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月姫 蒸気の海
「ルナさま! ルナさま! 今日は何をして遊びましょうか?」
白うさぎたちは私の周りでぴょんぴょん飛び跳ねながら嬉しそうに聞いてきた。
「ごめん。今日はあなたたちと遊びたい気分じゃないの」
私がそういうと、うさぎたちは「そっかー」と言って遠くにぴょんぴょん跳んでいってしまった。うさぎたちが跳んでいった方向には水色の球体が浮いている。その水色の上に緑色の模様があるように見えた。私は月の石でできた椅子に座ってその水色の球体をボーッと眺めていた。
「いつもそうだ……。いつも私の大切なモノはいなくなってしまう」
独り言を呟いた私は、そのまま殺伐とした月の海に飲まれていった……。
私はまだ夜が明けきらないうちに目が覚めた。ふと時計を見るとまだ午前四時前だ。外はうっすらと白くなり始めていて、鈴虫の声が聞こえた。秋が近いのかもしれない。布団から出てスマホに手を伸ばし、ロックを解除した。通知は特に入っていない。田村さんから何か連絡が入っているかもと少し期待したのに。
私は再び布団に入ると瞳を閉じた。それにしてもさっきの夢はなんだったんだろう? 私が月の女神になってうさぎたちと話している夢だった。うさぎたちは無邪気に私と遊びたがっていた。結局、気乗りしなかったから彼らの誘いを断ったけど、一緒に遊んであげれば良かったかもしれない。月から見た地球はとても奇麗でまるで宝石のようだった。
それから眠ることなく田村さんのことばかり考えていた。彼はとても真摯に私の気持ちに向き合ってくれたと思う。だからこそ時間をかけて考えてくれたし、彼の出した結論は彼らしい思いやりのあるものだったと思う……。と、表面的に思い込もうとしている自分がいた。クソクラエダケド。
気がつくと時計の針はいつも私が起きる時間を指していた。いつも通り、洗面所に行って顔を洗ってから歯を磨いた。玄関から新聞を取ってきて、父さんがいつも座るダイニングテーブルの上に置くと、朝食の準備を始める。炊飯器はタイマーでご飯を炊き始めていた。田村さんとあんなことがあったというのに、昨日の夜にちゃんと炊飯器の準備をしている自分が滑稽だと思った。まな板でおひたしのほうれん草を刻みながら自分の気持ちが揺れているのを改めて実感した。どうして? 田村さんはどうして私の気持ちを受け入れてくれなかったの?}
「おはよう」
後ろから父さんの声と欠伸が聞こえた。
「おはよう」
私は父さんに後ろ姿で答えた。
父さんは新聞に目を通しながら、私に色々話しかけてきた。私は特に考えることもなく、当たり障りのない会話をする。朝食をテーブルに運び、二人でご飯とみそ汁と卵焼きを食べた。
「ルナ? 何かあったか?」
不意に父さんに聞かれて私はドキッとした。
「え? なんで? 何もないよ?」
私は平静を装って父さんに真顔で答えた。
「んー? ならいいけど、なんか今日お前いつもと違う感じがしたからさ」
私は父さんに悟られまいと平静を装った。普段通りの笑顔で軽く冗談を言って、バイトの話を楽しそうに話してみた。なんでこんなことしてるんだろう? と思いつつも、反射的にそうしてしまった。
「あ、そうだ! 今日は進路相談あるから学校行くね! 新学期始まったら三者面談あるからよろしくね」
「ああ、そうだったな。うん、仕事の予定調整して行くから大丈夫だよ! 文句言わないから好きな進路選べよ!」
「ありがとう。就職で話進めるから、決まったらまた言うね」
それから父さんが仕事に行くのを見送ると、久しぶりに制服に袖を通した。姿見の前に立って身だしなみを整える。スカートを学校指定の長さに調整して髪を後ろで縛った。スクールバッグに進路相談用の資料が入ったファイルと筆記具を入れると私はベッドに腰掛けて大きなため息をついた。
「こんなに好きなのにどうして受け入れてもらえなかったんだろう? ねえ田村さん……」
私はぽつりと独り言を呟いた。不思議と昨日から一滴も涙は零れなかった。思えばしばらく涙を流していない気がする。最後に泣いたのは確かヘカテーと大喧嘩した時だった。なんで姉の時は泣くのに、田村さんの時は泣けないんだろうと思うと自分に腹が立った。あんな人のために流せる涙はあるのに、大好きな人の為に流せる涙がない自分が憎らしかった。
学校に向かうために私は最寄り駅の涸沼駅に向かった。もう夏も終わりが近づいたのか、思っていたよりずっと涼しい。学校に向かう中、私は自分の気持ちが少しずつ落ち着いてきているのを感じた。ショックなことがあったときも、行動していると気がまぎれる。
私が学校に到着したのは普段の登校時間よりだいぶ早い時間だった。グラウンドでは運動部が列を作って走り込みをしている。二階にある音楽室からは吹奏楽部の演奏が聞こえた。
「おはよう京極さん!」
昇降口から入って廊下を歩いていると担任の久保先生とばったり会った。
「おはようございます! 今日はよろしくお願いします」
「はーい。京極さんのこれからについてしっかり話し合おうね! やっぱり就職希望?」
「はい! いい仕事見つかるといいんですが……」
「うん。京極さんなら大丈夫でしょ! でもねー……」
久保先生は何か含むような言い方をした。彼女が何を言いたいのかはすぐに察しがついたけど、私は何も言わなかった。久保先生は五〇前半のベテラン女性教師だ。ちょっとふくよかな体型で人懐っこい笑顔の優しい先生だった。私は普段から彼女にとても気に入ってもらえていた気がする。
私と久保先生は進路指導室に行って、会議テーブルを挟んで向かい合って座った。
「えーと、京極さん……。京極さん……。と、あったこれだね」
久保先生はファイルから私の成績表を探しながら話を始めた。
「うん! 京極月姫さん! 内申書は問題ないね! 評定平均も高いし、出席日数も皆勤だからどこに出しても恥ずかしくないよ」
「はい、ありがとうございます! それで、お仕事なんですが……」
「あ、その前にもう一度確認するけど、本当に進学希望じゃなくていいのね? 京極さんなら国立も余裕で狙えるんだけどなー」
久保先生はそう言って、私に優しく微笑んでくれた。彼女には前からずっと進学を勧められていた。県外の国立大学も狙えるんだから行った方がいいっていつも言われる。
「そうですね。私は就職したいです! ウチはあんまりお金ないし、父さんにも迷惑かけられないですから。それに、働くの好きなんです!」
「そう? まぁそれならいいんだけどねー。ごめんね、なんか京極さんくらい良くできる子だともったいない気がして」
久保先生は残念そうにしながらも、私に就職に関して説明してくれた。県内の企業でどこがいいとか、福利厚生がどうだとか、面接対策はこうした方がいいとか丁寧に教えてくれた。
「よくわかりました! ありがとうございます! 来月の三者面談のときまでにどうしたいか具体的に決めておきますね」
「うん、それがいいね! 困ったことあったら相談のるから何でも言ってね」
久保先生は本当にいい先生だ。私のことをいつも気にかけてくれる。優しいし、時には厳しいことも言ってくれた。
私は久保先生にお礼を言うと昇降口から出てグラウンドに行ってみた。男子バスケットボール部の部員たちが汗をかきながらグラウンドを走っている。私はグラウンド前のベンチに座って彼らの練習を何となく眺めた。眺めていると同じクラスでバスケ部の村井君が私を見つけてやってきた。
「あれー? ルナちゃん今日はどうしたの?」
村井君は息を切らしながらそう言うとリストバンドで額の汗を拭った。
「今日は進路相談で来たんだよ! 村井君はもうバスケ部引退したんじゃなかった?」
「うん、引退したんだけどさー。後輩の面倒見なきゃいけないんだよねー! 先輩としてはさ!」
「ふーん、そうなんだー。大変だねー」
私は適当に相づちを打った。彼とは高校に入った時からの付き合いで、三年間同じクラスだったから普段から話をする関係だった。
「そうなんだよなー。俺、いい先輩じゃん!?」
「そうだねー」
やはり適当に返す。
「もー、ルナちゃんはつれないなー! もう少しいいリアクションしてくれてもよくねー?」
「はいはい、偉いね! 面倒見のいい先輩だよ!」
正直に言うと、私は彼に絡まれるのが面倒くさかった。悪い人じゃないのはわかるんだけど、絡みが本当に面倒くさい。
「なんだよそれ! まぁいいよ。ルナちゃん就職希望だっけか?」
「うん、就職する予定かなぁー。大学行ってやりたいこともないしね」
「もったいねー。ルナちゃんこの前の模試だってかなり上位だったのにな。俺なんか一〇〇位以下だから久保ちゃんにドヤされちゃったよ」
「村井君はもう少し勉強頑張った方がいいよ? もう内申書どうしようもないだろうけど……」
「う……。酷いこと言うなー。確かにサボってばかりいた俺が悪いけどさー」
「覆水盆に返らず!」
強い口調でそう言って、軽く睨み付ける。
「フクスイ? なにそれ?」
村井君はポカーンとした顔をしている。
「過ぎてしまったことは元に戻せないことの例えだよ! お盆からこぼれた水を元に戻すことはできないってこと! つまりやってしまったことはもうどうしようもないってこと!」
「えー!? 俺はやり直し効かないって言いたいの? だったら水道の蛇口捻ってまたお盆に水入れるからいいよ」
私はそれ以上彼と会話する気にはなれなかった。本当に面倒くさい。こんな人には絡まれるのになんで一緒にいたい相手には拒否されるんだろう?
「はいはい! 私はもう帰るよ! 村井君は少しでもいい結果が出るように努力した方がいいよ!」
「ひでーなー。ルナちゃんは勉強できるから俺の気持ちなんてわかんないんだよ!」
私はスクールバッグを肩から提げると立ち上がった。
「じゃあね! バイトあるし、もう帰るから!」
「おい! まだ話は……」
村井君が何か言っていたけど、それ以上関わりたくなかった。私は彼のことを半ば無視しながら帰路についた。今日のバイトの相方は麗奈のはずだ。麗奈には田村さんのことを悟られないようにしようと思いながら私は学校を後にした。
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