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「カーラ先生、おはようございます。長期休暇でご迷惑をお掛けしました」  すみません、と続けようとするエイトを遮ってカーラは笑顔で返した。 「おはよう、エイト先生。ヒート休暇は国で義務付けられてるおやすみだからね、気にする必要はないわ。それより調子はどう?」 「おかげさまで、もう大丈夫です」  仕事は激務で残業、持ち帰り仕事も多い職場だけど、こと人間関係においては恵まれている。特にエイトみたいに定期的に休暇を必要とするオメガにとってこもれび保育園(ここ)はとてもありがたい職場だ。 「そう、ヤリ倒してスッキリね」  背後から現れたサラがエイトの肩に顎を乗せて恨めしそうにつぶやいた。  今までオメガ性だということは園長先生しか知らなかったし、三ヶ月に一回の発情期(ヒート)も週末にかかったりしたこともあり、なんとかオメガであることを隠してこれた。  だが、消防署訪問を終えたあと『エイト先生がブレッド司令長と番となって婚約した』とお迎えの時にヘビロフが担任のカーラに告げたことによって瞬く間に周知された。  最初こそ幾人かの保護者には奇異なものを見る目で見られたが、多くの保護者や先生の態度は今までと変わることがなくてエイトはほっとした。  それになにより子ども達がいつもどおり次々と「 遊ぼー」と飛びかかってくるのでそんな胡乱げな目に構っているひまもない。気がつけば新たな年度を迎えていたが、特に表立って困っていることはなかった。  ただ一つ、エイトがオメガだと知ってからは目標物の見定めトークだけでなく猥談も容赦なくなったサラだけを除いては。  幽霊のように背後に張り付くサラにエイトは冷や汗をかき始める。 「あの、なにか僕やらかしてたでしょうか?」  休みに入る前に申し送りはしっかりできたと思う。  だがまだまだ不安だらけの保育士二年目である。なにか不備でもあったのかと恐る恐る聞くエイトにサラはため息を吐きながら答えた。 「エイト先生の休暇中、ユリア嬢の背中から漂ってた悲壮感がそりゃもう半端じゃないの。制作時間も遊び時間も心ここにあらずって感じでさ。もうすぐイスティー音楽祭もあるっていうのにクラスも全然まとまらないし」  年中組のユリアは、去年住んでいるマンションが火災に見舞われ、エイトによって助け出された獅子族の女の子だ。年少の頃からリーダーシップに長けていて、クラス担任となったサラも「彼女がいれば大丈夫」とその手腕に期待していた。  そんな彼女はエイトのことが大好きだと言って憚らず、『将来のお婿さんになって』と真剣にプロポーズされたことは数知れず。  そんな愛してやまないエイトが番を作った、なんて聞いた日には、文字通り本当に寝込んでしまった。  自分のせいでユリアが寝込んだことにものすごい罪悪感に囚われたエイトだったが、そこは子どもだからなのか1週間もするケロリと登園しはじめたユリアに、エイトも先生も両親ですら苦笑したものだ。  そのユリアが再び自分のせいで元気がないと聞いてエイトはどういうことだ?と疑問を感じつつも心配が先に立つ。 「ちょっとひまわり組をのぞいてきます」  カーラにそう告げて、背中のサラを引き剥がすように年中組へ向かうと子ども達は大人しく椅子に座ってお絵かきをしていた。  その一角で真っ白な画用紙を前にして肘をついてぼんやりと窓の向こうを見つめるユリアがいた。 「おはよう、ユリアちゃん。久しぶりだね、今日はなにを書くの?」  さりげなさを装って話しかけてみるとこちらを向いたユリアは一瞬目を大きくしたものの、なんだ、エイト先生かとつぶやきながら大きなため息をつき、画用紙へと視線を落とした。 「え?あの?ユリアちゃん、何かあったの?」  サラの話から自分が姿を見せたら笑ってくれるんじゃないかと若干自惚れた反応を期待していたのに、思いがけない態度であしらわれてエイトの方が戸惑って机の横にしゃがみ、ユリアの顔を覗き込んだ。 「あたしにだって悩み事のひとつや二つあるわ。番のいるエイト先生にはわからないだろうけど」  画用紙の上でクレヨンを走らせながらなんともそっけない返事が返ってきた。進級してからというもの、ユリアの精神的な成長が著しい。頼もしくもあるが時に大人顔負けの受け答えをするユリアに周囲の大人はタジタジだ。 「それよりエイト先生はどうなのよ。婚約者とはうまくいってるの?」  5歳児とは思えない質問にエイトはなんと答えたらいいものか閉口する。  下手な答えを用意できないエイトはブレッドとの新生活を振り返った。  番となったヒートが明けた翌日にはいつの間に手配されたのか、今まで住んでいたアパートの荷物がブレッドの部屋に運び込まれ、有無を言わさずの同棲生活がはじまった。  ブレッドは仕事での能力もずば抜けて高いが、不規則な仕事の合間を縫って家事は率先してやってくれるし、仕事の帰りにはエイトの好きな焼き菓子を買ってきてくれる。更には暇さえあればエイトの毛づくろいをもしてくれるのだ。  エイトからしたらはちみつ大好き黄色の熊ですら逃げ出すほどのそれはそれは甘い生活を送っている。  あまりにうまくいきすぎて怖いくらいだ。  ただ…… 「なぁに?そんなシケた顔して。浮気でもされた?」 「はぅあっ!」  いつの間にかうつむいて考え込んでいたようで、しゃがむエイトのさらに下からイスから下りたユリアにのぞき込まれた。 「う、う、う、浮気なんてそんなことブレッドさんがするわけないよ!」 「あら、そうなの。エイト先生というものがありながら他の人に手を出すような人だったら締めあげて番解消させようと思っていたのに」  想像もしていなかった方角から飛んできたユリアの爆撃に大人気なく全否定したエイトだが続く言葉がじんわりとエイトの心に染み込んできた。 「ありがとう、ユリアちゃん。そこまで先生のこと心配してくれているなんて。でも大丈夫、僕たちはうまくいっているよ」 「なんだ、つまんないわね」 「え?ユリアちゃん、先生のこと心配してくれてるんだよ…ね……?」  その時、クラスの入り口からサラの呼ぶ声が聞こえた。 「エイトせんせーい、おやつタイムだからそろそろベビークラスに戻ってってカーラ先生が呼んでたわよ……ってどしたの?そんな気落ちした顔して」  結局ユリアの憂慮がどこにあるのかわからないままエイトは仕事に戻ったのだった。
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