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傘の花を浮かべ雨に唄う・2
「電話してもいい?」
りとさんからだった。「うん」と送信して、着信を待つ。
「仁くん、逆転されちゃったね」
第一声がそれだったので、俺はちょっと笑ってしまった。
「ホームラン打たれちゃって……でも、失投じゃないから、今日は調子いいと思うんだ」
「そうなんだ。今、事務室でテレビつけたばっかりだから」
「そっか。まだかかりそう?」
「もう少しかな」
「仁くん、なんか元気なくない?」
「え? そんなことないよ。めっちゃ元気だし。りとさん、ちゃんとご飯食べた?」
「うん。みなみがパスタ作ってくれた」
「そっか。じゃあ、明日」
「うん……あ、追いついた!」
テレビを観ると、永野の二本目のホームランが飛び出している。
「やったね、仁くん!」
「うん」
「ごめんね、仕事の邪魔しちゃって」
無情にも、そこでりとさんからの電話は途切れた。いや、残業中って言ってしまったこっちが悪いんだけど……。
試合が同点のまま五回の表まで進んだところで、雨の音が小さくなってきた。
俺はテレビを消して事務室から出る。鍵をかけると、裏口へ進んだ。
このくらいの雨なら、走ればそんなに濡れずにすむだろう。廊下の電気のスイッチに手を伸ばしたとき、裏口のチャイムが鳴った。
こんな時間にお客さんがくるわけがないので、誰かのいたずらだろうか。気分が悪いときは、考えまでネガティブになるようだ。
裏口を開けるとそこには、
「良かった、入れ違いにならなくて」
りとさんが立っていた。
「え、どうしてここに……」
見慣れない赤い傘を差したりとさんは、薄手のコート姿だった。透明のビニール傘を一本、腕にかけている。
「傘、持ってる?」
「いや……実は忘れてきてて」
「やっぱり元気ないみたい。何かあった?」
こみ上げてくる嬉しさと図星をつかれたことで、何も言えなくなってしまった。
「永野のホームランに触れないなんて、仁くんじゃないみたい。声も元気ないし、心配になってきちゃった。ちゃんとご飯食べた?」
首を傾げる動作が愛おしくて、俺は胸がいっぱいになってしまう。
「……市川さんは?」
気のきいた言葉の一つも出てこなくて、俺はそんなことを尋ねた。
「心配してたよ。こういうときに行かなきゃ、彼女って言えないよって。みなみの家には、また別の日に遊びに行けばいいし」
「そっか……」
ビニール傘を差し出しながら、りとさんが言う。
「帰ろっか。この傘、二本ともみなみに借りてきちゃったんだ。私、赤似合わないんだけどね。ブランドものらしいから、ちょっと開くのに勇気がいるっていうか……」
一生懸命に間を繋ごうとしているりとさん。
「そうそう、シャイニング逆転したんだよ。坂元のソロホームランで。本当、永野と坂元って気が合うよね」
俺は一歩踏み出して、その体を抱きしめた。
「りとさんはどんな色でも似合うよ」
りとさんの肩は少しだけ、雨に濡れている。
「もう、仁くん。ほら、傘ささないと濡れちゃうよ?」
「うん」
りとさんから透明のビニール傘を受け取り、降る雨をしのぐ。
「私、雨が降るといつも保育園時代を思い出すんだ。一人でお父さんがくるの待ってたこと」
「うん」
「迎えにくるってわかってても、やっぱり心配になって窓の外ばかり見てた。ある日、お父さんがすごく遅くなったことがあったんだけどね。クラスメイトに『オマエの父ちゃん、もう迎えにこないんだ』って言われて泣いちゃって。でもその日、お父さんは新しい傘を買ってきてくれた」
りとさんは淡々と話し続けている。
「それから、雨が好きになったんだ。新しい傘を開くのが楽しくて」
小さなりとさんが、スキップしている様子が目に浮かんだ。
「仁くん、あまり雨が好きじゃないでしょ? ちゃんと私が迎えにくるから、もう大丈夫だよ」
柔らかく降る雨のように、りとさんの言葉が心にしみて行く。
「ありがとう、りとさん」
今日は最悪の一日になるはずだった。
「ちょっと仕事でミスしちゃって、ヘコんでたんだ」
「そうだったんだ。よしよし」
りとさんが背伸びをして俺の頭をなでる。
「私がいなくて寂しかった?」
「うん」
「え?」
「朝は起きられないし、昼は食べられないし、仕事でミスするし。挙げ句の果てにシャイニングは負けてるしで、最悪だったんだ。でも、りとさんがきてくれたから、逆転満塁サヨナラホームランってところ」
そう説明すると、りとさんは何故だか耳まで赤くなった。
「そ、そっか。じゃあ、やっぱりきて良かったかな。さ、帰ろっか。さっき満塁になってたし、また追加点取ってるかもだし」
そそくさと背中を向けて、りとさんが歩き始める。
「永野、絶好調だよね」
俺はそれを追いかけるように、水たまりの中へ一歩踏み出した。
了
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