黄泉平坂物語

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 葵は一礼すると下がっていく。亨の声が聞きたい。微笑みが見たい。一時も離れていたくない恋人のように、亨のことを思う。今野は、伝えたい言葉があった。ずっとわかっていたことだったが、それを認めることができなかったのだ。もし、亨の理由如何によっては、それを言ってしまおうと思っていた。だが、亨はこなかった。今野の想いは、宙ぶらりんだ。だから、もう一度、会いたい。伝えたい。それだけを考えていた。 「今野さん」 「はい」  どのくらい、ぼんやりとしていたのだろう。そんなに長い間ではなかった。葵は対して正座した。 「変わらない、と言っていました」 「……そうですか」 「できれば一度、見舞ってやってほしい、と」  覚悟をしろ、ということか。どうしようもない焦りに今野は立ち上がろうとしたが急に立ちくらみがした。 「今野さん!」  葵がそれを支えようとしたがかなわなくて、二人はそのまま床へと倒れ込んだ。 「……っ!」  しばらく目の前が真っ白で、身体を固くしていた。やがて、少しずつ、霞がはれるように葵の顔が見えてきた。身体の下の彼は、困ったように今野を見上げていた。 「葵さん……」 「大丈夫ですか? すみません、支えきれなくて」  白い肌。ほの赤く色づいた唇。やわらかな曲線を描く髪。亨と同じ顔。亨と同じ……。 「今野さん? ……!」  考えるより先に、身体が動いていた。唇が触れる。葵は、何が起こったのかわからないように、しばらくじっとしていたが、少しずつ深くなる口づけに、身を捩って逃げようとした。 「今野さ」 「葵、逃げるな」 「やっ」  両腕ごと抱きこむと、葵は身動きができなくなった。ただ、唇を貪ることしか考えられない。葵は苦しそうに何とか逃れようと、顔をわずかに振った。 「……う……」  頑なに拒んでいたが、空気を求めて歯を緩めた瞬間、舌が触れ合って、葵は身体をびくりと固くした。歯を合わせたら、今野の舌を噛んでしまう。声も出せず、ただ、放してくれるのを待つしかなかった。 「……っん」  濡れた息を吐いて、葵は顔を背けた。今野の視線を痛いほどに感じる。 「葵」 「呼ばないで」 「え?」 「葵なんて、呼ばないで。……誰のことを考えていたの?」 「葵さん、待っ……」  葵は身を捩って今野の下から逃れると小走りに去った。今野は、しばらく呆然としていたが、やがて、額に手の甲を押しつけ、忘れかけていた呼吸を始めた。  眠れない。今野は布団の中で何度も寝返りを打った。薄暗い部屋。短い蝋燭の火が時折ゆらりと大きく揺れて消えそうになるがなかなか消えない。時間の感覚がない。短くも長くも感じる。腕時計は壊れてしまったのか秒針が動いていない。
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