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月姫 雲の海
その日から私は頻繁に《つきのめがみとよるのじょおう》を読むようになった。不思議とその絵本を読んでいると気持ちが落ち着いた。相変わらず結末はわからないままだけどそれでよかった。母親がこの絵本を取っておいた気持ちも理解できる気がする。温かくて柔らかで、それでいて悲しい話……。
私は何となく、ヘカテーと話してみてもいいかな? と思うようになってきていた。彼女とはもう一年以上連絡をとっていないけど、元気してるかな?
まぁ、茉奈美あたりは連絡してるかもしれない。でも茉奈美の性格を考えると私にへカテーの話はしないだろうと思う。麗奈と違って茉奈美はそこらへんがちゃんとしている。麗奈は口が軽いし、それに言うタイミングがいつも悪い。
田村さんからふたりで会いたいと声掛けを受けたのは私たちが一緒に出かけた日から一週間後のことだった。
「ルナちゃんこの前はありがとうねー。この前の返事だけど電話じゃない方がいいかな?」
「こちらこそありがとうございました! 私はどっちでも大丈夫です! 田村さんの都合のいい方で!」
「そっか、じゃあ夜バイト先で落ち合おうか! ルナちゃんの夕方のバイト終わりにでも時間とってもらえると助かる」
私はバイト先で田村さんと会うことにした。その日は新しいバイト生と一緒に仕事をして、先にその子には上ってもらった。午後九時半、店内には私一人になった。今から田村さんが来てくれる……。ただそれだけで嬉しい気持ちになる。店の有線からは夏らしいアップテンポな曲が流れてきて私は心地よく仕事を進めた。
それから一〇分ほどすると田村さんが店にやってきた。彼は白いシャツと黒のチノパンというラフな格好でどことなく落ち着かない様子だった。
「こんばんは! 今日はわざわざすいません。後少しで上がるのでもう少し待ってくださいね」
「うん、大丈夫だよー。ルナちゃんとこうしてベリストアで話すの久し振りだよねー。前は一緒によくだべってたよね」
「そうですね! 映画の話とか美味しいお店の話とかよくしてましたよねー」
そうだ。私たちはいつもそうだった。不思議と話題が尽きることなく私と田村さんはよく話した。四つ上の先輩なので私にとってはお兄ちゃんみたいな人だった。最初の頃は……。
私が田村さんに初めて会ったのは高校に入学してから一か月が過ぎた頃だった。父さんの手伝いということでベリストアでのレジ打ちをすることになったのだ。私とヘカテーはカウンターに入って一緒にレジを教わった。レジ打ちは楽しいっていうのが私がコンビニ勤務の初日に感じたことだった。ヘカテーは……。言うまでもないけど酷いものだった。とにかく接客態度が下手だった。(悪いって言うわけじゃなくて、下手だった。別にあの人を擁護するわけじゃないけど)そんなわけでへカテーは一日目でバイトを辞めた。
土日の昼間にベテランのパートさんに仕事を教わりながら二週間ほど研修を受けた。それから平日の夕方のバイトに回ることになり、そこで初めて田村さんと一緒になった。
「初めまして、京極月姫です! わからないことばかりでご迷惑お掛けしますがよろしくお願いします」
私は年上の大学生を相手に緊張していた。この間まで中学生だったから仕方ないけど、何を話していいかわからなかった。
「はい、よろしくお願いします。それじゃあ、まず夕刊の補充からお願いしようかなー」
田村さんは最初に夕刊の仕入れ伝票の記入の仕方を教えてくれた。彼の教え方は妙にひょうひょうとしていて最初は違和感を感じた。学校の先生のような教え方ではなくて、『失敗しながらゆっくり覚えればいいよ』って感じの教え方だった。
「そしたらねー。慣れるまで大変だろうけど、ジュースの補充お願いするね! 種類多いし重たいから、少しずつやりなー。わからないところはあとで一緒にやろう」
「はい! ありがとうございます」
「あのね京極さん、あんまりかしこまらなくていいよ。俺はこんなだし、そんなに一生懸命にやると疲れちゃうよ?」
それから田村さんと一緒にジュースの補充をした。私ができる範囲で補充をし、田村さんが修正する。それから毎日のようにして私は商品補充をしながら仕事を覚えていった。一緒に仕事をしていて、田村さんは私を叱ったりしなかった。失敗しても笑って許してくれたし、私の失敗を静かにフォローしてくれた。気がつくと田村さんと一緒に仕事しているのが当たり前のようになっていた。
三か月も過ぎると私と田村さんはすっかり仲良くなった。
「それでさぁ、俺が大学の連中と一緒に海行ったらね。途中で土砂降りでみんなずぶ濡れになっちゃったよ。やっぱり梅雨にいくもんじゃないね」
「あのー、田村さん。前も雨に降られてませんでしたっけか? たしか野外ライブに行ったときに濡れちゃったっていってましたよね」
「たしかに! なんでだろうねー? いつも予定入れると雨降られるんだよー」
「雨男なんじゃないですか?」
「へ、誰が?」
「田村さんがですよ」
「いやいや、そんなことないよ。だってほら! 今日だって……」
その日は土砂降りだった。コンビニの駐車場に猛烈な勢いで叩き付ける雨を見ながら私と田村さんは大笑いした。
「ほら、じゃないですよ! すっごい土砂降りじゃないですか!? やっぱ雨男ですって!」
「そーかなー? 偶然だよ! 偶然!」
それでも認めない田村さんを見て私は余計おかしくなった。いつもこんな風に意味のない、下らない話ができる先輩がいてくれて私は嬉しかった。それから少しして茉奈美と麗奈がバイトに入った。二人が入ってからは田村さんと一緒に仕事する割合が減ったけど、それでも一緒のシフトの日は楽しかった。
「フフフ」
私は思い出し笑いをした。
「何? どうしたの?」
「いやー、私が一年の頃に田村さん雨男疑惑あったなーって思いまして」
「あー! あれはルナちゃんが勝手に言ってただけだからね! 俺雨男じゃないし!」
「はいはい! そうですね。この前も田村さんのお陰で土砂降りでした」
私がそう言うと、田村さんは少しバツが悪そうにした。初デートした日がまさかの悪天候とは。
これから付き合えると思うとそれもいい思い出かもしれないけど……。
夜勤が来ると私は引き継ぎをぱっと済ませて速攻でタイムカードを切った。店内の商品を見て回りながら田村さんは待っていてくれた。
その日の夜空には雲一つなく、空には私の名前の入った衛星がほっそりとした三日月になっている。
「月がきれいですねー」
「うん……」
「本当に雨男返上できるかもしれませんね」
「そうだね」
彼は口数が少なかった。早く答えが聞きたい。彼の口から私と付き合うって言ってほしい。
「どうしたんですか!? 急に元気ないですよ!」
私は明るい声でそう言うと田村さんをちゃかした。
「ルナちゃんさぁ、バイト一緒にやれて楽しかったなぁって、よかったなぁって俺は思ってるんだ。さっきの雨男の話だってすごい笑ったしね」
「そうでしたよねー。いつも楽しかった! 田村さんがいてくれるだけで私はすごく幸せなんですよ」
「ありがとう、そう言ってもらえてすごく嬉しいよ。ルナちゃん本当に真面目だし、しっかり者だし、素敵な人だなーって思うよ」
早く好きだって言ってよ! こんなに待ってるんだから。私の中で焦りが浮かび上がる。
「嫌ですよー。そう言われると照れるじゃないですか!」
そこまで話すと田村さんは急に改まったような態度になった。
「あのねルナちゃん。ルナちゃんの気持ちはすごくありがたいし、一緒にいる時間増えたら楽しいだろうなーって思うんだよ。でもね……」
「でも……?」
私は顔から血の気が引いていくのを感じた。胸が苦しくなる。
「うん、ごめんねルナちゃん。俺はルナちゃんとは付き合えない。別にルナちゃんが魅力的じゃないとかじゃないよ? でもね、やっぱりルナちゃんのこと女としては見れないんだ。本当にごめんね」
私は言葉の意味が理解できなかった。なんで? 私のどこに問題があるの? 田村さん私のこと可愛いって言ってくれたじゃない?
でも実際に私の口から出た言葉は違うものだった。
「そ、そうですよね……。そっかー、残念だなー」
「ルナちゃん……。本当に気持ちは嬉しいんだよ! ルナちゃんみたいに実直で真面目な娘に真剣に好きだって思ってもらえて本当に……」
それ以上言うな。もう聞きたくない。私は続きを遮るように話し出した。
「大丈夫ですよ! 私が勝手に好きになっただけですから! 田村さんにはもっと素敵な人が待ってますよ!」
何、私? なんでこんなこと言ってるの?
自分で自分のことが理解できない。さっさとすがり付けよ。愛してほしいって、抱いてほしいって、すがり付け。そう自分に発破をかけたけど、できなかった。みっともないからじゃなくて、ただ単純に、できなかったのだ。
それから田村さんは私の頭を軽く撫でると、「気をつけて帰ってね」とだけ言って帰っていった。私はしばらくコンビニの駐車場で立ち尽くすことしかできなかった。
こうして私の初恋はもろくも失恋というカタチで終わった。夜空の三日月は私をあざ笑うかのように煌煌とと輝いていた。
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