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「ただいまー」
1日の勤務を終えて、自宅のドアを開けた。
ブレッドの住まいは消防署の裏手にある官舎だった。築年数は割と経っているものの、消防を担う獣人は大柄な種族が多いのでどの家も間取りは広々としている。以前住んでいたワンルームのアパートよりよほど広いし設備も頑丈で、連れてこられた最初こそ恐縮したものの、すぐに気に入った。
中に入るとふんわりと温かい空気と共においしそうな匂いが漂ってきた。
今日のおかずは何だろう、と鼻をひくつかせるとその中に混ざる甘い番の香りを感じて知らず顔が綻んだ。
「おかえり、エイト。疲れただろう、すぐ食事にするか?それとも風呂がいい?」
靴を脱ぐや否やキッチンから出てきたブレッドに抱きしめられながらおでこにキスされる。気恥ずかしいが毎日の事なので最近はだいぶ慣れてきた。
「おいしそうな匂いがするから、ご飯がいいです」
つむじにキスを受けながらぐぅぐぅ鳴り出した素直なお腹をおさえるとブレッドは破顔した。
「では準備しておくから荷物を置いておいで」
手を洗って背負っていたリュックを自室にしまい、リビングへ向かうとテーブルの上にはおいしそうな品の数々が並んでいた。
「いただきます」
ほんわかと湯気の立つきのこの味噌汁から箸をつけると、お腹の中からじんわりと温まる。ふわっと香るカツオの出汁に食欲がさらに増した。
サクサクの肉巻きフライを手始めに、青菜のお浸しや白身魚のホイル焼きにもどんどん手が伸びる。
「おいしいー」
「そうか、いつもエイトはおいしそうに食べてくれるから作りがいがある」
自然とこぼれる賞賛の声にブレッドも嬉しそうにうなずく。
「らって本当においひいんれすもん」
ゴマドレッシングで和えた温野菜サラダを頬張りながらの主張にブレッドは相好を崩した。そのまま親指でエイトの口元を拭い、手についたドレッシングを舐めとる。そんなちょっとしたしぐさがさまになっていてエイトは日々ときめきに心臓がいつ潰されてしまうのか、と心配が絶えない。
それにブレッドの作る料理はどれもおいしい。おいしいだけでなく、栄養バランスもばっちりで、前までは多忙な保育士の仕事も相まってコンビニ弁当ばっかり食べていたエイトにはありがたいことこの上ない。
それもそのはず、基本的に消防士は緊急出動に備えて出勤時は署に完備されている厨房で自分たちで食事を作って食べるのでいやでも料理はせざるを得ず、そんな中でもブレッドの料理は他の消防士からも評判がいいほどの腕前だ。
以前は連続丸3日勤務とかしていてそのたびに料理の腕を振るっていたので署内ではひそかに楽しみにされていた。
でもエイトと番った今は他の消防士と同じルーティンで仕事に行っているので、こんなにおいしいご飯が食べられなくなって他の消防士に文句を言われるんじゃないかと心配したエイトだった。
だが、ブレッドが定期的に休んだりエイトに合わせてヒート休暇を取得することで他の消防士たちも『休みをとりやすくなった』と逆に感謝されてしまった。
書類仕事がどうの~とぶつくさ言ってる署長はブレッドがいつも黙殺しているので問題無い。
「ところで、来週末に両親の時間ができたから、会ってくれないか」
テーブルの料理がほとんどなくなった頃にブレッドがおもむろに切り出した。
番となった勢いで入籍まで済ませた二人だが、実はまだお互いの両親に会ってすらいない。
昔は外交官だったというブレッドの父は今ではいろいろな会社の顧問や相談役などをしていて忙しく、今まで顔を合わせることが叶わなかった。ただ、エイトに会わせろとしょっちゅうせっついてくるらしい。
「そんなにいうのだったらあちらが時間を作るのが筋なのに、その辺は頭が固くてどうしようもない」
「きっとお忙しいのだろうし、僕は週末お休みだから構わないですよ」
正直、ブレッドを生み育てた両親がどんな人なのか興味はあるし、これからお付き合いしていくならきちんと会って挨拶がしたい。
だがサラから聞きかじった話によると、上位種とされるアルファの家系では代々優秀な遺伝子を輩出することをよしとしている。なのでその多くは由緒ある家同士で縁談が組まれているそうだ。それはブレッドの生家も例外ではないのではないか、つまりブレッドにも決められた婚約者がいたはずだ、というのだ。
本人に確認すると「そんなのは親同士が勝手に決めた口約束に過ぎない」と笑い飛ばしていたけど、婚約者の存在を否定しなかったことに少なからずショックを受けた。
同時に自分は世の中で滅多にいないオメガ。それも常に半獣であるゴリラ族の自分にいったいどんな評価を下されるのか、とエイトは顔を合わせる機会がなかなかないことに安堵していたのも事実だ。
「とって食うようなことはしないから大丈夫だ。それに私が見染めた運命の番なんだから、両親も異論はないだろう。というか認めない。それに私の母親もオメガだ。君に早く会いたくて仕方ないらしい」
エイトの不安を見てとったブレッドに気遣われて申し訳ない気持ちになる。
「僕もブレッドさんのご両親にお会いしたいです。これから義理とは言え家族になる人たちなのでちゃんとご挨拶しとかなきゃ」
飲み干したコップを両手で握って自分に言い聞かせるように答えるエイトにブレッドのついた小さなため息は届かなかった。
「それに、ごめんなさい。僕の両親には会わせてあげられなくて」
結婚した当初、当然エイトの両親にも会いたいと言われたが今は連絡を取ることができない。
エイトが10歳のころ、父親が借金の連帯保証人となっていた知人の会社が倒産した。父は蒸発した本人に代わり、突如として億にものぼる借金を返済しなくてはならなくなったのだ。普通の稼ぎでは到底返せない。
父親が出稼ぎで家を空けるようになると母親は4人の幼い兄妹の世話の傍ら内職をするようになった。けれど、エイトが学校から帰ってきたときの酩酊が日々ひどくなり、次第に家事をしなくなり、暴言や暴力で子どもたちに当たるようになった。家にいられなくなった兄妹が寒風吹き荒ぶ公園の隅で固まって暖を取っていた時、通報を受けた児童相談所の職員に保護された。
その時すでに母親はアルコール依存症で手がつけられなくなっていた。父親は半年に一回帰ってくるような生活だし、エイトたちはそのまま施設暮らしとなった。
そこから紆余曲折を経て、施設を出たエイトは保育士となったのである。
父親とはだんだんと疎遠になり、母は周囲の手助けも虚しく、エイトが15歳の時に自ら命を絶った。
淡々と語るエイトをブレッドが優しく抱きしめて以来、話題に上ることはなかった。
「そのことは気にしなくていい。それより、腹もいっぱいになったし、風呂にでも入ろうか?」
すでに空になっている食器を手に立ち上がったブレッドの顔に先ほどの苦々しい表情は消えて、穏やかに微笑んでいる。
「僕、片付けてから入るからブレッドさん先に入ってて」
「なら一緒に片づけて風呂に入ろう。それとも一人でゆっくり入りたい?」
頬をするりと撫でられ、流し目で言われると、何も言えなくなってしまう。
背後でいたずらを仕掛けて来るブレッドを諫めながらやっとのことで皿を洗い終わると掻っ攫われるように風呂に入れられた。
ボディソープをモクモクと泡立てて、エイトの隅々まであらおうとするブレッドの手技がとても心地よくていつも風呂から上がるころにはふにゃふにゃになっている。
「さぁ、寝ようか」
エイトの全身を覆う毛を余すことなくドライヤーで乾かされると、心地よさに頭を支えているのがやっとだ。
「どうしよう、もう一人で生きていけない」
限界を迎えてベッドに突っ伏すと、追い打ちをかけるように始まったマッサージにエイトは呻く。
「一人でいさせるつもりはない」
つぶやきに力強く返された言葉が嬉しくて、恥ずかしくて、シーツに埋めた顔を上げることができない。
肩から始まり、徐々に下へ下りてくるブレッドの手が腰を通り、下半身へと向かう。ふくらはぎに到達したところで再び腰へと戻った手に、簡単に仰向けにひっくり返されてしまった。
「ふふ、気持ちよさそうだな」
見上げた先にある笑顔が大好きで、エイトは自然に腕をブレッドの首にまわして口づけた。
(たとえ婚約者がいたとしても、この人は僕のもの。
出会ってしまった今、譲ることはできない)
ふいに湧き上がる独占欲に抗えない。
キスはついばむように繰り返されて次第に深くなっていく。
ブレッドの大きな手があやすようにエイトの全身を撫でていった。
「おやすみ」
発情明けのエイトの体を気遣ってくれるブレッドの優しさに歓喜するが、こんな自分で本当にいいのだろうか負担になっていないのだろうか、でもそれが怖くて聞けない自分はずるい、と思いながら眠りの波にさらわれていった。
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