野は見とれた。 「何か」 「ああ、いや」  あまりにも、似すぎている。いや、生き写しだ。この世には似た顔が三つあると聞いたことがあるが、こんなにも完璧な偶然があるのだろうか。いや、この薄明かりがそう錯覚させているだけに過ぎない。今野はそうむりやり結論づけた。亨ではない。それだけはわかるのだから。 「ゆっくり休んでください。何か用がありましたら、呼んでくれれば」  立ち上がった青年に、今野は言った。 「俺は今野柊一。君は」 「……葵です。それでは、失礼します」  葵。声に出さず繰り返してみる。淋しげな瞳が印象的に伏せられ、葵は部屋を出ていった。静かな、ただ静かな薄暗がりがどこまでも広がっている。 「考え過ぎ、だよな」  今野は床に横になると葵を思い浮かべた。そして、そのどこか哀しげな表情は、今この時も死と隣り合わせであろう大野亨に重なる。 「生きろよ、亨」  祈るような気持ちで、今野は目を閉じた。  大野亨は、高校以来の親友だ。外見も性格も周囲が呆れるほどに違っていて、よく友人として続いていると感心されたものだった。瞳でものを語るような穏やかで線の細い亨。周囲が羨むしなやかな体躯を持ち活気あふれる今野。刺激しあうところがあり、いつまでも親しく付き合っていきたいと今野は思っていた。多分、亨もそうだろう、と信じて疑わなかった。ごく、最近まで。
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