裏月 モスクワの海

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裏月 モスクワの海

「あっちーよ」  私はボヤキながら、平らに伸ばしたピザ生地をオーブンに突っ込んでいった。焼かれた生地はチリチリと音を立てて、焦げ目をつけていく。この光景を毎日見ているので、もはやピザに対する食欲は皆無だ。 「京極ちゃーん。ジャーマンとミックスクォーターのLも追加よろ!」  店長は伝票を厨房のテーブルの上に置いた。 「はいっす! 店長やべーよ。干上がる」  私はごねるように店長に訴えたけど、店長は相手にしてくれなかった。 「はいはい! 暑いのはみんな一緒だからねー! 京極ちゃんだけじゃねーの」  そう言って、事務所に行ってしまった。マジで勘弁してほしい。 「京極ぅ。あんまり文句ばっかり言ってんじゃねーぞ!」  バイトの先輩の茅野さんに軽く頭を小突かれた。 「痛ったいなー。何すんですか茅野さん!」  私はむくれた感じで言ったけど、茅野さんも私の相手をしてくれなかった。なんでみんな私の扱いが雑なの?  《ピザプルート》は夏だというのに注文がひっきりなしに入っていた。このクソ暑い中、なんでみんなピザを食いたいのかな? 私はそんな疑問を持ちつつも、ひたすらに電話オーダーが入ったピザを作っていく。ずらっと作業台の上に並んだピザ生地の上に具材を乗せ、オーブンの中に投入していく。これなら工場作業員の方がなんぼか涼しいんじゃないのかと思うほどにクソ暑い。  このピザ屋は私のバイト先だ。それなりに時給もよく、この髪の色や態度を容認してくれる店長には感謝もしていた。先輩方もデリバリースタッフもぶっきらぼうな態度でありながらも私を可愛がってくれていた。  思い返せば私は接客業ではなく、こんな風に飲食店の裏方として働くことが多かった気がする。以前働いていた駅中のパン屋もこんな感じで仕事をしていた。いかんせん、時給が安かったから辞める羽目にはなったんだけど。  お昼が過ぎると多少ピザの注文も落ち着いてきた。店長が昼食を食べに外に行ってしまうと、店内は私と茅野さんの二人きりになった。デリバリースタッフも戻ってきていない。 「今日は忙しかったなー」  カウンターにもたれ掛かりながら茅野さんはため息を吐いた。彼は大卒だけど就職に失敗してここでアルバイトをしながら職探しをしている。もうすでに正社員くらい働いてはいるけど。 「そうですねー。あっついし、死ぬかと思いましたよ」 「お疲れ! 京極、炭酸とか飲めるか?」 「好きですよー。サイダー飲みたいなー」  それを聞くと茅野さんは、店の出入り口の自販機に行ってコーラとサイダーを買ってきた。 「ほら、これでも飲んで気合い入れろ!」  そう言うと、サイダーを私に手渡してくれた。 「あざーす! さすが茅野っちわかってるー」 「おめぇは先輩に対する口の利き方が……」  茅野さんは文句を言いながらも笑っている。  サイダーを一気に喉に流し込む。ヤバい。半端ない。 「ぷはぁー!! うめーなちくしょー」 「あのー、京極ちゃん。お前、一応女子だよな?」 「ん? 一応そうすね」 「だったらよー。もう少し可愛げがあるようにしろよ! 下品だぞ!」 「何を今更」  私と茅野さんは互いにひどい言葉を掛け合った。私はこの掛け合い嫌いじゃない。  その後、空いた時間を使って調理器具を洗い、店内を軽く掃除した。カウンター前には新人女優が笑顔でピザに手を伸ばしているポスターが貼ってある。たしかTVCMにもこの女優が出ていた気がする。店の前の道路は渋滞しながらノロノロと車が走っていた。今日は祭りだから混み合っているのだろう。  このバイトが終わったら里奈たちとお祭りに行く。里奈のフィアンセと大志も一緒だ。変わったメンツだけど悪い気はしない。 「それじゃ、京極! 上って良いぞ。店長には俺から伝えとくから」 「え? でも茅野さんボッチじゃ可哀想です」 「もうすぐデリのスタッフ戻るから大丈夫だよ! お前これから出かけるんだろ?」 「え? なんでわかったんですか!? 茅野さんエスパー?」 「ばーか! おめぇの態度見りゃ分かるよ。なんか浮かれてるし、鼻歌交じりだったぞ」  ヤバい。バレてた。 「へへへ、そうなんですよねー。今からダブルデートに」 「へー、お前彼氏と別れたんじゃなかったっけか?」 「友達とその彼氏ってカップルとバンドメンバーとで行きます! メンバーは彼氏じゃないっすけどね」 「そうか。まぁなんでもいい! さっさとあがれ。店長戻ってきたら、残業させられるぞお前」 「はーい! じゃあ、お言葉に甘えて」  茅野さんは口は悪いけどいい人だ。どういうわけか私の周りにはそんな連中が多い気がする。大志もそうだし、大家の湯野さんも口が悪い。まぁ、私も口が悪いから類友だとは思うけど。言葉遣いがキレイなのは、里奈とジュンくらいかな?  私はタイムカードを切るとサッと帰り支度をした。これから里奈と待ち合わせだけど、汗まみれだから一旦家に帰って着替えてこなければいけない。 「じゃあ、茅野さん! お疲れさまです。また明日」 「はい、お疲れー。気をつけていけよ!」  茅野さんは右手を軽く上げて私を見送ってくれた。  通勤用に使っている自転車の鍵を開ける。それから国道の交差点まで自転車を押していって、そこから一気に走り出した。店内が暑かったせいか思っていたより外は涼しい。幸い、その日の天気は曇り気味だった。  自転車のペダルを立漕ぎしながら国道を走り抜ける。私の家はバイト先から割と離れているので、帰るのが大変だ。出勤時は下り坂なので、当然帰りは上り坂になる。里奈たちとの約束の時間までにはまだ余裕がある。けど、大志を迎えにいく必要があるから急がないとね。  必死の思いで坂を上りきると水戸駅北口前のロータリーに出た。家まではあと少しだ。予想通り、北口付近は人でごった返してる。浴衣を着たギャルっぽい女子が多くいて、いかにもヤンキーチックな男子もたくさんいる。やっぱり土地柄か水戸はヤンキーとギャルだらけなのだ。私はギャルじゃなくてヤンキー寄りかな?  それから一〇分ほど自転車を走らせるとようやく自宅に到着した。当然だけど、ブラもショーツもTシャツもビショビショになってしまった。化粧は全くしていないので問題ないけど。  私はシェアハウスの重い扉を両手で開けた。玄関の共用スペースで湯野さんがタバコを吸いながら新聞を読んでいた。 「京極さんお帰りー。ずいぶんと汗まみれじゃないの?」  湯野さんはチラッと私を見てそう言った。 「ただいま! マジ半端ないよ! 私この夏でまた痩せちゃうよ」 「ハハハ、労働ご苦労だねー。私は黙って家賃収入もらうだけだからラクチンでよかったー」 「うわー。ひでー。若者が必死に汗かいて働いているのに!」 「これでもおばさんは若い頃は苦労したんだけどねー。京極さん麦茶でも飲むけ?」 「ちょーだい!」  湯野さんは事務所の冷蔵庫から麦茶の入ったポットを持ってきて、コップに注いでくれた。私は躊躇することなくそれを一気に喉に流し込む。ヤバい。やっぱり半端ない。 「おかわり!」 「はいはい。好きなだけ飲んだら良いよ」  私は湯野さんに麦茶のおかわりを要求してもう一杯喉に流し込んだ。 「京極さんて美味しそうに飲むよねー。私も麦茶作り甲斐があるよ」 「ごちそうさまです! 湯野さん助かったよー。マジで喉カラカラでさー、死ぬかと思ったわ」  私と湯野さんは共用スペースで少し談笑した。彼女からタバコを一本もらい、プカプカふかした。(ちなみに私は未成年だ) 「そういえば、空き室の問い合わせあったから、もしかしたら新しい入居者が増えるかもしれないよ」 「へー、そうなんだねー。てか今空いてる部屋私の隣の部屋だけじゃなかったっけか?」 「そうだよ! 自動的に京極さんのお隣さんになるわけだ」 「んー、ギターの練習文句言われないといーなー」  新しい入居者も気になるけど、今は出かける準備をしなければいけない。  部屋に戻ると、替えの下着と服を用意してシャワールームに向かい汗を良く流した。身体中隈無く洗う。陰部は特に。やはり他意はない。  シャワーを浴び終わると私は自室で軽く化粧をした。どうせ外に出れば落ちるんだろうけど、さすがに里奈のフィアンセにスッピンで会うわけにもいかない。大志は別に良いけど。  ちょっとだけよそ行きの服装に着替えた。いつもはしないけど、薄手のニット帽と黒ブチの伊達メガネもかける。多少は賢そうに見えるだろう。発想が馬鹿だけどね。  時計の針は午後三時半を指している。大志は今大学にいるようなので迎えにいくことにした。彼の通っている大学は水戸市内の学生が多く通う私立大学で、私の出身高校(中退したけど)からも何人も進学していた気がする。  私は大通りまで歩くと市内を循環する常盤大学方面行きのバスに乗り込んだ。夕方近くなると、祭りも本格的に始まりつつあるようで人混みが一段と増している。道路は渋滞していて大学までノロノロとバスは進んでいった。いつもは一〇分かからないはずの道が気がつくと三〇分近くかかってしまった。  ようやく大学前のバス停に到着すると私以外誰も降車しなかった。大学構内も人が少ないようで、学生が見る限り五~六人ほどしかいない。私は大学構内に入らずに正門で大志が出てくるのを待つことした。彼にLINEだけ送って正門前の花壇に腰を下ろした。  花壇には小さなひまわりがたくさん並んでいる。私はこの太陽の花が好きだ。いつか北海道とかの馬鹿でかいひまわり畑に行ってみたいと思うほどだ。名前に「月」が入ってはいるけど、私は太陽に憧れている気がする。月の裏側は日が当たらないからかな? 「悪い、遅くなった」  私が花壇のひまわりを見ながら考え事をしていると大志に呼ばれた。 「お疲れ大ちゃん! 今日は助かるよ!」 「ああ、いいよ。俺もやることあるわけじゃなかったし。そんじゃ俺の車で行こう!」 「よろしくお願いしまーす」  私は大志の車に乗せてもらうことにした。大学の大きな駐車場に、ポツンと一台だけ彼の車が停まっている。少し型の古いオデッセイでけっこう改造がしてあるようだ。車に疎い私でさえいじっていると分かるような改造の仕方をしている。シャコタンでマフラーを交換してあるのは一目で分かった。 「相変わらず、すげー車だね」  私は多少の皮肉を混めてそう言った。けれど大志は軽く流す。たぶん、いつもこんな風に車のことを言われているんだろう。なんて可哀想なオデッセイ。 「で?」 「で? って?」 「いや、どこ行けばいい? お前の友達と待ち合わせしてるんだろ?」 「あーはいはい! とりあえずねー。水戸駅の南口の駐車場に適当に停めて駅南で合流しようって話なんだよねー。南口いったら私が里奈に連絡するから、待ち合わせは五時だから余裕っしょ!」 「りょうかい! それじゃー、駅南まで行くとするか……」 「はいな! それでよろしく」  大志は車を発進させた。前輪が空転してキュキュキュとタイヤがこすれる音がしてからの発進だった。 「おおぉ! ちょっと大志。もうちょい安全運転!」  私は彼を諭すようにそう言った。私が諭すのだからよっぽどだ。 「ああ、悪い悪い。お前乗っけてるんだっけな」 「忘れんなよ! 私は空気か!?」 「空気みたいなもんだろ?」 「はぁ!? マジふざけんなし!」  私の怒った顔を見て大志は楽しそうに笑った。たしかに大志にとって私は空気みたいなもんなのかもしれないけど、はっきり言われるとそれはそれで微妙な気持ちになる。  それでも大志は、私の注意を聞いてくれたのか、安全運転で走ってくれた。どっちにしても道路が渋滞しているから飛ばすことはできないんだけどね。 「ウラさぁ。後で対バンのことで話し合いたいことがあるんだけどさー」 「なぁに? 今ここで聞くよー」 「いやさ。一応、純の奴もいるときに話そうかなーと……」 「ジュン君はバンドの運営に関してはほぼノータッチじゃん! やる気があるのかないのか……。確かにベースの腕とシャウトに関しては彼のこと尊敬してるけどさ」 「あんまり純のこと悪くいうなよ! 俺と純が幼なじみなの知ってるだろ?」 「知ってるけどさー。大志さー、私とジュン君があんまり合わないのは知ってるじゃん? 一緒に演奏しているとき以外は私と絡みたがらないしさ」 「それはお前が威圧的な態度とってるからだと思うぞ。純は平和主義者だからあんまり争いたくないんだよ」 「私がいつ、彼に威圧的な態度とったって?」  私はムッとしてしまった。大志もそれに気がついたのか取り繕う。 「威圧的っていうか。ほらお前、思ったことはっきり言い過ぎなんだよ! お前の意見正しいと思うことはよくあるけどさ。言い方次第で台無しになることだってあるんだよ。わかるだろ?」 「わかっけどさ! でもジュンのアレはヒドいって! 私がニコニコ話してるのに急にいなくなったりするしさ。正直良い気はしないよ?」 「分かった分かった! これ以上この話はやめだ! 今からお前の友達に会うのにこんな空気のまま会ってもしょうがねえだろ? とりあえず棚上げだ!」 「棚上げ……」  私は欠片も納得していなかったけど、たしかに里奈に不機嫌な顔を見せてもしょうがないと思う。今回は大志の意見を聞きましょう。大人の対応として。  私たちはノロノロ運転のままどうにか水戸駅の駅南までたどり着いた。駅南のロータリーは思った通りかなりの混雑だ。少しロータリーを回って駐車場を探すと幸いなことに市営パーキングが空いていた。大志の車は喧しい音を立てながら駐車場にバックで駐車した。 「ほら、着いたぞ」  大志は私に下りるように促した。さっきのことがあるので素直に聞く気になれなかったけど、仕方ないのでかったるそうに降りる。やっぱり私はガキかもしれない。 「もうすぐ五時だし、友達……。里奈ちゃんだっけ? 連絡してみたらどうだ?」 「うん。今から送るよ」  私は里奈にLINEを送って返信を待った。その間、大志と私との間に微妙に悪い空気が流れている。別に大志が悪いわけじゃないのに。やっぱり私は馬鹿だ。 「大志さぁ。さっきは感情的になってごめん。なかなかジュン君とはうまくいかないんだよね……」 「もういいよ。別に気にしてねーから。お前にはお前の良いところあんのにもったいねぇと思っただけだから」  そう言って大志はいつものようにタバコに火をつける。そんな大志が私よりもずっと大人に見えた。確かに四歳年上なので大人なんだけど、彼はそれとは違う意味でずっと大人なんだろうと思う。  五分くらい経つと里奈から返信があった。 『お疲れさま。今、駅南の映画館前にいます!』 『お疲れ! じゃあ私たちもそっちいくよ。ちょっと待っててね』  里奈からの返信があったことを大志に伝え、私たちは映画館の前までの階段を上っていった。 「ったく。お前はしょうがねー奴だな」  大志は階段を上りながら私の頭を軽く小突いた。表情は笑っている。これで仲直りだ。  階段を上りきると映画館にたどり着いた。映画館前には浴衣姿の里奈と清潔感のあるスラッとした男の人が仲良さげに立っていた。私と大志は顔を見合わせると、彼らのもとに歩み寄った。
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