月姫 氷の海

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月姫 氷の海

 私は水戸駅の改札前で呆然と立ち尽くした。  胸の奥深くまで鋭利な氷柱がゆっくりと降りてくるような気持ちになった。一〇メートルほど先にいるその女は、気だるそうに買い物のビニール袋をぶら下げている。 「ルナちゃん? どうした?」  菊丸さんに声をかけられて私は我に返った。反射的に「いえ」と答えて、再び改札の向こう側を見ると、そのヘカテーらしい女は既にいなくなっていた。 「大丈夫かルナちゃん? なんか顔引きつってるけど」 「えっと……。なんでもないです。ちょっと知り合いがいたような気がしたんですけど、気のせいでした」  そう言って私は取り繕うように菊丸さんに笑ってみせた。自分でも引きつっていると分かるような表情をしていたと思う。顔の筋肉がうまく機能していないような感覚に囚われた。  そんな私の様子を見て、菊丸さんは「そっか」とだけ言ってそれ以上は詮索しなかった。茜ちゃんもその妙な雰囲気を感じたのか私の方を心配そうに見つめていた。  私は早まっている心臓の鼓動を宥めながら二人を案内して改札の外へと出た。  改札を抜けると、七夕飾りされた竹が展示されていた。青々と茂ったその竹は夏の訪れを祝うかのように私たちを出迎えた。竹には色とりどりの短冊もぶら下がっていて、願い事を書くためのテーブルも併設されている。その夏祭りらしい雰囲気は、不安定だった私の気持ちを少しだけ穏やかなものにしてくれた。初めて水戸駅を訪れたであろう二人もその七夕飾りを物珍しげに眺めている。  水戸駅構内は夏休みに入った学生やビジネスマンが足早に歩いている。久し振りに来た水戸駅はやはり県内最大の駅だけあって混みあっていた。私は菊丸さんと茜ちゃんを駅の南口方面へと案内した。 「実は高校の先輩がこの先のホテルで働いているんです。休める部屋が用意できるかちょっと聞いてみますね!」  私はそう言うと、二人を南口のロータリーまで連れて行った。駅ビルから外に出ると太陽が肌を一気に焼いた。明らかに私の地元より気温が高いようだ。  私たちは駅の南口から歩いて五分ほどのそのホテルへと向かった。ホテルは八階建ての割と大きな建物で、入り口には《ホテルウェスタ》と書かれた看板がかかっている。  ホテルに入るとロビーには宿泊客らしき人は誰もいなかった。ロビーには小さなひまわりが花瓶に生けてあるテーブルとソファーが並んでいる。私はソファーに二人を座らせてフロントへと向かった。 「あの、すいません」  私がフロントに声をかけると、清潔感があって几帳面そうな受付の女性が対応してくれた。年齢は二〇代後半くらいだろうか。 「はい、いらっしゃいませ」  受付の女性は口角をあげてにこやかに私に会釈した。目は笑っていない。もしかしたら私みたいな子供が来たことに対する不信感があったのかもしれない。 「あの、こちらで働いている皆川陽子さんいらっしゃいますか?」 「はい、皆川ならおりますが……。失礼ですがどういったご用件でしょうか?」 「私、皆川さんの高校の後輩なんです。ちょっとお会いしたくて……」  私は少し語尾を濁しながらその女性に伝えた。 「かしこまりました。お名前をお伺いしてもよろしいですか?」  私が彼女に自分の名前を告げると、彼女はどこかに電話を掛けた。彼女は少し電話で受け答えをしたあと、再び私の方を向いて口角の上がった笑顔した。 「お待たせいたしました。ただいま皆川が参りますので、ロビーでお待ちください」  私はフロントの女性にお礼を言うと、ロビーで待っている二人のところに戻った。 「お待たせしました! もう少ししたら先輩来るそうなので、もうちょっと待っててくださいね」 「そうか、なんか色々と悪いなー」  菊丸さんは恐縮したように言うと、ソファーで横になっている茜ちゃんの肩を摩った。  ホテルのロビーは暖色系の照明で統一されていて、落ち着いたピアノのBGMが流れていた。少しエアコンが効きすぎていて肌寒かったけど、炎天下にいるよりはマシだろう。  五分ほど待っただろうか? 私は昨日の疲れもあって少しウトウトしていた。 「京極ちゃん!」  後ろで私を呼ぶ声がしたので振り返るとそこには皆川さんがいた。 「お久し振りですー」  私はペコリとお辞儀をして、皆川さんに歩み寄った。彼女はシワのない真っ白なワイシャツに黒のベストという、いかにもホテルマンといった服装をしている。 「久し振り! あまりにも急に来るからビックリしたよー。近くまで来てるなら連絡してくれればよかったのにー」 「すいません。緊急だったので……」 「え? 緊急って?」  皆川さんは不思議そうな顔をした。 「実は、友達の妹さんが具合悪くなってしまいまして……」  そう言って、菊丸さんと茜ちゃんを皆川さんに紹介した。  事情を話すと、彼女は少しだけ考えているようだった。それから「ちょっと待ってて」とフロントへと走っていき、さっき私と話していた受付の女性と会話を始める。様子を窺っているとフロントの女性は少し怖い顔をしているように見えた。皆川さんは頭を下げて苦笑いを浮かべている。そんなやり取りを数分したあと、皆川さんは私たちの方へと戻ってきた。 「おまたせ! それじゃ、上司から許可下りたから部屋を手配するよ。特別だかんねー」 「ありがとうございます。無理言ってすいません!」 「ほんとだよー。マネージャーにイヤミ言われたじゃん! あの人おっかないんだー」  そう言って皆川さんはフロントの方をチラッと見た。皆川さんの上司は淡々とフロントで作業をしている。見るからに仕事ができる女って感じに見える。 「本当にありがとうございます」  菊丸さんも深々と頭を下げた。 「いえいえ、京極ちゃんからの頼みですからかまいませんよ。あとでこの子にはご飯でもご馳走してもらいますから」  皆川さんはおどけたようにそう言うと、私の方を見て「ねっ!」と言った。この人はいつもこんな感じのノリだ。茉奈美とタイプ的には近い気がする。もっとも茉奈美よりもずっと賢くて、しっかり者な気はするけど。 「わかりました。今度ご飯ご馳走しますね」  皆川さんは「よっしゃ!」と小さくガッツポーズをした。高校時代からちゃっかり者の先輩だったけど、今でも変わらないみたいだ。  私たち三人は皆川さんに案内されて最上階のツインルームへと向かった。皆川さんの話ではチェックインできるのは一五時以降らしいけど、今回は特別に準備の終わっている部屋を手配してくれたようだ。  部屋に着くと皆川さんが部屋着を用意してくれた。私はふらふらになっている茜ちゃんの着替えを手伝うと、彼女をベッドに寝かせた。 「では私はこれで失礼します! お困りのことありましたらフロントまでご連絡ください」  そう言って皆川さんは会釈をして部屋から出て行った。  私も菊丸さんもようやく一息つくことができた。炎天下で女の子を背負っての移動はきつかった気がする。私は洗面所までいって洗面器とタオルを用意した。用意した洗面器をベッドの横にあるチェストの上に置く。そしてタオルを水で濡らしてから絞って茜ちゃんの額にのせた。 「手際がいいな」  菊丸さんは感心するように言うと、胸ポケットからタバコの箱を取り出して一本口に銜えた。 「あ、菊丸さんこの部屋禁煙ですよ!」 「お、そうだったのか。悪い」  喫煙できないと指摘すると、菊丸さんはタバコを箱に戻した。 「それにしても、ルナちゃんは高校生なのに器用だよなー。手際がいいっていうか、卒がないっていうか」  菊丸さんにそう言われて私は自分の顔が熱くなるのを感じた。やはり男の人に褒められるのは苦手だ。 「いやぁ……。普段、家のことしてますからね。段取り考えながらやるクセがついちゃってるんですよ。私の家は父と私の二人暮らしなので」 「そうなんだ。一人でお父さんを支えてるんだね。尊敬するなー」  菊丸さんはそう言って、茜ちゃんの髪を軽く撫でた。菊丸さんは妹が可愛くてしょうがないのだろう。 「小さい頃に母がどっかに行っちゃったんです。写真さえ残ってないから顔もよく覚えていません」  私は茜ちゃんの脱いだ服をたたみながらそう言った。汗を吸ったせいか彼女の衣服は少し湿っている。洗濯した方が良さそうだ。 「そっか。余計なこと聞いちゃったかな」  菊丸さんは少しバツが悪そうだ。 「いえいえ、片親なのは慣れっこですから気にしないでください」  私は取り繕うようにそう言って微笑んだ。さっき裏月を見かけたときより顔の筋肉は緩んでいる。  茜ちゃんは安心したのか、小さな寝息を立てながら眠ってしまった。眠っている彼女は本当に幼く見える。改めて見ると、茜ちゃんの顔はあまり菊丸さんに似ていなかった。菊丸さんが強面なのに対して、茜ちゃんはかなりの童顔だ。 「そうだルナちゃん! 良ければお茶でもおごるよ。何から何までしてもらってお茶ぐらいで悪いんだけど」 「いいんですよ! 私が勝手にやったことですから気にしないでください」  そう言って私は遠慮したけど、菊丸さんは申し訳ないから何かさせてほしいと言った。 「わかりました。じゃあ、お茶だけごちそうになります!」 「よっしゃ!」  そう言うと菊丸さんは出かけると書いたメモを茜ちゃんの枕元に置いた。  部屋から出てエレベーターで一階まで降りると、ロビーでテーブルを拭いている皆川さんを見つけた。 「皆川さん!」  私が声をかけると皆川さんはニッと笑って私たちの方へ歩み寄ってきた。 「あれー? 京極ちゃん帰っちゃうのー?」 「ちょっと出かけてきます。茜ちゃん……。部屋にいる女の子、一人なので何かあったらよろしくお願いします」 「んー、わかったよー」  皆川さんは軽い口調でそう言った。こんな軽い感じの彼女だけれど、信頼性は高い。私はこの先輩のことを不思議と尊敬していた。お姉さんぽい先輩がいるのは本当にありがたい。 「あの! 本当にありがとうございます。マジで困ってたんで助かりました。重ね重ね悪いんですが、妹のことよろしくお願いします。あいつ、喋れないから心配で」 「はい! お客様ご安心下さい。私が責任を持って対応させていただきます」  皆川さんは私に言うのとは違って、接客業らしい口調で菊丸さんにそう言うと微笑みながら会釈した。  私たちはホテルを出ると、水戸駅付近のカフェを探した。屋外に出ると肌に汗が滲む。そう言えば駅周辺には提灯やお祭りの飾りがたくさんついている。大きなお祭りがあるようだ。たしか、水戸ではこの時期にあった気がする。  駅周辺を歩いていると、タリーズコーヒーが見つかった。私たちはタリーズに入ることにした。店内は冷房が効きすぎているのかやはり肌寒い。私たちはカウンターに行き飲み物を注文することにした。菊丸さんはカフェオレを、私はオレンジジュースを注文した。 「ルナちゃんコーヒーじゃないんだ?」 「ええ、私コーヒー苦手なんです。苦いのあまり飲めなくて……」 「そっかー。女子はコーヒー苦手な子多いかもなー。えーと、悪いんだけどタバコ吸ってもいいかな?」 「いいですよ。タバコは父も吸ってるから慣れっこです」  私たちは奥にある喫煙スペースの席に座った。菊丸さんは、すぐにタバコを箱から取り出して火をつけた。よほど吸いたかったのだろう。 「悪いねー。茜が落ち着いたと思ったら無性に吸いたくなってさ」  菊丸さんは美味しそうにタバコの煙を吸い込むと天井に向かって煙を吐き出した。彼が吐き出した煙は喫煙スペースの上の方で揺らめいていたけど、あっという間に空気に溶け込んでいってしまった。 「美味しそうに吸いますねー」 「うん。うまいよ! 格別!」  菊丸さんは口にタバコを加えたままニッと笑う。 「とりあえず、茜ちゃんはしばらく安静にしてあげた方が良いと思います。まぁ、ホテルにいつまでも泊まるってわけにもいかないかもしれませんが……」 「そうだよなー。今回はたまたま部屋借りられたけど、これから先のことは考えなきゃいけないよなー」 「そうですねー。何かいい方法あるといいんですけど……」 「まぁ大丈夫だよ! それにこれは俺と茜の問題だからルナちゃんは悩まなくても大丈夫だよ!」  私は飲み物を飲みながら自分のことを話した。家族のこと、学校のこと、アルバイトのこと、友達のこと。他愛のない話を菊丸さんは興味深そうに聞いてくれた。彼はカフェオレとタバコを交互に楽しんでいる。 「私の話はこれくらいにして、菊丸さんの話も聞かせてもらえると嬉しいです」  私がそう言うと、菊丸さんは少し困った表情を浮かべた。あまり聞かれたくなかったかな? 「うーん。まぁいいけど、あんまり面白い話じゃないよ?」 「それでも聞きたいです」 「そうか……。じゃあ簡単に」  そう言うと菊丸さんはタバコを灰皿に押し付けて火を消した。  菊丸さんは新たにタバコを取り出すと火をつけることなく、右手に持ちながら話を始めた。 「まずさ、今回なんで茨城まで来たかを話そうかな……。助けてもらって何も言わないのはどうかと思うし」  菊丸さんはタバコに火をつけることなく手に持ったタバコをペン回しのようにクルクルと回しながら話をした。 「その、なんだ……。俺と茜の家は特殊な家業をしてるんだ。あんまり大きな声で言えないけど、カタギの仕事じゃない。簡単に言えばヤクザ家業だ」 「ヤクザって暴力団とか?」  私がそう言うと、菊丸さんは「声が大きいよ」と口の前に指を立てた。確かに彼の見た目は明らかにヤクザっぽかったけど、本当にそうだとは思わなかった。 「俺の親は千葉を縄張りにするヤクザなんだ。もっと詳しく言うと、テキ屋の元締めみたいなことをしてるのさ。露天商から所場代をとるアレだね」 「聞いたことあります。屋台とか取り仕切ってるんですよね?」 「そうそう、まさにそれだよ。ウチの組はそれを生業にしてるわけさ。もっとも、俺や茜は直接的には関係ないけどね」  菊丸さんは話したことを少し後悔しているように見えた。 「ルナちゃん引いたかい?」  菊丸さんはちょっと聞きづらそうに私に尋ねた。 「いえ、別に引いたりはしてませんけど。そうゆう職業の人とこうやってお話しするのは初めてだったから少し驚きました」  私の素直な感想に菊丸さんは「ククっ」と軽く笑った。 「そうか、ならよかった。人によっては……。というかほとんどの奴は俺がこんな話をすると固まっちまうんだ。ヤクザだって人間なのにまるで違う生き物でも見るみたいにさ」 「いえいえ、どんな仕事されていても菊丸さんは菊丸さんですよ! 私引いたりしませんから」 「ルナちゃんは肝が据わってるんだなー。まぁ、とにかく俺たちの実家はそんな仕事をしてるわけだ。そのせいでトラブルがあってね。分かりやすくいうと組内でいざこざがあったんだ。俺の家系は千葉県内にいくつかの組があってね。その中で新しいリーダーを決めることになったんだけど、それで揉めちまったわけ」 「誰がリーダーになるかでみんな喧嘩したってことですね」 「そう。喧嘩っていえば可愛いもんだけど実際はかなり危ない感じだ。文字通り「暴力団」だからなー。よく抗争って言われてるアレだな」 「あの……。興味本位で聞いて申し訳ないんですけど、やっぱり拳銃とか撃ち合ったりするんですか?」 「ああ、撃ち合いとかになる場合もあるよ。さすがにそこまで荒れることはあんまりないけどね。実際は脅しや金のやり取りがメインかな。みんな命は惜しいからさ」  菊丸さんの話はどこか現実味がないように感じられた。ドラマとかで見ることはあるけど、あんなことが実際にあるとはなかなか信じられない。 「俺たちの家業は必要悪だからさ。無けりゃないで社会に問題も起こるんだよ。社会の重しとしてのヤクザってもんに俺は誇りを持っているつもりだ」 「なんかすごいですね。身近な話じゃないので実感が湧かなくて、そんな世界があることが驚きです」 「ルナちゃん、普通に生活してれば俺らみたいな連中と接点を持つことはまずないから安心していいよ。まぁ一〇〇%ないかっていうと言い切れないけど……」 「それで危ないことになってるから避難してきたってことなんですね?」 「そう……。半分は当たりだ。俺がまだ小さい頃からこんないざこざは何回かあったんだ。俺の兄貴もそんなことがあって死んじまった。それでもなんとかやって来たんだけど今回はちょっとやっかいでね。詳しくは話せないけど、俺も茜も直接的に今回の面倒な抗争に巻き込まれそうなんだ。だから親父にもおふくろにも黙って家を出てきたんだ」 「そうだったんですか……」  私はそれしか言うことができなかった。彼らには彼らの事情がある。そして首を突っ込むには、事態は想像の範疇を超えてあまりあった。幼い茜ちゃんも危険な目にあっているというのが歯がゆかったけどどうしようもない。 「茜もなー、小さい頃はちゃんと話せたんだよ。兄貴が死んだ時のショックで口がきけなくなっちまった。可哀想だけど俺にも親父たちにもどうしようもなくてさ」  そこまで話して、菊丸さんは手に持っているタバコにやっと火を点ける。さっきまでと違って少し苦そうだ。 「菊丸さん、もし私に力になれることあったら言ってください。できる限り協力します! 私にできることなんてあんまりないかもしれませんけど……」  菊丸さんは少し間を置いて、「ありがとう」といって穏やかに笑った。  私は「茜ちゃんによろしく」と菊丸さんに伝え、別れ際に連絡先を交換した。  私は駅ビルに向かい、夏物の服を探した。アパレルショップで買い物しながらも咲冬兄妹のことが頭から離れなかった。せっかく知り合えたのだから彼らに何かしてあげたいと思った。  そんなことを考えていると、スマホにLINEの通知が入る。  田村さんからだった。
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