月姫 神酒の海

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月姫 神酒の海

 ピピピ……。ピピピ……。ピピピ……。  枕元で鳴る目覚ましの音で目が覚めた。時計の針は五時半を指している。私は布団に入ったまま、アラームを止める為に手を伸ばす。  外には鳥の声が聞こえ、空は白々としてきていた。私はベッドから起き上がると、洗面台に向かった。洗面台には青とピンクの歯ブラシが二本入ったコップがある。  私は二本ある歯ブラシのうち、ピンクの柄の歯ブラシを手に取り素早く歯磨きを済ませた。洗面所の鏡を覗くと、目の下にうっすらとクマができていた。明らかに寝不足だ。  私は、ジャージのまま朝食の準備を始める。ダイニングテーブルの椅子に掛けておいたエプロンを着け、ケトルに水を注いで火にかけた。そんなことをしていると父さんが起きてきた。 「おはよう」  父さんはそう言うと、パジャマ姿のまま椅子に座った。 「おはよー、今朝は早いんだね」  私は沸騰したお湯でインスタントコーヒーを作って、父さんの前に置いた。 「ああ、今日は一一時ごろ弁当の配達があるからなー。発注早めに終わらせたかったんだ。お前、今日は夕方からだったか?」 「そうだよー。午後から麗奈と石崎さんがシフト入ってるからね。私は五時から夜までだね!」  私はそう言うと玄関まで行き、ポストから朝刊を取ってきた。 「お、気が利くな!」  父さんは私から朝刊を受け取ると、一面から記事に目を通し始めた。  いつも通りの朝だ。  私は引き続き朝食の準備をする。店で廃棄になった食パンを、トースターにいれてタイマーを回した。そして冷蔵庫からタマゴ二つとベーコンを取り出して、フライパンで炒めた。 「今日はパンか」 「うん、昨日はパンが大量に廃棄になったからもらってきたんだ。ちなみにタマゴとベーコンとヨーグルトも廃棄ね!」 「いやどうも」  父は茨城特有のなまりでそう言うと頭を軽く掻いた。  ダイニングテーブルには、ベーコンエッグ、トースト、カップヨーグルトという軽めの朝食が並んだ。私的には仕入原価ゼロ円の朝食だ。店にとっては手痛い出費ではあるけど。 「そういえば、昨日は遅かったのか? 俺は一一時には寝てたけどお前帰り遅かったろ?」  父さんは新聞を読みながらそう言った。怒られるかもしれない。 「昨日はねー、麗奈と茉奈美と一緒に夜遊んできたんだ。夏休みだしさ」  私は少し申し訳なさそうに声のトーンを落としてそう言った。 「まだ未成年なんだから、あんまり夜遊びするのは感心せんな! 河合さんだって内田さんだって親が心配するだろ?」  父さんは声のトーンを変えずにそう言った。そこまでは怒ってはいないようだ。 「はーい! 夜遊ぶのはやめとくよ。ごめんね」 「まぁ、お前はいつも頑張ってくれてるからあんまり強くは言えんがなー。他所様に迷惑をかけないようにはしろよ」  父さんはそれだけ言うと、あとは何も言わなかった。作戦成功だ。田村さんのことは黙っておこう。  朝食が終わると、父さんは着替えて出勤の準備をした。 「父さん洗濯しといたよ」  そういって私はコンビニのジャケットを父さんに手渡した。 「おう、サンキュー」  父さんはそれを受け取ると出勤していった。本当にいつも通りの朝だ。昨日の夜の出来事が嘘だったかのような、ごく普通の一日の始まり。  私はジャージ姿のまま、朝食の後片付けを済ませた。食器は水洗いを済ませ、水切りカゴに入れた。テーブルを布巾できれいに拭き取ると朝の仕事が一段落した。やはりルーティンワークは気持ちがいい。主婦のようなルーティンワーク。  自分の部屋に戻ると、タンスからTシャツとカラーシャツ、デニムのパンツを取り出して着替えた。バイトに行く時の格好とあまり変わらない。今日はバイト前に街に出かけようと思う。  目の下のクマが隠れる程度の軽い化粧をし、出かける準備をした。  スニーカーを履いて外に出ると、庭にスクーターが停めてある。昨日夜帰って来てからそのままだ。私はスクーターに乗り最寄り駅まで行くことにした。  まだ日が昇りきっていないせいか、午前中の太陽はあまり暑さを感じなかった。優しい日差しの中、スクーターで移動するのは気持ちがいい。田園地帯はのどかで、道路脇の雑草は伸び放題だった。  少し走ると、私は涸沼駅に到着した。駐輪場にスクーターを停めて、駅の階段を上がってホームへと向かう。学校に行くときは下り線で二駅となりの駅で降りるけど、今回は上り線に乗って隣街までいく。  私は駅のホームにあるベンチに座って電車が来るのを待った。この路線はローカル路線で、ほとんどの駅が無人駅だった。涸沼駅も無人駅の一つだ。普段は定期利用だったけど、今日は逆方向なので切符を買おう。  夏休み期間中はほとんど、電車に乗らなかった。近場の移動は原付だったし、移動する場所も自宅とバイト先の往復がほとんどだ。久し振りに乗る電車は、少しだけ私の気持ちを高揚させてくれた。  駅のホームにいるのは私の他に、中学生ぐらいの女子生徒だけだ。中学生たちは些細なことがおかしいようで、ずっとはしゃいでいる。私も中学の頃はあんなだったのかもしれないと思うと少し恥ずかしくなった。麗奈は今でもあんなだけど。  一〇分ほど待っただろうか? ホームの右手から赤い電車がこちらに向かってやってきた。一両の小さな電車は『ガタンゴトン』と一定のリズムで車体を揺らしながら、徐々にスピードを緩め涸沼駅のホームに停まった。  女子中学生たちは面白おかしいと言った様子で電車に乗り込む。集団からは笑いが絶えない。  私は彼女たちが乗った後に、静かに電車に乗り込んだ。車内はガラガラだったからクロスシートに座ることにした。バッグを隣の座席に置くと、電車は再び『ガタンゴトン』と音を立てて走り始めた。少しすると車掌が来たので、水戸駅までの切符を買った。  いつもと逆方向に走る電車は新鮮だった。車窓の左手に見える湖が太陽の光を反射させてキラキラと光っている。この湖の夕景は、全国的にも有名で県外からも写真家が訪れるらしい。夕日色に染まった湖と湖畔の風景は、写真コンクールでたくさん賞をもらっているそうだ。まぁ、これは父さんの受け売りだから私もよくは知らないのだけれど。  私は車内を見回した。さっきの女子中学生の他に数人の乗客が乗っている。会社員風の男の人と、夏休みで旅行しているような大学生。そんなありふれた人たちの中に、異質な雰囲気を放つ男女がいた。  男の人は、二〇代前半くらいで目つきが鋭く、短めで剃り込みが入った髪型をしている。見るからに普通の男の人には見えなかった。その筋の人かもしれない。  女の人、というか女の子は中学生くらいで華奢に見えた。髪は肩までの長さで、前髪が伸びすぎていて顔がはっきりとは見えなかった。  この二人は、ロングシートに隣り合って座っていた。男の人が話しかけると女の子は、手話で返事をしているようだった。もしかしたら、女の子は口がきけないのかもしれない。  この変わった二人組を何となく見ていると、電車は大洗駅に到着した。この駅は、昨日、茉奈美たちと花火をした町にある。目的地まであと三駅。この駅では乗客がたくさん乗ってきて、車内は一転してにぎやかな雰囲気になった。海が近いここは観光地だというから、彼らは観光客なのだろう。  乗客を乗せ、電車は再び走り出した。駅を出て少しすると川を一本渡り、水田が広がる場所に出た。稲が青々と茂っている。あと一か月もすると収穫の時期だろう。 私の地元はビニールハウスや畑が多いけど、この地区は水田が多いようだった。  それから二つの駅を経由して、電車は水戸駅へと向かっていった。水田は線路沿いにずっと広がり、田舎特有の風景を作り上げている。やはり茨城の風景はこんな感じなのだろうと思う。私はこの農村部の土地柄が割と気に入っていた。肌に合うのだ。 「アカネ、もうすぐ着くからな!」  さっきの二人組の男のほうが、少女に話しかけた。少女は、コクリと頷いている。彼女は左手を横にして縦にした右腕を左手の上で振るしぐさをした。おそらく「ありがとう」という感じの意味だと思う。  見た雰囲気だとおそらく二人は兄妹のようだった。兄のほうは、一見恐そうだけど妹を気遣う様子が伝わってきた。妹のほうは具合が悪いのかどうも元気がない。私はその兄妹の様子が気になっていた。何か事情がありそうな感じがひしひしと伝わってくる。  そんなことを考えていると、電車は水戸の市街地付近まで来ていた。何本か他の路線の線路が並走している。私の地元では考えられない混み具合だ。  もっとも、東京や横浜のような大都市に比べれば大したことないのかもしれないけど。 「ご乗車ありがとうございます。間もなく水戸駅、水戸駅に到着いたします。どなた様もお忘れ物なきよう……」  車掌のアナウンスが流れ、電車は少しずつスピードを緩めていった。  水戸駅に到着すると、電車は八番線のホームに停車した。久しぶりの水戸駅、茨城で一番大きな街だ。すぐに電車のドアが開き、乗客たちは外に押し出された。私は他の乗客たちが降りるのを待って、最後に降りることにした。人ごみはどうも苦手だ。  ほとんどの乗客たちがホームに出たようだ。私はバッグを持って通路に出た。するとロングシートにさっきの二人組がまだ座っていた。女の子は具合が悪そうに項垂れている。男の人は心配そうに、彼女に話しかけていた。 「大丈夫か? 熱があるんじゃないのか?」  そういって男の人は少女の額に手を当てた。前髪を上げた少女は、予想よりずっと幼く見えた。ほっぺを真っ赤にして、目は宙を見ている。私は反射的にこの兄妹に声を掛けた。 「大丈夫ですか?」  私が声を掛けると男の人は、こっちを向いて少し驚いたような表情をした。 「ああ、大丈夫ですよ。お気遣いなく」  男の人は、そっけない感じで私に返した。あまり私に関わりたくないような顔をしている。 「でも、妹さん? 具合悪そうですよ。病院に連れて行ったほうが……」 「いや、マジで気にしないでいいっすから! こいつ、ただ風邪ひいてるだけだし、俺らのことはほっといてください」  そう言うと、男の人は少女の手を引いて足早に降りて行く。 「あ、ちょっと」  私は反射的に声を上げた。兄妹が駅のホームに出ると妹のほうが地面に座り込んでしまった。よほど具合が悪いのだろう。 「アカネ!」  男の人は、少女に声を掛け、彼女を抱きかかえホームのベンチに寝かせた。相当熱があるようで、少女は虚ろな目で空を見上げている。 「大丈夫じゃないじゃないですか!」  私は少女に駆け寄ると、カバンからミネラルウォーターの入ったペットボトルを取り出して、少女に渡した。 「病院がだめなら薬ぐらい飲ませなきゃ! ちょっとここで待っててください」  私は男の人にそう言うと、駅のエスカレーターを駆け上がった。後ろで男の人の声が聞こえた気がしたけど、それどころじゃない。  私は改札前のドラッグストアに向かった。カウンターの後ろに大量の風邪薬が陳列されている。薬剤師に少女の容体にあった薬を出してもらうようお願いし、お金を払うとすぐにホームへと戻る。別に面識のない二人に対してここまでする理由もないはずなんだけど、気が付いたら身体が動いていた。  ホームに戻ると、妹はベンチに、兄はその横に立っている。 「ほら、薬買ってきました! 何もしないよりはマシなはずです!」  私は紙袋を開け、風邪薬を取り出した。金と赤の派手なパッケージの箱を開け、少女の口にカプセルを半ば強引に含ませ、さっき渡したミネラルウォーターで流し込ませる。  男の人は呆気にとられていた。見ず知らずの高校生にいきなり絡まれたら当然かもしれない。でも放っておくことはできなかった。  少しすると、私と兄妹は一息をついた。少女は相変わらず具合が悪そうだったけど、ベンチで横になって少し落ち着いたようだ。駅のホームには東京行と仙台行の電車が何台か入ってきている。この駅の主要路線だ。 「ありがとう。俺さぁ、水戸って初めてだからよくわかんなくてさ。妹、具合悪いのにどうしたいいか、テンパってた」  男の人は申し訳なさそうな声のトーンでそう言って、軽く照れ笑いした。笑っている彼は、最初見た強面の印象とは違ってとても親近感を持つことができた。 「いえいえ、私もなんか勝手に出しゃばってごめんなさい。妹さんがあまりにも具合悪そうだったから心配になっちゃって」 「世の中っていい人がいるんだなぁって思ったよ。本当にありがとう。恩に着ます」  そう言って男の人は、私に深々と頭を下げた。それは本当にきれいなお辞儀だった。形はもちろん、気持ちのこもり方がしっかり伝わってくる。 「遅れたけど、俺は咲冬(さきと)菊丸って言うんだ、こっちは妹の茜」  菊丸さんは少女を見てそう言った。それを受けて茜ちゃんも軽く会釈のような仕草をした。 「菊丸さんと茜ちゃんね! 私は京極月姫っていいます。水戸は地元じゃないけど、隣町から遊びに来たんです」  私たちはお互いに自己紹介をして軽く談笑した。茜ちゃんも熱っぽそうだけど、ニコニコっとたまに笑っている。 「お二人はこれからどうするんですか?」 「そうだなー、実は何も考えずに来たんだよねー。ちょっと訳アリもんで」  そういうと菊丸さんは言葉を濁した。何か話せない事情があるのだろう。何となく周囲を見ると、駅員が忙しそうにホーム内を動き回っている。行き交う乗客は、観光地に向かうような服装の人たちが多かった。 「とりあえず、茜ちゃんこのままベンチに寝かせっぱなしってわけにもいかないですよね。どこかゆっくり休めるところに連れて行ってあげないと」 「うーん、そうなんだけどなー。病院には掛からせたくないんだ! 実家に連絡が行くと困るからさ」 「そうなんですか? ってことは二人は家出してきたってことですか」 「まぁ、そんなとこだな……」  菊丸さんは少しバツが悪そうにそう言うと困った顔をした。眉毛がへの字に曲がっている。意外と表情豊かな人だ。 「他人が言うことじゃないですけど、家の人心配してると思いますよ。連絡入れて、帰ってあげたほうが……」  私がそう言いかけると、菊丸さんは首を横に振った。 「それはできねえんだよ。できねえから、こうして知らねえ土地に逃げてきたんだ」  そう言うと菊丸さんは、眉間にしわを寄せて怖い顔になった。この人の中には、いくつか人格があるように感じた。 「わかりました。実家には帰れない事情があるんですね。でも、茜ちゃんは休ませてあげないといけないと思います。病院以外で、どこか休めるところに行きませんか?」  私がそう言うと、菊丸さんは少し考えているようだった。眉間のしわは寄ったままだ。 「そうだね。どこか横になれる場所を見つけてやりたい」  菊丸さんはそう言って、茜ちゃんの頭を軽く撫でた。 「良ければ、私に心当たりがあるので一緒に行きませんか?」 「いやいや、ルナちゃんにそこまでしてもらったら申し訳ないよ!」  菊丸さんは遠慮している。 「いいですって! 気にしないでください。ここまでしたんだからできるところまで付き合います」  そう言うと、菊丸さんは苦笑いを浮かべた。「申し訳ない」と「ありがたい」って気持ちが半分ずつ。そんな感じの表情だ。 「わかった! じゃあ、今回はルナちゃんに助けてもらうよ。すごく助かる! ありがとう」  菊丸さんが感謝をしているのが伝わってきた。この人は恐そうだけど、本当は優しくて誠実な人なのだろうと思った。  私たち三人は水戸駅のホームからエスカレーターで、改札まで向かった。茜ちゃんは菊丸さんにおんぶされ、真っ赤な顔でぐったりしている。エスカレーターを昇りきると、改札が目の前に現れた。  改札の向こう側に目をやると違和感があった。私は一瞬歩く足を止め、自動改札の向こう側をもう一度見る。そこには『もう一人の私』が立っていた。  髪の半分が金髪で、半分が黒髪のショートヘア。私と同じような背格好。手には食料品が入ったビニール袋。ちょっときつめなアイメイク。私と同じ顔……。  間違いなく、「ヘカテー」だった。
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