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 物心ついたときから、両親という存在と縁遠かった。  ユキが起きている間、家に父がいたという記憶はない。母はといえば、いつも忙しなく働き回っていて、そんな両親の代わりは近くに住む母方の祖父母がしてくれた。  祖母曰く、ユキは一人で何でもやってしまう子どもだったという。気づいたときには、自分で着替え、トイレをしていたとか。保育園でも一人、部屋の隅で絵本を読んでいるような子どもだったという。  休日があると、その前の日から祖父母の家にお泊りをする。そこに両親の姿はない。これは感覚でしかないが、その回数は年々増えていったように思う。だから、遊園地も水族館も、遊びに行ったのは祖父母とだ。  今思えば、祖父母は両親に構ってもらえない孫を惨めに思っていたのかもしれない。  小学校に上がる少し前のある日。普段と同じく祖父母の家に泊まるも、両親が迎えにくることはなかった。それから流れるように祖父母の家に住むようになり、その年からは両親と会うのは年に一度、正月に親戚が集まるときだけになった。  一時期、自分は他の家から貰われた子どもなのだと思っていた。だから、捨てられたのだと。でも、祖父母の話ではちゃんと両親と血のつながった子どもなのだという。その事実を知ったときはさすがに驚いたというか、なんというか、幼い子どもながらに一言では言い表せない複雑な感情を抱いたことを未だに覚えている。  だけど、ユキ自身、祖父母に育てられてよかったと思っている。  祖母は毎日、美味しい食事を用意してくれ、どんなにユキが失敗したとしても根気よく付き合ってくれる。祖父は無口だが、ユキの話に耳を傾け、助言をしてくれる。  今まで触れることのなかった愛は、なかなか慣れなかった。でも、二人の大人が自分だけを見てくれる。呼んだら振り向いてくれ、寂しくなったら隣にいてくれる。ユキに、人の優しさを教えてくれたのは祖父母だ。  あの時間が一番楽しかった。けれど、その時間は長くはつづかなかった。  中学校に進学すると同時期、祖母は寝込むことが多くなり、家事はユキ担当となった。祖母は昔から、自分が先にいなくなるからと言って、料理や掃除といった生きる知恵を教えてくれていた。  きっと、こうなることを見越していたのだろう。それに気づいたときには、祖母は病院に入院し、侘しくなった家に祖父と二人で過ごしていた。  二人になった家は、随分と静かだった。この家を明るく、にぎやかにしていたのは祖母だったようだ。あいにく、祖父もユキもあまり口数が多い方ではなく、静けさを誤魔化すためにつけられたテレビから聞こえる笑い声は、虚しさを増幅させた。  そして、ユキが中学二年生のとき、祖母は息を引き取った。  人の死とは、こんなにも静かなものなのか。初めて目の当たりした人間の死。消毒の匂いがする病室、白いベッドに眠る祖母を眺めながら、ユキはそんなことを思った。  そして、その数ヵ月後、祖母の後を追うように祖父が亡くなった。  祖母がいなくなってからというもの、どこか寂しそうにしていた祖父。ユキの前では気丈に振舞っていたが、祖母と同じく、入院したまま帰ってくることはなかった。  伯母たちが慌ただしく動く中、ユキは棺桶のそばに座り、眠る祖父を見つめる。血の気のない白い顔は、記憶よりもずっと皺が多い。おそるおそる冷たい手を握る。もう、昔のように握り返してはくれなかった。  また、一人になるのか。  そう思った途端、鼻の奥が痛くなり、景色が歪んでいく。ユキは手で口を押さえると、肩を震わせた。溢れる涙を止めたいのに、止まってくれない。悲しみを泣くことでしか表現することができなかった。  葬式後、親戚間でユキの預け先について話し合われた。親戚たちは、ユキが祖父母と暮らしていたことを知らなかったらしい。そのことで伯母は両親を叱っていたが、ユキ自身は両親のことなんてどうでもよかった。  ユキは部屋の隅で膝を抱えて座ると、他人事のように親戚たちを眺める。こんなところにいるくらいなら、今すぐにでも祖父母と同じ場所に行ってしまいたかった。 「有希人くんはどうしたい?」  伯母が、ユキの顔を窺いながら尋ねてくる。  きっと、伯母たちは預かりたくないだろう。そう思案しながら状況を確かめようと辺りを見渡せば、渋い顔をした親戚たち。伯母の後ろで正座をし、小さくなっている両親は、ユキを睨んでいる。それに気づいた従兄が両親を怒鳴った。  なんだ、この状況。当事者なのについていけない。  大人たちの目が、ユキ一人に集中している。居心地が悪く、圧がある視線。預かりたくないなら、はっきりと言えばいいのに。さすがに子どもとはいえ、そんな目で見られたらわかる。  それに、すでに答えは決まっている。 「ボクは――」  ユキは最初で最後のワガママを言った。  それは一つ、祖父母と過ごしたこの街で暮らしたい、というもの。けれど、祖父母の家は古く、元々、近い内に取り壊すことが決まっていた。だから、その代わりに今暮らしているマンションの一室が与えられた。ここから、祖父母の家があった場所までは歩いていける。  これは葬式後に知ったことなのだが、両親はいわゆるエリートと呼ばれる人だという。伯母の話だと、二人とも名の知れた会社に勤めているとか。そうだとしても、両親と生活をともにしていたのなんて何年も前で、ユキにとってはほとんど他人と一緒だった。  中学校の三者面談で母親に会ったのを最後に、両親の顔が見ていない。  別に、会いたいとも思わない。  でも、話す機会があるのなら、聞いてみたいことが二つある。どうして、二人は結婚したのか。どうして、ボクを産んだのか。聞いてみたいけれど、この答えを知ってしまうのは怖いから、一生聞くことはなさそうだ。  夜の暗闇、ひっそりと布団に潜りこんでからしばらく経つ。  内から熱を発する身体。布団の中は温められていて心地よい。風呂から上がったときは、今すぐにでも眠れると思うほど瞼が重く、欠伸が止まらなかった。なのに今は、そんな深い眠気もどっかに行ってしまった。  もしかしたら、昔を思い出したからなのかもしれない。高校に入ってからというもの、振り返ることはなかった。それが、カナと出会ってからというもの、何故かよく記憶がよみがえる。  まだ、祖父母との楽しい思い出だったらいいのに。繰り返し頭をよぎるのは、冷たい両親の目や一人置いていかれた空虚な時間ばかり。  ユキはごろりと身体を転がせ、枕に顔を押し当てる。迫る息苦しさに、鼻先を擦りつけた。  今日の分の涙はからっぽで、代わりに空しい思いが湯水のように湧き出てくる。自分は勝手に生み、捨てた両親が憎いのか。それとも、この世に置いていった祖父母を妬んでいるのか。  この名前のつけられぬ感情を向ける先がわからないでいる。だから、いつまでたっても、この感情は消えてくれない。そのせいか、笑うのは簡単にできるのに、泣くのはいつも痛みを伴う。  まあ、明日は休みだし、寝れるまで台本を読んでも、問題集を解いてもいい。やることはたくさんある。けれど、できることなら、思考も思い出も全部捨てて眠ってしまいたい。  コロコロ、と布団の中で身体を左右に転がす。静寂には布が擦れる音が響き、遠くからは洗濯機が回る音が聞こえる。夜の深まりが着々と近づくにつれて、また昔のことが思い起こされていく。  来るか、来ないか、未知数の眠気を待つ。ぱっと顔を上げると、枕に窪みができていた。すると突然、枕元に置いていたスマホの画面が明るくなった。 〈明日、家に行ってもいいですか?〉  画面には、カナの名前。  身体を動かすのを止め、上半身を起こす。スマホを手に持ち、ロックを外せば、テストが近いから、と言い訳の言葉が次々と画面に表示されていく。  一つひとつのメッセージはほんの数文字なのに、それだけで底に座りこんでいた気分がふわふわと浮いていく。頬が熱くなり、自然と姿勢を正す。言葉を読みながら思わず頬を緩ませれば、一つ、欠伸が出てきた。 〈勉強するなら、許す〉 〈やったー!〉  素直じゃない言葉で返すも、すぐにカナからの返事が来る。それに笑ってしまえば、画面を閉じ、枕に頭を乗せる。瞼を閉じてしまえばもう、意識を手放せる気がした。  ボクは、カナに救われている、のだろうか。微睡みは思ったよりも早く、ユキを包む。  明日はどうしようか。カナが来るんだったら、迎える準備をしないと。考えるとともに踊る心臓の辺りに手を当てれば、深い眠りの中へと誘われていった。  浮き上がる意識に、自然と瞼が開いた。閉まり切っていなかったカーテンからは朝日が射しこむ。その向こうからチュン、と小鳥の鳴き声が聞こえてきた。  気持ちのいい目覚め。ユキは起き上がると、天井に向かって手を伸ばした。壁についた時計の短い針は5を指している。学校がある日でも、アラームなしでこんなに早く目覚めたことはない。  どれだけ楽しみにしてるんだよ。手を下ろし、息を吐くとともに呟いた。  白く淀んだ思考。ぼんやりと光の射す方を眺めれば、カナが来るまでにやらないといけないことがどんどんと出てくる。リビングに掃除機をかけて、買い出しをして。カナは昼ご飯を食べていくだろうか。  そう思ったところで、お弁当を美味しそうに食べるカナの笑顔を浮かんできた。  そういえば、この家に人を入れるの、初めてだな。  高校に入学してから、交友関係は格段に広がった。クラスメイトと遊びに行ったり、自主練を兼ねて部員の家にお泊りしたり。でも、この家に招くことはなかった。もしかしたら、カナしか場所を知らないかもしれない。  軽い笑い声が零れた。カナと、こんなに仲が良くなるなんて思わなかった。  勢いをつけ、布団から出る。顔を洗う途中、鏡の中にいる自分の顔を見れば、いつもよりも随分と緩んだ口元。パシッと一回、両頬を叩く。寝間着からジャージに着替えると、外へ買い出しに行くことにした。  扉を開けた途端、涼やかな風が頬を撫でる。こんな朝早く、歩いたことなかったな。  明るくなり始めた東の空を眺めながら、人のいない道を一人、ゆっくりと歩いていく。冷たい空気を吸いこめば、新鮮な気持ちが舞い降りてくる。何百と往復しているはずのこの道も、今は全く知らない道のように思えた。  とりあえず、お菓子と飲み物を買っておけばいいのかな。  そう考えながら近くのコンビニに入れば、明るい挨拶で迎えられる。休日だからなのか、店内には家族連れが多い。和気藹々としたその姿を横目に棚に沿うように歩くと、お菓子コーナーの前に立った。  チョコ、抹茶、塩。クッキーに煎餅、ポテトチップス。お菓子は、演劇部で集まったときくらいしか食べない。そんなこともあり、同じようなお菓子の数々にたじろいでしまった。  カナは何が好きなんだろう。  スナック菓子の方がいいのだろうか。店内をうろうろと迷っていれば、後ろの棚に並んだシュークリームに目移りする。そういえば、あれ美味しいって言ってたな。カナとした会話が思い出され、聞いたことのある名前のお菓子たちをとりあえずカゴに入れていく。  これ、カナがよく飲んでるな。  見覚えのあるレモンティーの紙パックを手に取ると、これを片手に台本を読むカナの横顔を思い出した。これ、好きって言っていたよな。僅かにあった記憶を頼りにそのレモンティーと、ついでに自分用に抹茶ラテを買うと、来た道を戻っていく。  ビニール袋の持ち手は細くなり、手に食いこんで少し痛い。でも、これからのことを思うと、足取りは軽かった。  一人の部屋に帰ってきた。コンビニの袋を机の上に置くと、思わず空気を吐き出す。自分に似合わない、張り切る心はちょっと疲れた。なのに、その疲労を心地よく思っている自分がいるから不思議だ。  とりあえず、冷蔵庫に飲み物をしまおう。冷蔵庫に飲み物たちを入れ、お菓子を机に並べると、物置から掃除機を出した。  掃除機を引き連れ、部屋の真ん中に立つ。自分の部屋ながら、殺風景な部屋だ。元々、物が少ないというのもあるが、こまめに掃除をしているから、散らかってはないと思うのだけれど……。  祖父母と暮らした家とは違う、モノクロの部屋。日中、ほとんどいないせいか、ここにはない生活感が懐かしい。ユキは生活の証を探すように入念に掃除機をかけながら、これからへの思案を重ねた。  そのとき、ピコン、とスマホが鳴った。ユキはそっと掃除機を床に置くと、お菓子の隣にあるスマホを手に取る。 〈十時頃に着きます!〉  無機質な文字が、カナの声で再生される。十時となると、あと三時間はあるか。  まあ、大丈夫か。のろのろと足を動かし、ソファに沈みこむ。脱力した身体を背もたれに預ければ、トクトクと胸の内で穏やかに打ちつける心音に耳を傾けた。  早く、来ないかな。  天井を見上げると、自然と笑みが溢れてきた。笑いたいわけではないのに、なかなか口角は下がってくれない。  朝が近づくにつれ、陽の光とともに雑音が多くなっていく。外の道路の交通量が増えていき、始発の電車が発信する。完全に朝に染まってしまうその前に、少し休んでおこう。ユキはだらりと四肢を伸ばすと、瞼を閉じた。  そうして、カナが来るまで。しばしの静寂を楽しむことにした。  掃除はすぐに終わり、ユキは何をするでもなく、時計の針が回るのを見つめた。一秒がいつもより遅い。でもやっと、十時まであと数分になった。  カナはいつ来るのだろうか。そんなことを思っていると、ちょうど訪問者を知らせるチャイムの音が部屋に響いた。  ユキはソファから飛び上がった。その勢いで玄関まで駆けそうになって、とっさに足を遅くする。家主を待ち望んだ子犬のように弾けた思いを必死に抑えつつ、玄関前に立つと、静かに鍵を開けた。  現れるのは、満面の笑みのカナ。私服は初めて見たが、予報通りというか、ボタンといった細部に至るまでカナに似合うよう計算されたような服だと思った。 「ただいま」 「お前の家じゃないだろ」  ニヤッと笑い、冗談を言うカナ。それに真正面から反論を述べつつも、カナを招き入れる。 「突然言ったのに、今日はありがとうございます」  鍵を閉め、振り返る。カナはそう言いながら、ユキが行ったところとは違うコンビニのマークがついた袋を差し出してきた。それを受け取れば、ちらりと覗いたモノたちに釘付けになった。 「カナは、こういうのが好きなのか」  不安になり、カナの顔から目線を逸らしながらもおそるおそる聞く。でも、カナは言っていることがわからないのか、不思議そうに首を傾げている。  そんなカナに袋の口を広げ、中身を見せる。入っているのは、抹茶プリンやみたらし団子といった和菓子。ユキが買ったものとは正反対だ。自分の見当が外れた。そう思うと、聞かずにはいられなかった。  ああ、とカナが声を出す。どうしよう、とユキは一人困惑していれば、ふわりとカナの口角が上がった。 「先輩が好きかなって思って買ってきました」  褒めて、と言わんばかりにキラキラと瞳を輝かせるカナ。その表情に居ても立っても居られず頭へ手を伸ばせば、カナが屈む。優しく頭に手を置くと、柔らかい髪を撫でた。  普段、上にある頭が下に見えるって不思議だな。そんなことを思いつつ、カナを眺めれば、上目遣いの瞳の中に映る自分を見つけた。  その瞬間、急に恥ずかしさが込み上げてきた。なんでボク、頭撫でてるんだ。全身を駆け巡る羞恥の責任を押しつけようと軽くカナの肩を叩けば、カナを置いてリビングへと逃げていった。  後ろからついてくるカナの足音。ユキは密かに笑みを携えた。  逃げた先にあった冷蔵庫にカナからのお土産を入れ、飲み物を取り出す。肌を撫でる冷気が、ユキを落ち着かせた。そのとき、聞こえてきたカナの声の方へ顔を向ければ、カナがお菓子の前に立っていた。 「先輩も買ってたんですね」 「ああ、うん」  改めて見ると、買いすぎた気がする。机の隅に並べられたお菓子たちは、二人分にしては明らかに多い。選んでいるときは不安から数を重ねたが、食べることまでは考えていなかった。  こっそり、カナの表情を窺う。表に出されたカナの顔を見るかぎり……、大丈夫そうだ。 「あ、これ好きです」  カナは一つ、袋を持ってユキに見せる。振られ、カタカタと音を立てるスナック。食べたことはないが、カナが好きだと聞いた瞬間、そのお菓子に興味が湧いてきた。  意味ありげに視線をやってくるカナ。ユキは表に出そうになった表情を抑えて睨み返した。 「お前、勉強しに来たんだよな」 「ちゃんと勉強道具も持ってきましたよ」  そう言い、持っていた薄っぺらい手提げの中身を机の上に広げる。ノートと問題集数冊。見たことのある表紙のデザインに、そういえばカナって年下だったな、と何回目かの気づきをした。 「俺、数学を教えてもらいたかったんです」  今回こそ、赤点取っちゃうかもしれません。  泣き真似をしながら言うカナを横目に、ユキは問題集を開くよう告げる。まだ話していたい。そんな思いが透けて見えるカナの態度を無視して向かいの椅子に腰かけると、カナの前にレモンティーを置いた。 「覚えててくれたんですね!」  大袈裟にカナが喜ぶ。それを制して座るよう言えば、勉強しろよ、と念を押した。  カナは口を尖らせつつ、しぶしぶ数学の問題集を開く。カナの後ろには見慣れた白い壁。自分の部屋に、カナがいると思うだけで不思議な気持ちになった。  それから、たまに雑談を挟みながらも、テスト範囲を解いていった。カナに聞かれれば、ヒントを出す。その合間、ユキも自分の問題集を解いていると、たまにカナの視線を感じるが、あえて無視することにした。  隙あれば、カナは休もうとする。でも、なんとかつづけているようだ。 「そういえば、先輩って理系ですよね」 「進路がそっちだからな」 「俺、先輩はよく本読んでるから、勝手に文系なんだと思ってました」 「本は演技の参考になると思って読んでるだけ。文系は得意じゃないけど、苦手でもない」  応用問題に差しかかり、ペンが止まったユキは教科書で基礎を確認する。ふと、カナに目を向ければ、手がすっかり止まっている。お菓子に伸びる手。じろりと視線を鋭くさせれば、カナが急いでティッシュペーパーで指を拭った。  でも、やっぱりやる気が出ないのか、カナは肘をついて休憩をする。ユキはそれに呆れたように息を吐くと、教科書を閉じた。 「俺、先輩と同じ大学に行きたいです」  休んだ、と思いきや、いきなり真剣な表情をするカナ。あまりの変わりように息を呑むも、この緊張が気づかれぬよう、そっと鼻の先を見つめた。 「じゃあ、教えないでおく」  わざと軽い調子で言う。そうすれば、カナはいつもの飄々とした笑みを向けてくる。 「大丈夫です。もう情報の入手先は確保してるので」 「なんだそれ」  褒められたカナの瞳の奥には、確かな熱がある。たまに重い、と感じるカナの思い。だが、それがあることにどこか安心している自分がいる。  こういうのいいな、とか。ボクだけを見てほしいな、とか。一緒にいる時間が長くなるにつれて、カナの時間や気持ちを独占したくなっていく。  こんなこと、本当は思ってはいけない。自分をそう抑えようとするのに、カナの言葉が、ふとしたときの優しさが、乾ききったユキの心を潤していく。知ってしまった心は、どうしたって欲してしまう。 「まあ、そろそろ休憩するか」  揺れる思いを振り払うように立ち上がる。休憩の言葉に、カナが口元を緩ませる。時間的に昼ということもあり、昼食は何がいいか、ついでに尋ねた。  リクエストはオムライス、ということで、ユキはキッチンに立つと卵を割る。  始め、カナは卵を持つユキに驚いた。料理ができるのか。言葉に出さないものの、ユキを見る目はそう言っている。確かに弁当は作らない。だが、それは朝においての優先順位が低いだけで、最低限の家事は元々できる。  ユキは、じろりと無言で睨む。カナはすかさず目を逸らすと、はぐらかすようにレモンティーを飲んだ。  料理を開始してしばらく、カナは手伝いたそうにうろうろとしていた。普段からユキのお世話をしたがるカナにとって、何もしないでいるというのは苦手なのだろう。  でも、ユキは頑なに誘わない。いつも甘えてお世話してもらっている。その何分の一にもならないが、細やかにでもお返しがしたい。その旨を伝えると、カナは大人しく席についた。  料理中、ユキを追いかける視線がやけに強いが、それは放っておくことにした。  できたオムライスを並べ、向き合って食べる。カナは一口含むたび、幸せそうに笑う。それに思わずユキも笑ってしまえば、いつもよりご飯が美味しく感じた。  自分の作ったご飯を人に「おいしい」と食べてもらう、なんていつぶりだろう。  昼食を食べ終えると、お腹が満たされたからなのか、一気に眠気が押し寄せてきた。それを隠しつつも、ユキは小さく欠伸を溢す。すると、それにつられて、カナも欠伸をした。 「先輩、休憩の延長を願います」  カナが手を上げ、ふざけたように提案する。正直、ユキの瞼は今にも閉じそうなほど重くなっていた。そんなこともあり、その提案に乗ることにした。  休もうと二人、ソファに移る。無音もなんだから、とテレビを点けた。画面には、深夜にやっているバラエティー番組の再放送。  番組名は聞いたことがある。その程度の認識だったが、繰り出される下世話な会話になんとも言えない嫌悪感が抱いた。変えようと番組表を見てみるも、時間帯のせいか、良さそうな番組が見つからなかった。 「見たい番組とかあるか?」 「あ、いえ、特にはないです」  間を空け、同じソファに腰かけるカナに尋ねる。隣に座ってからというもの、急にしおらしくなったカナの曖昧な返事に、ユキは首を傾げながらもチャンネルのボタンを押していった。  いつもなら、自分から近づいてくるのに。カナの様子に不思議に思いながらも、番組を流し見ていく。でも、どれも興味を引くものではなく、結局、消すことにした。  プツン、と消える笑い声。ユキは真っ黒になった画面から目を外すと、窓の外を眺めた。真っ青な空、遊んでいるのであろう子どもの楽しげな声。そういえば、マンションの裏に公園があったな。 「そ、その先輩……一つ聞いてもいいですか?」 「なに、急に」  飛んできた切羽詰まった声に、ユキは慌ててカナの顔を覗きこむ。いつもは揚々としているのに、今は迷路に迷いこんだような不安な表情をしていて、ユキは勝手に焦りを募らせる。  もっとちゃんと確かめないと。そう思い、顔を近づければ、カナと視線が絡み合う。 「先輩ってDomとSub、どっちですか?」  この世界には、性別や血液型といった枠組みの他に、Dom、Subといった分け方がある。簡単に言えば、Domは人を支配したい、独占したいといった欲求が強い。反対にSubは人に従属したい、依存したいといった欲求が強い人のことだ。  とはいえ、性別と同様、その欲求たちは人それぞれ強弱のグラデーションがあり、十人十色である。なので、あくまでの目安と満たされなかった場合のケアのために、生殖器の発達時期である思春期に検査される。ユキも高校入学時の身体検査とともにされた。 「Sub、だけど」  珍しい顔をしたと思えば、出てきた質問に、思わずユキは口を開けたまま止まってしまった。そんなに思いつめて聞く質問だろうか。まあ、最近でこそ差別がなくなってきたが、話す相手は選ぶ質問ではあるか。  そう納得すると、カナが口を開くのをじっと待つ。 「……誰か、契約している人っているんですか?」  ユキの心とは裏腹に、カナの表情はどんどんと心配の色を濃くしていく。  Dom、Subともに欲求の強い人は、その欲求が満たされないと精神的な不調をきたす。例えば、慢性的に気分が落ちこんだり、眩暈や動悸がしたり。まだ、それで済むのならいい。でも、その末にはDomがパートナーではないSubを襲ったり、Subが自暴自棄となって自ら死を選んだりとしていて、そんな事件が年に一回はニュースで取り上げられる。  だから、今の社会ではそういった事件を防ぐために、欲求を満たす専門の職業が確立している。大抵の人はその専門の人を頼ったり、恋人や利害が合った人同士でパートナー契約を結んだり、としている。 「そんな人がいたら、もう言ってるだろ」 「そう、ですよね」  カナは俯き、組んだ自分の指を見つめる。ユキはその姿をちらりと視界に入れると、背もたれに身体を預けた。  途切れとぎれのカナの言葉。カナと出会ってからというもの、積極的に話を進めるのはカナで、初対面でも会話は滑らかに進んでいった。だから、こんなにも気まずい雰囲気は初めてだ。  戸惑いと、気恥ずかしさと。色々と詰まったぎこちない会話の終着点は、まだ見えない。 「体調とか、悪くないですか?」  ただ、心配で聞いた純粋な質問。ユキはそれに息を呑み、言葉を詰まらせた。  高校で検査され、その結果が渡されたとき。ユキは検査結果とは別に、病院へ案内され、言われるがままに診察にかかった。  そこで話されたのは、ユキが特にSub性が強いということ。それゆえに、欲求が満たされない状況が長期間に及んだ場合、精神的不調が顕著に出る。だから、できるだけ早くパートナー契約をするか、専門家に頼るか。最悪、副作用の強い薬で対処することを念頭に置いておくよう言われた。  そのとき、ユキは薬でもいいや、なんて思っていた。  けれど、満たされなかった欲求はユキの中に蓄積され、歳を重ねるごとに体調を崩すことが多くなった。何もしていないのに息苦しかったり、動悸が激しくなったり。今はまだ、なんとか抑えられるから大丈夫だけれど……。 「……体調が悪いなんて、少しの間だけだし」 「演技の後とか、いつもフラフラして一人じゃ歩けないじゃないですか」 「あれは、なんというか力が抜けて……」  カナからの追及に、泳ぐ目を隠そうと顔を逸らす。とはいえ、カナがいつもそばにいるんだから、体調の変化なんてすぐに気づくだろう。そんな小さなことに気遣えないほど、自分は焦っているようだ。  視界の端で、カナの膝がこっちを向く。ちょっと身体を横にずらせば、カナも追うように動く。さっきの言葉で、いつもの調子を取り戻したみたいだ。 「俺、実はDom性が強くて」  だろうな、と思う。Domと聞けば、あの域を超えかけるカナのお世話にも理由がついた。 「先輩に弁当を作ったり、介抱したりして、欲求を満たしていました」  すみません、とカナが頭を下げる。おそるおそるカナを見れば、申し訳なさそうに眉尻を下げている。その顔は、前に加川がカナに似ていると言って見せてきた子犬にそっくりだ。  弁当も介抱も、カナだけではなく、ユキも得している。だから、謝らなくていいのに。 「別に、迷惑じゃないからいい」 「でも俺、先輩が好きだから、もっと役に立ちたいです」  太ももに置いていた手が取られ、固く結ばれる。引き寄せられ、膝がくっついた。まっすぐな思い、少し熱の籠った瞳から逃げることは許されない。  つながった手を伝い、カナの熱がユキに移っていく。今、自分の顔は真っ赤だろう。 「一回、試してみませんか?」  カナの気持ちに侵されていく。ユキは自然と、一回頷いた。上がっていく熱に比例して、思考がカナでいっぱいになっていく。 「先輩、ここに来てください」  カナの優しい声。ユキは手をつなげたまま立ち上がると、カナの前に立つ。真正面から受ける視線は、いつもよりずっと熱い。 「セーフワード、決めましょうか」  セーフワード。耳に入ってきた言葉に、急いで頭を働かせる。  この言葉は、プレイの中の命令でSubが従えないと思ったときに使うもので、Domの欲を抑えることができる。聞いた噂話だと、Domに関した言葉がいいらしい。 「じゃあ、ワンコで」  カナ、犬みたいだから。 「犬、ですか」  そう言って、カナが笑う。でも、その笑みの奥深くには獣が見え隠れしている。今は静める余裕もないようだ。そんな姿を見つけるのに、ユキの瞳を通せば、今も下から覗く仕草なんかは、おやつを待つ犬を彷彿とさせた。 「ああ、でも確かに言われると冷静になれる気がします」  整った唇が弧を描く。胸の奥がぎゅっと掴まれた気がした。 「じゃあ、やりますね」  開始の合図に、全身に緊張が走る。  まだ、DomとSubについて知らないことが多い。どんなにカナを信用していても、未知なものに触れるのは怖い。無意識に硬くなっていると、そんなユキに気づいたカナがさらりと手の甲を撫でた。 「ユキ先輩、“お座り”」  無音な部屋に、カナの声が響く。  その瞬間、ユキは膝から崩れ落ちた。カナの言葉が脳幹を震わせ、自分の言うことを聞かなくさせる。力の抜けた身体でカナの足元に項垂れれば、ぽんっと軽く肩が叩かれた。  どうして、こうなっているんだろう。そう思うのに、さっきのカナの声が頭の中で溶け、真っ白に塗っていく。今はただ、カナの言うことだけを聞いていたい。 「もう少し、頑張れますか?」  上から降り注がれる声。ユキは考えるよりも先に、小さく頭を上下に動かす。  カナに引き寄せられ、床にお尻をつけたまま前に移動する。開かれたカナの両足の間に入ると、無性に落ち着いた。カナに命令された通り、ゆっくりと正座を崩したような体勢になると、ぺたんと八の字に開いた足の間にお尻を置いた。 「よくできましたね、いい子」  ユキの頭に手が乗る。刺激を感じ取る意識の全てが、その手に集中する。迫る苦しさにカナの太ももに頭をくっつければ、カナの手は髪の全てに合わせて何度も撫でる。  手が往復するたび、締めつける苦しみが薄れていく。ユキは必死に息を整えながら、カナの太ももに頭を預けた。その抜けた先に待つのは、微睡みに似た快感だった。  どうしよう、離れられない。 「先輩、気持ちいいですか?」  頭を撫でていた手が顎の下に行き、顔を上げさせられる。ぼんやりと映る、カナの微笑み。問いかけに返事しようとするのに思考はちゃんとしなくて、代わりに頬を包む手にすりついた。 「ふふっ、かわいいです」  いつもだったら、すぐに否定する言葉。でも、今はカナに褒められるのが嬉しくて、無意識に口角を上げる。どうしよう、気持ちいい。ずぶずぶと快楽の先に引きずりこまれていく。 「ユキ先輩」  増していく快楽。それに飲みこまれる自分の強がりに戸惑う中、カナに名前を呼ばれた。  ずっと、このままでいたい。それ以外は何も考えられない。頭を撫でられ、頬を包まれ。カナに可愛がられ、褒められるほどに、身体も心も軽くなっていくのを感じた。 「仮でもいいです。俺、先輩のパートナーになりたいです」  自分しか映っていない瞳が心地よい。カナの丸々とした両目に、ユキは小さく了承した。  自分は、圧倒的にDomやSubの知識が足りないようだ。  あの後、もたらされた快楽のケアとして、何度もいい子と褒められ、頭を撫でられる。そして「今日はここで終わりましょう」とカナが言った途端に、霧がかかっていた頭が覚めていった。  ゆっくり、カナに支えられて立ち上がると、空気を変えようと勉強していた机に戻る。そうすると、カナから簡単にDomやSubについての説明が始まった。  さっきのようなプレイには、お座りや来て、といった命令があること。命令に従うと、Subはふわふわと気持ちよくなること。そういった知識はどこかで聞いたことがあった。でも、自分のこととは考えていなかった。  けれど、さっき自分で体験した上、今も切迫した表情で説明されると、さすがに自分の認識不足と知識のなさを猛省するしかない。落ちこむユキに、とりあえず互いにDom性、Sub性について話すことになった。 「俺は褒めたり、世話したり、庇護欲が強いと思います」  Domを二極化させると、加虐欲か庇護欲か。いじめたいか、守りたいか、だ。 「だから、SMのような痛いものは苦手です」  そう言い、カナは眉間に皺を寄せ、首を横に振る。大袈裟と思うほど渋く表情に、本当に苦手なのだと、ひしひしと伝わってくる。 「先輩はどうですか?」  まっすぐ向けられる瞳。カナの問いかけに、ユキは自分について考えた。  今まで考えたことなかったが、さっきみたいに頭を撫でられたり、褒められたりするのは好き、かもしれない。初めての体験だったが、思考を奪う快楽は、溺れていたいと願うほどだった。 「ボクは、まだわからない。でも、痛いのは嫌い」 「大丈夫です。これから一緒に探していきましょう」  にこやかで、頼もしい笑み。ユキは素直に頷く。  いつもなら、そんなことをするくらいなら、と捨て去るだろう。でもきっと、これは一生に関わる大事なことで。それにカナとなら、すぐに見つけ出せそうだと思った。  そう思えるくらい、心身ともにカナに頼ることが当たり前になっていた。  それからなんとなく気まずくて、とりあえず手元にある教科書を捲った。ページに書かれる文字を追いかけ、問題を解く。ちらりと見れば、カナも勉強し始めた。  でも、手元に残ったのは書き間違いを直した消しゴムのカスだけだった。 「というか、そろそろ帰れよ」  窓から射しこむ陽の光は、すでに赤い。のろのろとしていたせいか、あっという間に時間は経っていた。時間からして、この家からカナの家に着く頃には、ちょうど夕飯時だろう。  そう思い、帰るよう促すも、カナはお菓子に手を伸ばすだけ。腰を浮かせる気配はない。 「えー、俺泊まりたいです」 「却下」  お菓子に伸びるカナの手を思いっきり叩く。カナは不満げに唇を尖らせ、叩かれた手の甲を擦った。こいつは、さっき思考を溶けさせるほどの快楽を与えた人物と同一人物なのだろうか。目を細めて訝しげば、カナは柔らかく笑う。 「学校で命令するの、禁止な。あと、パートナーになったのも言うなよ」 「……はい、わかりました」  先に釘をさしておく。カナのことだから、みんなに言い回ることはしないだろう。でも、ふとした拍子にうっかり、なんてことは大いにあり得る。 「でも、弁当を作ったり、歩くのを支えたりするのは今まで通りいいですよね?」  急に立ち上がったカナが身を乗り出し尋ねてきた。ユキはその勢いに負けたみたく頷く。元々、そこを変えようなんて考えてすらいなかった。  カナはよほど、そこが心配だったみたいだ。ユキが肯定した途端、強張っていた顔を緩め、席につく。ユキが広げたままの勉強道具を片付ければ、カナも倣うように計算式が並んだノートを閉じた。  カナの睫毛が影をさす。と思えば、ぱっと瞳を輝かせる。 「俺、パートナーの身の周りの世話は全部したいです。撫でて、抱きしめて、めいっぱい甘やかしたいです」  それはいいですか?  カナが目を潤ませ、上目遣いで見てくる。発言の内容とは裏腹に、態度は下からだ。ユキが一拍遅れてその言葉を飲みこめば、その言葉の行く末にサッと背筋に寒気が走った。 「お前、花とか枯らすだろ」 「えっ、……確かにそういわれれば」  一生懸命、可愛がっているんですけどね。  カナは心底不思議そうに首を捻りながら答える。その様子からして、本当にわかっていないのだろう。見当すらついていないその表情に、ユキは恐れも忘れて呆れてしまった。  ここまで自覚がないとは、恐ろしいものだ。Domだから、というのが土台としてあるのだろうけれど、これは確実にカナの気性も加わっている。 「まあ、できる範囲なら……」 「それなら、今日は大人しく帰ります」  すっきりと晴れやかな笑顔。騙された、と思ったときには、手提げを掴んだカナが背中を向ける。宣言通り、玄関へ歩いていくカナの背中を急いで追えば、カナは身を屈めて靴を履いていた。  靴の背を伸ばしたカナが上半身を起こす。段差があるせいで、いつもより近くにカナの顔がある。視線が合い、正面から顔を見つめる。掬い取るように手が取られると、カナの両手でつながった。 「先輩、好きです」  照れた顔、カナがいつもの言葉を口にする。カナの頬はほんのり赤い。何十は同じ言葉を言っているはずなのに、カナはいつだって初々しい。 「……ありがとう」  鼓動が速くなっていく。ピリッと指先に流れる電流、絡まる視線は外せなくて、いつもの憎まれ口が言えない。カナの手がユキの指を包むと、病に侵されたが如く、内から熱くなっていった。 「じゃあ、またあさって」  扉が閉まる直前。カナの声で聞こえる別れの言葉に、少しだけ寂しさを覚えた。  あれからというもの、カナとの距離が格段に縮まった。  といっても、ユキは気づいていなくて、友人に言われて初めて自覚した。言われたときは始め、カナが距離を縮めているのだと思っていた。でも、友人が言うには、ユキも近づいているのだという。  とはいえ、カナとは約束通り、学校では前と同じことしかしていない。カナの作ったお弁当を一緒に食べ、演技後のふらつく身体を介抱してもらい、家まで送ってもらう。仮のパートナーになる前と何一つ変わっていない。  変わったのは休日。土日で演劇部の練習がないときはカナを家に招き、プレイをする。お座りとか、来てとか、パートナー間で交わされる命令の中では、最も難易度の低いものだ。  難易度が低いとはいえ、命令に従い、褒められれば嬉しい。身体を震わせるほどの快楽に飲みこまれ、ユキはただ溺れていくだけだ。  そんな違いはあれど、外にいる自分はいつもと変わらないつもりだった。一人で、誰にも頼らず生きていける。そう思っていても、どこか出てしまう心の緩みは周りに見抜かれてしまう。  友人の話だと、前まで人との間に作っていた壁が薄くなった気がするとか。同学年に対してもそうだが、後輩に対しても積極的に話しているように見えるという。  言われてみれば確かに、後輩たちに話しかけられることが多くなった。発声練習の方法や台詞がないときの演技などの演劇に関することから、今読んでいる本などの日常的なことまで。ユキは聞かれるままに答えていた。  あと、これは内緒なのだが、カナが昼休みや家に来るのが数分遅いだけで落ち着かなくなってきている。誰かと楽しげに話す姿を見ると、思わず奥歯を噛みしめているときがある。日を重ねるごとに、カナが隣にいるのが当たり前になっているのだ。心がカナを必要としている。  それが少し、怖いと思っている自分もいる。 「テストが終わった。これからわが演劇部、最大の舞台といってもいい、文化祭に向かって動き出すぞ!」  定期テストの最後の科目が終わると、演劇部部員は皆、部室に集まった。ユキはいつも通り、カナの隣で弁当を食べていた。すると突然、部員の前に立った加川が高らかに言い放った。  これから夏休みには、全国の演劇部が集まり、切磋琢磨してきた演技を披露する大会がある。そして、それとは別に、ユキたち演劇部では文化祭で三年生最後の舞台を行う。そこで三年生は引退、その新作の演劇は後輩へと受け継がれていくのだ。  カナが不思議そうにユキを見る。そういえば当たり前のようにいるが、部員ではないカナはこの流れを知らないのか。それに気付くとユキは声を潜め、加川の言葉に説明を足す。すると、どうしてだか見えぬ獣耳が下がり、へこんでいるのがわかった。 「どうした?」  カナの顔を覗きこむ。下唇を出すその表情は、落ちこんだときのカナの癖だ。 「もう、先輩の演技は見れないんですか?」  沈んだ声がユキの耳に届く。そんな理由か、とユキは呆れて目を離すと、止めていた箸を動かした。 「まあ、高校ではこれが最後だな」 「俺、嫌です」 「嫌って言われても……。機会があれば、また見れるかもな」  わざと深く息を吐き、ごちそうさまと手を合わせる。腑に落ちていないカナは、微妙な表情を浮かべているがそれを無視すると、ユキは弁当箱を鞄の中にしまった。  そのとき、透明なファイルから夏休み前に行われる三者面談のときに担任に渡す進路調査票の文字が覗いた。渡された一ヵ月前からずっと、入れたままだ。  まだ、何も書いていない。とはいえ、進路は昔から決まっていて、そのために勉強も頑張りつづけているのだ。なのに、さっきのカナの言葉が妙に耳に残る。思わず、第一希望の空欄をしばらく見つめてしまった。  演技は好きだけれど…… 「今までは推薦と多数決で東が一、二年と主役だったが、今回はどうする?」  加川がみんなに尋ねる。その声に我に返ると、部室に流れる沈黙に辺りを見渡した。こういうとき、どんなきっかけで発言すればいいのかわからないよな。 「東は何かあるか?」  静かな部室に響く、自分の名前。その瞬間、一気に集まる視線。それに焦りながらも加川からの質問の答えを考え出すと、ユキは小さく口を開いた。 「ボクは今回、主役から外れた方がいいかなって思ってる」  ユキは、机の木目を見つめながら呟く。  高校に入り、演劇に魅せられてから抱いた、主役になりたいという強い思いは今も変わらない。主役なら、誰よりも長く、舞台の上に立っていることができる。スポットライトに当たっていたい。  でも、それはユキ一人の願望でしかなく、ただのワガママだ。演劇は一人でやるものではない。みんなで作り上げ、やっと完成できるもの。それを教えてくれたのは、ここにいるみんなだ。  そう考えると、太ももに置いていたユキの手にカナの手が重なった。指先だけ、微かに冷たい。突然の触れ合いに驚いたものの、机の下の出来事は他からは見えない。ユキはそう思うと、もう片方の手でカナの手を挟む。それだけで充分に安心できた。  これで大丈夫だろう。そう肩の力を抜こうとしたとき、ユキの前に座っていた後輩が立ち上がった。 「オレ、東先輩と同じ舞台に立ちたいです。最後のチャンスをください」 「私も、文化祭で見た東先輩に憧れたんです。最後の雄姿を見させてください」  ユキだけを見つめる瞳。注がれる視線が強く、逸らすに逸らせない。ユキは縋るようにカナに触れる手に力を入れる。そんな中、徐々に同意が重ねられていく後輩の声に戸惑いを募らせていった。  こんなとき、いつもならカナが助けてくれる。そう思って視線をやれば、カナは悪戯を企む子どもみたいな笑みを浮かべていた。 「いや、でも……」  これは、カナは頼りにならない。なら、と部長の加川に助けを求めてみれば、加川もカナと同じ笑みをしていた。 「他に意見ある奴はいるか」  加川が部員を見渡す。それに倣ってユキも部員一人ひとりを見てみれば、なぜか後輩の大半が立っていた。座る同級生は、うんうん、と頷いている。最後の綱だった顧問の先生は、にこやかに静観している。 「ちなみに俺も、最後に東の主役見たいからな」  じゃあ、多数決とるぞ。東の主役が観たい人。  加川が言った途端、ユキ以外の部員、カナまでもが手を上げた。みんな、期待を形にしたような晴れ渡った笑顔。示し合わせたような挙手に、ユキは目を丸くした。 「……なんで」  みんなだって、もっと舞台に立っていたのではないか。役を演じ、スポットライトに当たり、観客からの拍手を浴びる。そんな場所の一つを、ボクが独占していいのだろうか。 「お前、最優秀賞とってるんだから自信持てよ」  パシッ、と背中を叩かれる。痛みの方を見れば、同じクラスの泉が立っていた。  ユキは振り返ったことをきっかけに、もう一度部員を眺めた。そうすると、みんなの笑顔が温かいことに気づく。ボクが、いいのだろうか。頑なだったはずの意志がポロポロとほどけていく。 「最後の台本、僕が書きたいです」 「いっぱい、演技を学ばせてください」 「東、もっと胸を張れよ」  同級生、後輩たちからかけられる言葉はどれも優しい。もったいなさすぎるほどの言葉の数々に、胸が熱くなっていく。ユキはそっとカナの手から離れて立ち上がると、思いっきり頭を下げた。 「最後まで、よろしくお願いします」  目を閉じ、自分の両手を握りしめる。周りからは拍手が聞こえ、ユキはおそるおそる頭を上げた。そうすれば、自分が受け入れられている、と肌で感じる。  この感覚、幕が下りたときによく似ている。  少し早めの帰り道。夏が近づくにつれて、夕暮れが訪れてくるのが遅くなってきた。  ユキはいつものようにカナの隣を歩き、家へと向かう。自分の前には、足先から伸びる肩を並べた二つの人影。それを眺めていると、さっき部室で起こった出来事が何度も思い出された。 「先輩の演技、楽しみです」  スキップするようなカナの声からは、楽しみにしてくれているのが伝わってくる。それは嬉しい。これから夏休みに入れば、本格的に受験勉強に演劇の練習と、目白押しの日々だ。きっと忙しいが、やりがいに満ち溢れているだろうな。  けれど、深いところを考えていくと、不安な点がぽつりぽつりと浮かび上がってきた。  みんなの前では、いつも通りの自分でいたい。でも、あんなに期待してもらっていて、その期待に応えることができなかったら。ボクのせいで、失敗してしまったら、勉強が思うようにいかなかったら。  そんなことを一度考えてしまうと、それら全てが過ぎ去るまで消すことはできない。  やっぱり、ボクなんかで―― 「ボク、できるかな……」  ぽろっ、と不安が零れ出る。聞こえてきた声に、初めて自分が話したことに気づいた。  カナがいるからだろうか。張りつめていた気持ちが緩み、隠したかった自分が顔を出す。慌ててカナを見上げれば、さっきの子どものような笑顔とは違い、安心させる柔らかな笑みをしていた。 「俺が支えます」  カナが立ち止まり、ユキも足を止めると、自然と向かい合った。誘われるように手を伸ばす。半袖になって直接触れられるようになったカナの手首を掴んだ。 「ほん、とう?」 「仮だとしてもパートナーなんですから、俺をもっと頼ってください」  触れる手が下へと滑り、カナの手とつながる。さらりと冷たい腕とは違い、ほんのりと温かい手のひら。この数ヵ月ですっかり慣れ親しんだぬくもり。ユキはゆっくりとカナの肩に頭を預けた。  吸って、吐いて、呼吸を落ち着かせる。カナからもたらされる言葉は、待っていた言葉以上にユキの心を包みこむ。 「……っ、よく言うわ」  軽い笑い声とともに発する。つながる手とは反対の手が背中に回ったと思えば、カナの胸へと引き寄せられる。守り、囲うように閉じこめる身体。広がるカナの感触は、瞬時に安堵を覚えさせていく。  必要で、いないとダメで。カナから離れるのは難しい。そんな、内に籠った自分を見つめながら、そっとカナのシャツを摘まんだ。
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