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陽炎が、見えるかもしれない。
今野柊一は、今まで歩いてきた線路沿いの道を振り返った。
太陽が容赦なく視界を白く滲ませる。肩に掛けたカメラの紐をもう一度掛け直し、大きくひとつ、息を吐く。
五月の緑が目に眩しい。こんなにも生命力に溢れている。それなのに、今野の心は暗い。昨夜は眠れなかった。理由はひとつだ。今はどうすることもできない。自分にできることは、祈ることだけだ。
遠くから警笛の音が聞こえてきた。目の前の小さな遮断機が下り、一両だけの古びた電車がのんびりと走り去る。田畑をいくつか通り過ぎ、人家に沿った坂道の入口に小さな案内板があった。カメラを構えて一枚撮り終わると、舗装された坂道を上っていった。すぐに人家はなくなり、目の前にはなだらかな山が迫ってくる。人の姿はなく、左下には、かなり大きな池があった。目指す黄泉比良坂は、もう、すぐ目の前であった。
イザナギとイザナミの神話。それが紡がれたこの地、島根での今回の仕事は、伝承の地を巡る旅のガイドブックのための写真を撮ることだ。黄泉比良坂の立て札を撮り、先に進む。すぐに大きな身長大の岩が目の前にあった。二つ並んで道を塞ぐように根付いている。降り注ぐ陽光がまばらに足元に落ち、これが現世と死者の国を結ぶ地点だとは、とても思えなかった。カメラを構え、今野はまた、考え込んでいた。もし、彼が死んでしまったら――もし神話のように、死者の国に足を踏み入れることができるなら。自分は危険を冒して、彼を迎えにいくだろうか。彼を連れ戻すことが、できるだろうか。今野は、神妙な気分で、石の向こう――死者の国へと足を踏み入れた。これはあくまでも伝承。山に背を向け、石に焦点を合わせた時だった。ふと、背後に、言葉にできない、何かを感じた。シャッターにかけていた指を外して、ゆっくりと姿勢を正す。背に、冷たい汗が流れる。何かが――今野を振り向かせた。
「!」
目の前が突然、暗転した。急に、激しい眩暈と頭痛が今野を襲う。何かに縋ろうとして、手を伸ばす。その手が、ぐっと握りしめられる感触にぞくりとした。どうなってしまうのかわからない恐怖に、だが、それもすぐに薄れて意識は遠くなっていった。
「……亨」
「気がつきましたか」
ふと目が覚める。薄暗い中、声の方へと視線を移して、息を呑んだ。
「亨! おまえ、どうしてここに!」
「何をするんですか! 痛い!」
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