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 カツカツと、硬い音を伴い黒板に擦りつけられる白のチョーク。そこに書き出される文字をノートに写すペン先。窓の外では忙しなく蝉たちが命の叫びを奏で、反対からは冷房の機械音。  ユキは応用問題を解き終え、答えを見る前に一息ついた。顔を上げると、黒板の上につけられた時計に目が行く。周りには、ユキと同じように時計の針を追いかけるクラスメイトが何人もいた。  まだかな、早く終わらないかな。そんな、ユキから放たれる願いなんて無視して、針は一定のリズムを刻みながら進んでいく。あと、五分。あと、三分。  時計の針が12を指す。同時に鐘の音が鳴り響く。黒板に問題の解答を書き終えた先生が振り返ると、ぱんぱんっ、と手についた粉を払う。そして教卓に一回、教科書の底を打ちつけ整えた。 「はい、今日はこれでおわり。課題は明日までにやってきてね」  穏やかな声が授業の終わりを告げる。途端に、教室中が一斉に騒がしくなった。  クラスメイトが帰りの準備を急ぐ。その空気に乗りながら、ユキも机の上に広がったままのノートや教科書を閉じ、鞄の中へとしまっていく。片付けついでに鞄の中身を確認すれば、ちゃんと新しい台本が入っている。  朝、急いで入れたからだろうか、端が小さく折れてしまった。それを鞄の中で直していると、教室の前の扉が乱暴に開かれる。 「先輩、迎えに来ました!」  大きな声に、顔をそちらに向ける。すると、やはりと言うべきか、扉のところにはカナが立っている。浮かべられた満面の笑みに、ユキは見せつけるようにため息をついた。教室の四方から笑い声がクスクスと飛んでくる。  ユキは早々にカナから目を離すと、片付ける手を早めた。そうしながらも、自分の思いとは別のところで、カナの声に耳を傾けた。  夏休みに入ってからというもの、カナはクラスメイトにとって勉強の合間の癒しになっているとか。演劇部以外の女の子たちに話しかけられるところをよく見かけるようになった。今も声をかけられ、一人ひとりに返事をする。そんなカナの声がだんだんと近づいてきている。  ユキは鞄を持って立ち、顔を上げる。すると、思っていたよりもずっと近くにカナがいた。 「お待たせしました」  笑みとともに向けられる手。命令されているわけではないのに、ユキは抵抗することなく、カナに鞄を差し出す。すっかり、この習慣が板についてしまった。 「今日は先輩の好きな生姜焼きが入ってますよ」  確かに、好きだけれど。カナには、一言も言っていない気がする。  弁当の中身を報告すると、ユキの反応を待たずにカナは歩いていく。きっと、ユキが強がるとわかっているからだ。ユキは開きかけた口を噤む。そうすると、自分とは違う、大きな背中を追いかけるように教室を出て行った。 「よし、そろそろ始めるぞ」 「はーい」  部長の加川のかけ声に、部室にいる部員がそれぞれ返事をする。まだ昼食をとっている者は、運ばせている箸を早める。話に花を咲かせていた者は腰を上げ、練習の準備にとりかかった。  食べるのが遅いユキは、加川の声に箸を動かす手を急がせる。今からやる、場面を分けての練習は、ユキが出ていない場面から始まると前もって聞いている。だが、ユキはその時間に台本を読み直しておきなかった。  半分以上、今からの練習に意識を引っ張られながら大きく口を開いていると、隣からお茶の入ったコップが現れる。 「喉詰まっちゃうから、気をつけてくださいね」  小さな子どもを注意する母親みたいな優しい口調でカナが微笑む。ふいに、自分に向けられる柔らかな感情。それに触れるたびに、ユキは胸の奥をくすぐられる。そんなむず痒さに耐えながら、カナから顔を逸らしたままお茶を受け取った。  最近、カナは自分の手でご飯を食べさせたくて、うずうずしている。これも、Subの欲求の一つらしい。でも、学校ではやらないと約束しているから、カナはユキにも気づかれぬようにとお茶で我慢しているようだ。  今も、お茶を飲むユキを瞬きせずに凝視している。  カナと仮のパートナーになり、説明されるたびに、自分の知識のなさを恥じた。誰か仲間はいないか、と友人たちにそれとなしにDom、Subについて聞いてみれば、思っていた以上の知識が出てきた。そんなこともあり、ユキは今、自分なりに勉強しているところだ。  漠然としか知らなかった。けれど、調べれば調べるほどにDom、Subと分けられる中にも欲求の性質や強弱、パートナーとしてのあり方など、人の数だけ種類があると改めて学ぶことができた。  カナは庇護欲、と言っていた。一般的に庇護欲は、食事を与えたり服を着せてあげたり、お世話に似た命令を好むのだという。それと正反対なのは加虐欲で、いわゆる過激なSMプレイに類似するものを好み、痛みを与えたり、恥ずかしいことをわざと人前でやらせたりとするらしい。  こうやって比べると、やっぱりユキは庇護欲の方がいいな、と思う。今もなんやかんや言いながら、カナにお世話されることに嫌悪感は抱かない。でも、叩かれたり、辱められたりするのは、自分がされると想像するだけで逃げ出したくなる。  けれど、庇護欲の中でも特に強い人になってくると、パートナーの全てをお世話したい、と食べさせたり服を着せたりとするだけでは飽き足らず、お風呂に入れたりトイレをさせたり、身の周りの全てを管理するのだとか。  結局のところ、相性だよな。……、ボクとカナの相性はいいのだろうか。 「どうかしました?」  視界いっぱいにカナの顔が映る。どうやら、考えることに夢中になりすぎたみたいだ。  頬に灯る熱。それは沸騰したかのように、急速に熱くなっていく。自分の目の前にいるのは、いつもと何一つ変わりないカナの顔なのに、鎖骨の下辺りにピリッと小さな痛みが走る。最近、よく感じる痛みだ。 「なんもないっ」  顔を背け、空になった弁当箱を無理やり鞄に押しこむ。それと引き換えに台本を手に持つと、カナを無視して駆け出した。  バクバク、と心臓の動きは激しく、大きく胸に打ちつける。痛いのに、どうしてか嫌いになれない。この心音の速さは、きっと走ったせいだ。そう言い聞かせながら、熱い頬に手を当てて部員の中に身を隠す。  でも、なんだか後ろ髪が引かれ、そろりと後ろを振り返る。そうすると、すぐに目が合ったカナが小さく手を振ってきた。ユキは正面に向き直る。  そのあと、部員みんなで発声練習すると、先に後輩たちの練習が始まる。  ユキは部員の輪から離れて部室の隅に移動すると、柔軟体操を始める。床に座り、開脚する。どこからともなくやって来たカナに背中を押してもらえば、場面練習に入った後輩たちの声が聞こえてきた。 「あいつは、いつだってお気楽なんだ」 「それが彼のいいところよ」  ここでいう彼、あいつとは、ユキが演じる主人公のことだ。明るく、いつも前向きな彼は、みんなから好かれている。今まで一匹狼や冷静沈着な役が多かったユキにとって、初挑戦となる役柄だ。  今回、主人公を取り巻く主要な役には、後輩が多く配役されている。それは元々、三年生は表舞台よりも裏方を志望する人が多かったというのもある。それとともに、大々的に行われた部内オーディションに今まで裏方だった子たちが多く参加し、先輩後輩、舞台の経験数関係なしに、そのときの演技で選ばれたのだ。  今までになかった顔ぶれ、新しい雰囲気、交わす演技。ユキは毎日、心を躍らせている。 「チッ、いつもあいつのことばかり――」  捨て台詞とともに、舞台に見立てられて作られた枠から一人、走り去っていく。ユキは、いつの間にか柔軟を止め、後輩たちの演技を見入っていた。  後輩たちは、めまぐるしい速さで成長している。この前まで感情が乗っていない棒読みの演技が、今では言葉一つひとつにその役らしさが出てきている。どうやら、後輩たちは練習終わりや休みの日に集まって練習しているらしい。たまに見に行くという加川や副部長の富永さんから聞いたことがある。  ユキも、こうして後輩の演技を眺めていると、質問されたり、助言を求められたりとする。自分は部長とか副部長みたいに、人から頼られるような人間ではないと自覚している。だからこそ、先輩として求められる立場には慣れない。ちゃんと役に立つようなことを言えているのか、自信はない。  でも、カナとは異なる、後輩との関係性が築かれていくのが嬉しくもあったりする。  今は、顧問の山崎先生を始め、加川や見学していた部員たちが後輩たちへ改善点を言っている。 「次、先輩が出る場面のようですよ」  そう、耳元で囁かれる。それにより、急に手元に戻ってきた意識に気づかされ、ユキは後ろを振り返った。すると、タイミングを図っていたかのように、カナが傍らに置いていた台本を差し出す。  そういえば、カナに手伝ってもらってたんだった。  立ち上がると、ぼんやりとしていたことを謝る。なんか、カナが近くにいると思うだけで、気を抜いてしまう。小さく下げた頭を上げ、カナに向き合う。そうすれば、自然とカナの目を見つめていた。  頭の中が、カナでいっぱいになる。カナの指の背が頬を撫でると、さらりと表面を滑った。伝わる指の冷たさが、火照る肌の温度を下げるとともに意識をしゃんとさせていく。 「大丈夫ですか?」 「うん、みんな上手くなったなって見てただけだから」 「それならいいですけど……」  少しでも体調が悪くなったら、早めに報告してくださいね。  絡まる視線を離さぬまま呟き、ゆっくりとユキの中に植えつける。  命令みたく強制的なものなら、簡単に抗うことができただろう。でも、カナが与えるのはいつだって柔らかな真綿のような願い。そのたびにユキは安楽の地に溺れ、気づいたときには抜け出せなくなっている。 「……わかってる」  ユキは、硬い指の感触を刻むように頬を押し当てる。そして一歩下がり、深呼吸を一回。自分一人で落ち着かせてカナに背中を向けると、軽く背中を押された。 「いってらっしゃい」  その言葉に、ユキは役を身に落とす。  輪になって集まる部員と軽く、今からやる場面練習について打ち合わせをする。この練習では何を確認するのか、どこを重点的に見るのか。全員で決め、確かめると各々の配置につく。  ユキは舞台の真ん中の印、目張りの上に立つ。  カーテンが全開になった窓からは、中庭を飾る草花が見える。溌剌とした葉の緑、花の華やかさ。夏という季節を視覚で感じ取りながら、向こうの校舎まで届くように、と想像しながらお腹から声を放つ。 「ボクはただ、笑っていたいだけさ」  自分の顔を心配して覗きこむ仲間たちを安心させるように口角を上げ、目を細める。一人ひとり肩を叩きながら前に進むと、両手を広げる。遠くに見据える瞳には、誰一人として映らない。 「顔を上げていれば、必ず雨空も晴れる。だから、もう少しだけ頑張ってみよう」  舞台の上にいる演者だけではなく、周りに座る観客にも話しかけるように。それでいて、誰よりも己を奮起させるように、一音いちおん大切に台詞を発していく。  身体に染みこんだ動きに合わせて演じる。笑い、励まし、俯いたみんなを前に向かせる。こっちの方が、主人公の明るさが伝わるだろうか。もっとここは抑えた方がいいかもしれない。さっきまで考えていたことを実践しながら役に落としこんでいく。  壁にぶつかり、反響する自分の声。一点に集まる視線、返ってくる演技。今はボクであって、ボクではない。頭で考えたことと感情が混ざり合った演技の交差は、ユキに生きる喜びを与える。  もっと、演技が上手くなりたい。もっと、演技をしたい。そんな思いが、ユキを動かす。 「はい、一旦ここまで」  パチン、と拍手が一回鳴る。加川の声が演技の停止を告げた。ユキの思考に、その音たちが染み渡っていく。ユキは広げていた腕を下ろすと、ゆっくりと息を吐き出した。  まだ、大丈夫。演技が完全に止まると同時に貧血みたく、くらっとふらついた。けれど、なんとかその場に立ち止まれば、末端である頭の先、指先から徐々に治っていく。  ユキは重い足を運ばせ、みんなが集まる輪の中へ入っていく。着いた頃にはすでに、加川が後輩一人ひとりに助言していた。  あそこはもっと大袈裟に喜びを表現しないと、観客からはわからない。指や足の動き一つにも気を遣わないと、遠目にはだらけているように映る。助言に頷く後輩に首の動きに紛れて深呼吸をしていれば、ユキの番がきた。 「東はもっと明るさがほしいな。そっちの方が、主人公の過去や周りの人物とのギャップがよりわかりやすくなると思うんだ」 「わかった、やってみる」  助言を言われた途端、それならあの台詞は声色を変えてみようか、と自分の中でアイデアが次々に出てくる。自分で考えることも大事だけれど、人に見てもらうことでわかることもたくさんある。  加川からの助言や自分の思いつきを、余すことなく手に持っていた台本に書きこんでいく。次はまた、ユキが出ない場面をやるようだ。  そういえば、とユキは台本から目を離し、辺りを見渡す。カナはどこにいったのだろう。自分の出番を待ちながら見学している部員の中にはいない。この部屋の中にはいるんだろうけれど。  後輩を指導する加川に一言断りを入れ、輪から離脱する。ユキは部室の隅に寄せられている椅子たちのところを目指して歩きながらも、他の部員に悟られないようにカナの姿を探した。 「樋口くん、手先器用だね」  どこからか聞こえてきた、揚々とした声。樋口は、この部室の中には一人しかいない。  名前の主がいるであろう方向へ顔を動かせば、カナが衣装や小道具を作製する班の中央に座っていた。手に持っている布からして、次作るのは主人公の衣装だろうか。カナを囲んで座るのは、確かカナと同じ二年生の女の子たちだ。 「俺、こういう作業好きなんで」 「いい戦力だわ」 「痛いですよ、先輩」  同級生たちと仲睦まじく話しているところに、三年生の女の子が一人、カナの背中をパシッと叩いて入っていく。それに、カナは女の子を見上げて笑う。その横顔はよく見ているはずなのに、どこか違って見えた。  なんかこう、胸の辺りが。歩いていた足を止め、モヤモヤとするところを擦る。 「ユキ先輩」  カナが、棒立ちしていたユキを見つける。名前とともに向けられる笑顔は、いつもと同じだ。 「先輩の衣装、俺が作ります!」  カナが服の形になる前のただの布を掲げてユキに見せる。それに女の子たちが笑い声を上げれば、一気にカナの周りが華やいだ。それがなんだか、ユキは嫌だと思った。  ユキはふんっ、とわざと不機嫌な表情を見せて歩き出す。可愛くないことをしている。それでも急いで駆け寄ってくるカナの足音に、少しの満足感とともに胸の中で渦巻いていたモヤモヤが薄れていくのを強く感じた。 「ありがとうございました」  今日の練習が終わり、みんなで片付けをする。散らばった布を集め、作りかけの小道具を隣に準備室にしまう。そうすると、決まりに倣って学年別に三面の壁に分かれて立つ。加川のかけ声に合わせて部員全員が礼をすると、各々が部室を出ていった。 「俺たちも帰りましょうか」 「ああ、うん」  項垂れていた頭を上げ、背筋に力を入れる。壁に身体を預けていると、二年生の列から出てきたカナが迎えにきた。目の前に立つカナは、心配そうに眉尻を下げている。  足元に置いていた鞄が持たれる。カナはユキの隣に並ぶと、続々と人がいなくなっていく部室を眺めた。二人、無言でいると、まもなくしてユキとカナだけになる。 「それじゃあ、行きましょうか」  慣れた手つきで肩を抱き寄せられる。ユキは前に進むことを第一に考え、カナに身体をもたれた。強く、しっかりとした腕に支えられると、カナの歩幅に合わせて歩いていく。  渡り廊下を渡り、下駄箱を抜けていく。その道中、中庭にある小ステージで踊るダンス部を見かけた。その向こうで、美術部がスケッチブックに風景画を描いていた。  演劇部は顧問の先生の方針で、長期休みは他の部活よりも先に終えている。女の子が多い、ということもあり、みんなが安全に帰宅できるようにするためらしい。  夕方に差しかかる少し前。ということもあり、下駄箱から校門、校門から外の道路に出ていくとき、誰からも話しかけられることはなかった。それをいいことにカナに体重をかければ、頭上から笑い声が聞こえてきた。 「ふふっ、嬉しいなあ」  微かに揺れる背中。ユキはカーディガン越しに、カナの身体に触れた。触れるなら、直接肌を重ねた方が安心できる。でも、日焼けをすると赤みと痛みが出る。ということもあり、前から着ていたが、今ではカナに必ず着せられている。  肩に回っていた手が、いつの間にか腰に移動している。その手はしっかりとユキを引き寄せ、ぴったりと身体をくっつけられる。カナは半袖だから、一枚布を挟んでも確かな熱が伝わってくる。ふわりと混沌した思考に、その熱が刻まれていく。  歩数を重ね、たまに言葉を交わす。今日から、ユキが練習をしている間、カナは衣装や小道具作成の班の手伝いを始めることにしたのだという。 「元々、料理とか簡単な裁縫はやったことあったんですけど、楽しいですね」  ちらり、カナを見上げる。話す声色や、すぐそばにある笑顔からして、手伝いは本当に楽しかったようだ。  今日、カナがいたあの班は演劇部の中でも話すのが好きな子たちが集まっている。その上、カナの背中を叩いたリーダーの百合さんが上手くまとめていて仲良しだから、カナも居心地よかっただろう。  昼間のにぎやかな会話が耳の奥で反響している。あの子たちの中心にはカナがいて、色鮮やかな布やビーズたちに囲まれている。そんな楽しそうな様子を、ユキはただ遠くから眺める。その光景が簡単に想像できてしまった。 「俺、頑張りますね」  やる気に満ち溢れた、明るいカナの声。ユキは何も言えず、黙って頷く。  点滅から赤へ信号の色が変わり、足を止める。ユキはもう半歩、カナにくっついた。  歩いていけばいくほど、必然と自分の家に近づく。それはつまり一人になることと同義で、何年も前からある当たり前だ。  なのに、今日はどうしても一人になりたくない。  今まで歩いてきたが、歩道には幸いにも人にすれ違うことはなかった。車道にも、車は一台も走っていない。もう、ここでやるしかないな。密かに、ユキはそう決心を固める。  しな垂れていた自分の身体を正し、両足の裏に力を入れる。ユキを抱く手をやんわりと外すと、その手首を右手で掴んだ。隣で歩いていると、たまに触れる手の甲。込み上げてくる恥ずかしさに耐えながらも、ユキはふんわりと小指と薬指を握った。  ユキよりも太く、骨張った指。一度触れてしまえば、簡単に離すことはできない。 「先輩、どうかしましたか?」  ガラス細工に触れるような、優しすぎる声色。欲だけの自分とは違い、本当にユキを心配してくれているカナへの後ろめたさに、ユキは俯いた。そうすると、カナのスニーカーの先が自分に向くのが見える。  なんで、こんなことをしてしまったのだろう。でも、やっぱり一人になりたくない。ごめんなさい、嫌だ。ぐるぐると、ユキの脳内には後悔やカナへの謝罪の言葉が飛び交っていた。 「ユキ先輩」  肩がピクッと上がる。それにさらに下を向くと、重力に従って流れる髪をカナの指がなぞる。 「一度、手を離してもらってもいいですか?」  聞こえる声は穏やかだ。なのに、今のユキにとって、一番できないことを言う。嫌だ、できない。ユキは逡巡するよりも先に、首を大きく横に振った。 「……断る」 「大丈夫です。また繋ぎます」  カナの指の背が、ユキの頬を滑る。これは、甘やかすときの仕草の一つだ。  おそるおそる、ユキは手を離す。そうすると、カナに触れていたところが離れた瞬間から冷たくなっていった。悴んで動かない。空を握る自分の指先を見つめていると、指の間にカナの指が入り、手のひら同士が密着していく。  カナが一歩、ユキに近づく。信号はすでに青に変わっていた。ようやくユキが顔を上げると、耳元にカナの顔が寄ってくる。 「今日、泊まってもいいですか?」  艶やかで、魅力的な誘い。ユキは食いつくように何度も頷いた。  それから、ユキとカナは無言のまま、家へと向かっていった。一歩前を歩くカナ。二人の間にはつながった手があり、ユキはそれを確かめるように何度も見つめた。  ちゃんと、結ばれている。その事実があるだけで、心臓があるであろう場所が騒がしくなった。鼓動が激しく打たれ、落ち着かない。息苦しさにも似た切なさが迫ってくる。それでも、ユキは心が求めるままにカナの手を握りしめた。  玄関の鍵を開けると、つながった手に引っ張られるままに部屋の中に入っていく。短い廊下、決して大きくない歩幅なのに、何度も絡まりそうになった。ユキは歩数を重ねるとともに思考を手放していくと、カナに全てを委ねていく。 「ソファに座ってください」  気づくと、二人はリビングのソファの前に立っていた。白い靄のかかった頭の中に、カナの言葉が浮き上がる。ユキは素直に腰かけた。二つの鞄は、寄り添い合うように床に置かれる。  つながった腕をなぞりながら見上げていく。辿り着いたカナの瞳には、炎のような熱が籠っている。ユキはその熱に釘付けになっていると、ふつふつと欲が高まっていった。 「俺、何か飲み物取ってきますね」  そう言い、カナが離れようと指を上げる。距離を空けようと引かれる手を掴んでいれば、つられて上半身が前に傾いた。ユキは思いっきりカナを睨む。  肌が重なっている部分が減る。それだけ、といえばそれだけだ。なのに、怒りや悲しみがユキを支配していく。それはまるで、子どもの癇癪だ。そう思うのに、カナにぶつけるだけでは抑えられず、掴んだ手をそのまま自分の方へと引き寄せた。 「なんで離れようとするんだよ」 「え、ちょっと、落ち着いた方がいいかなって思って」  煮え切らない回答に、負の感情が膨らんでいく。あからさまにカナは困惑の表情を浮かべている。ユキはわざと眉間に寄せた皺を深くする。それとともに決意を固めると、小さく唇を開いた。 「命令、して」  カナの喉仏が上下に動いた。瞳の奥に隠れようとする熱が、再び表に顔を現す。 「……っ、“お座り”」  その瞬間、頭の先から爪先にかけて、強い電流が走り抜ける。  痺れに似た、甘く強烈な快楽。それは命令の回数を重ねれば重ねるほど膨れ上がっていく。すでにその底知れぬ気持ちよさを知っている身体は、ぐつぐつと煮立っていた。  ユキはソファから滑り下りると、命令通りの座り方をする。お尻を浮かせ、カナに近づく。床についた両膝でカナの足を挟めば、褒めて、とカナを見上げた。 「よくできました」  カナは熱の籠った目を細め、ユキの頭を撫でる。抱く欲に似合わない、表面を撫でるような手はつむじを数回往復する。と思えば、髪の流れに従って下りてきた指が耳朶を摘まむ。硬さを確かめるみたく揉んでいれば、いきなり耳の裏に爪が立てられた。 「はうっ」  小さな痛み、ユキの意志と関係なく腰が跳ねる。滲んだ視界の中、カナの唇の両端が上がるのが見えた。  お座りの形をしてからというもの、お腹の下辺りがムズムズする。命令されたい、褒められたい。もっと、気持ちよくなりたい。ユキは必死に前後に動いてしまう腰を抑える。 「もっと、……」  ぽろっ、と零れるように気持ちが声に出ていた。ユキはそっと床についていた手をカナの足の甲に置くと、次の命令を乞う。その瞬間、見下げたカナの視線が一段と鋭くなった。  もっと、欲しいな。そうして期待を膨らませていると、カナの手が耳から離れていく。  なんで、とユキは目を丸くする。無言で訴えてみるも、カナはユキを見ない。それでも浮いたカナの手の行き先を追いかければ、さっきまでユキが座っていたところの隣に腰を下ろした。 「次、“俺の上に乗って”」  ぽんぽんっ、とカナが自分の太ももを叩いて示す。見放されたかと固まっていたユキは、少し遅れて言葉の意味を理解していった。そして、蜂蜜のように甘く、香りみたく実体のない高揚がユキを溶かしていく。  ユキはのっそりと腰を上げ、ソファに乗る。立て膝で前に進んでいけば、カナの腰を挟むように膝頭を置いた。また、触れられた。それだけで身体が火照っていく。カナのまっすぐすぎる視線に背中を震わせると、お尻を落とした。  そしてすぐに、できた、褒めて、と目の前にある瞳に訴える。 「先輩はいい子ですね」  そう言い、カナの手が両頬を包む。正面に顔を向けられ、視線が絡み合う。カナの瞳の中にいる自分と顔を合わせていると、理性が薄れていった。耳に届いたカナの言葉が、隅々まで行き渡っていく。  でも、まだ足りない。  求める心に刺激され、腰が疼く。勝手にカナの太ももに押しつけそうになって、とっさに腰の動きを自制する。ダメ、もっと、ダメ。ユキが瞬きとともに雫を溢しているのに、カナはどこか楽しそうに笑っている。 「カナ……」  たまらず熱い吐息とともに名前を呼ぶ。すると、頬を濡らす涙が親指で拭われていく。頬を包む大きな手の温かさに瞼を閉じれば、弧を描くように目の縁をなぞられる。 「“俺を抱きしめて”」  光のない暗闇の中、カナの声が聞こえてくる。  優しい命令だ。その言葉の一つひとつが甘美な響きとなって心に空いた空洞を満たし、全神経に働きかける。ユキは嬉しさのあまり、目を開けると口角を上げた。  いそいそとカナの脇の下へ腕を通し、前に移動する。そして胴体を重ねると、首筋に顔を埋める。全身を使って思いっきり抱きつくと、より一層カナを感じられていい。  ぐりぐりと額を擦りつけていると、カナの手が背中に回り、ユキと同じように抱きしめる。力いっぱいにカナの身体に触れれば、足りないと渇望する心が小さく消えていく。 「今度は……、“なにしてほしいか言って”」  話すたび、耳朶にカナの唇が当たる。ぞくり、背筋が震える。何を言われても、ユキの身体は嬉しさを感じ取る。逆らうなんて選択肢は、始めの頃に捨て去っていた。 「もっと、抱きしめて」  従うままに声を出す。言葉にすると、カナよりも先に身体に力を込めた。  そうすると、ユキを抱きしめる手が強くなる。重なった上半身は隙間なくくっつく。その事実が心を落ち着かせ、心身ともに気持ちよくなっていく。ユキは首筋に唇を触れさせると、笑顔になってしまう顔を隠した。 「もっと、もっと」  ユキは腰を押しつけ、唇で軽く肌を噛む。 「これ以上は痛くなっちゃいますよ」 「痛くてもいいから、もっとして」  決して離れぬようにと、ぎゅっとしがみつく。そうすると、観念したのか、徐々にカナの両腕に力が入っていった。  確かにカナの言う通り、少し痛い。でも、この痛みは抱きしめられている証だから、苦しいよりも嬉しさが勝る。近づくにつれて立てていた足でもカナを囲むと、押し当てた唇で小さく呼吸を繰り返した。  カナが呼吸すると、微かに胸が膨らむ。それに合わせて吸って吐いて、としていると、カナと一つになったような感覚に陥った。背中をさすられ、さらりと髪の毛を梳かれる。その瞬間、今までの快楽とは違う、意味の持った涙が溢れてきた。 「カナは離れちゃダメだからな」  今まで見ないフリをしてきた寂しさが暴れ出し、叫ぶ心が勝手に話し出す。  寂しい、離れていくな、一人にするな。そんなことで、カナを縛ってはいけない。そんなこと、わかっている。でも、この心を満たしてくれるのはカナだけなんだ。 「一人になんてしませんよ」  先輩のパートナーは俺ですよ。先輩が嫌って言っても、離しません。 「俺、先輩のこと、大好きです。ずっとそばにいさせてください」  次々とカナの口から出てくるのは、ユキが欲していた言葉ばかり。  止めどなく与えられる言葉。そのたびに脳の奥の奥まで刺激され、身体が小さく跳ねてしまう。その反応ともに口から漏れそうになる母音を、カナの肌で押さえて隠す。恥ずかしいのに、それ以上の快楽に従順になっていく。  いつもの深い海の中へ溺れてしまいそうだ。でも、できることなら、芯の芯まで早く浸かってしまいたい。ユキは強く瞼を閉じると、触れる肌や声に集中していく。  ユキは許されるままに、カナに全てを預ける。 「このまま一人にしたくないなあ」  しばらく、といっても時間の感覚はなく、刺激が落ち着いてきた頃。カナはそう呟くと、子どもをあやすみたく身体を左右に揺らした。ユキはそれに重い瞼を開くと、肩に頬をくっつけた。  命令され、褒められた後。いつも特有の、微睡みに似た穏やかな気持ちよさに包まれる。それはまるでお風呂に入ったときのようで、ユキの身体は抱きつく力以外残っていない。 「今日、泊まっていってもいいですか?」  ぼんやりとしている中、突然聞こえてきた提案。それはあまりにもユキをトキめかせるもので、思わず上半身を起こすと、カナの顔を見つめた。 「……いいの?」 「俺がしたいんです」  春の陽気を思い起こす、優しい笑顔。ユキはそれを見た途端、少し芽生えた遠慮の文字は消え去る。 「泊まって、ほしい」 「はい、わかりました」  明るい声で放たれる了承に、ユキは思いっきり破顔した。  昼休憩を終え、いつものように練習が始まる。今日はいくつかの場面を通して演じ、動きの確認や話のまとまりを見てみる。  ユキは食べ終えた弁当を片付けると、台本に目を通していく。修正された台詞、余白を埋めるように書かれた助言や注意の数々。ユキは不安をかき消すように一つひとつ、用心深く確認していく。  ここは、もっと前に向けて明るく。こっちは、落ち着いてゆっくりと語りかけるように。自分に落としこんでいくように読んでいると、あっという間に最後の一行に辿り着いてしまった。  ユキはやや大袈裟に、パタン、と音を立てて台本を閉じる。瞼を閉じ、深呼吸を一回。入り、出ていく空気の流れに意識をやれば、やっと騒がしかった心音が幾分か落ち着いた。  大丈夫、頑張れ、できる。自分に言い聞かせる。 「東、そろそろやるぞ」 「あっ、うん」  背後から声をかけられる。その声に我に戻されれば、急に忙しない部室の空気が聞こえてくる。楽しげに小道具の相談をする会話、廊下から漏れ聞こえてくる個人練習の声。  ユキは急いで立ち上がると、部員たちの元へ駆け寄っていく。輪の欠けたところに身を収めれば、最終確認がなされた。自分の目の前で交わされるやりとり。ユキはそれに相槌を打ちながら、さっき確かめた言葉たちを反芻していく。 「よし、行くぞ」  加川のその声を合図に、部員が散らばっていく。  ユキも目張りのある床の上、ど真ん中に立った。頭の中に舞台の上に立ったとき、目の前に広がる客席の光景を思い浮かべる。 「……、スタート」  息を吸う。お腹に力を入れると、台詞を発する。 「さあ、みんな。今日の始まりだ」  始まる、僕の人生。仲間と一言ずつ言葉を重ね、全身を動かす。 「お前は、落ち込むこととかないのか」 「落ち込むくらいなら、腹いっぱいメシを食って寝るな。それから考えることにするよ」 「そういえば、そういう奴だったな、お前」  俯く友人の肩をぽんっと叩いて慰めると、目張りされた床の真ん中へ歩みを進める。目線は先を見据え、表情は笑みを絶やさず。視線の端に、後輩たちの顔が見えた。 「僕は、前しか見ないって決めたんだ」  昨日よりも明るい声色を意識して作る。壁にぶつかって聞こえるユキの声は、いつもより軽く鼓膜を震わせる。  ユキは端に捌け、息を整える。まだ、大丈夫だ。ふらつく身体に言い聞かせながら、揺れる視界を正すように瞬きを繰り返した。並ぶ椅子の一つに腰かけ、身体を落ち着かせる。それだけで荒れていた心身が静まっていく。  ユキはそんな中でも絶対に、演技する部員たちから目を離さない。 「あいつは邪魔だ」 「でも、裏切るのは……話し合う道もあるんじゃないか?」 「そんな生温い気持ちでいるから、お前はいつまでも甘ちゃんなんだよ」 「それはわかっている、けど……」  仲間だった人たちが、主人公を裏切ろうと画策する場面。ここから少しずつ、主人公の周りの人間関係が縺れていく。ユキは、潜めながらも怒りや困惑を表現する後輩たちの演技を、固唾を呑んで見つめる。  日々の練習によって、みんなの演技は格段に上手くなった。始めは、焦りからなのか早口になったり、独りよがりになってしまって演技が噛み合っていなかったり、とちぐはぐなものであった。それが今ではパズルのピースがはまるが如く、一人ひとりの演技がぴったりと合わさっている。  目まぐるしい成長とは、こういうことを言うのだろうか。ユキは、昨日質問してきた後輩の動きを追いかけながら考える。その成長に、自分はついていけているのだろうか。  目の前で行われる台詞の往来が、やけに脳内で反響する。身振り手振りに目を惹かれ、言葉の抑揚に耳が傾く。頭の中で広げた台本が進むにつれて、胸の内で膨らんでくる焦りに一生懸命顔を背けた。  氷水に浸かったように指先が冷たくなっていく。それを握り込むように拳を作れば、口の粘膜に歯を突き立てる。湧き上がる焦燥感から、痛みも忘れて肌に食いこませた。 「はい、ここまで」  パチン、と手が打たれる。かけられた魔法が解かれたかのように、パッと全身から力が抜けていく。  さっきまで役を演じていたカレカノジョが、いつも接している後輩の顔に戻っている。中央で見ていた先生が腰を上げ、部員を集める。ユキも行こうと、のっそり足を動かす。先生を取り囲むように描かれる半円の端にそっと身を置いた。  ここは役の個性が出ていてよかった。あそこはもう少し、怒りを表現した方が主人公との対比が明確になるし、人間関係がわかりやすくなると思う。先生の言葉に、みんなが頷く。ユキも紛れるように話半分で頭を動かした。  先生が言い終わると去っていく。そうすると早速、加川や後輩で改善点が話し合われる。目の前で交差する、意見の数々。みんなの口から、どんどんとアイデアが溢れてくる。ユキはそんな中、ぼんやりとした頭を抱えながら曖昧に頷いた。  ユキは、自分のことで精一杯だった。みんなの話をちゃんと聞いているはずなのに、頭の中ではずっと自分の演技が巻き戻し再生される。 「じゃあ、十分休憩」  加川が話し合いの終了を告げる。その声を合図として、ユキの胸の内で心臓がバクバクと嫌に大きく存在を示した。  後輩たちは四方へと散っていく。ユキは助けを求めるように、片手に持っていた台本をくるりと丸めて持った。手元からくしゃりと紙が折れる音が聞こえてきたが、今はどうでもよかった。  加川と今回の脚本担当の山辺さんが近づいてくる。抗うことなく立っていれば、小さな三角形を描くように立った。 「なんかこう、主人公の性格が少しぼんやりしている気がするんだよね。もっとこう……、私も言葉で表しにくいんだけど」 「そうなんだよな。もうここまで来ると、演技がどうこうっている話じゃなくて理解とか共感の部分になってくると思うんだ」  二人の言葉に、ユキは頷きながら台本に書きこんでいく。狭くなった空白の隣に並んだ言葉は、同じような言葉。最近、こんな会話ばかりしている。  二人が自分のことを期待して言っていることはわかっている。わかっているんだ。だからこそ、何度やっても応えることができない自分が悔しくて、情けなくてたまらなくなる。  最高学年の三年生で、この演劇部では先輩で、この劇における主人公で。なのに現状、誰よりも足を引っ張っている。みんな、あんなに期待してくれて、どんどん成長しているのに。  申し訳なさに台本を見たまま顔を上げられずにいると、二人がおずおずとこちらの様子を窺っているのがひしひしと伝わってくる。 「……ちょっと、考える時間がほしい」 「そうか、わかった。いつでも相談しにこいよ」  なんとか声を捻り出し、加川がユキの肩を二回叩く。励ましにユキが小さく頷けば、加 川と山辺さんは静かに去っていった。  一人になると、視界に映るのは台本と薄汚れたスリッパを履く自分の足。遠くで、練習再開の掛け声が聞こえてくる。ユキは項垂れたまま、床に向けて思いっきり息を吐き出した。  力の入らない足をふらふらと動かし、空いた壁に寄りかかる。壁にもたれたままずり下がると、床にお尻をつけるとしゃがみこんだ。正面では、ユキのいない場面の練習が始まる。その奥では、今日もカナが楽しそうに針片手におしゃべりをしている。  聞こえてくる台詞の往来に、耳を塞ぎたくなった。胸に締めつけられて苦しい。でも、塞いでしまうのは後輩たちに失礼だ。そんな風に自分の思考の中を右往左往しながら立てた膝を抱えこむと、足の間に顔を埋めた。  どう、すればいいの。  自分がこれまで考えてきた演技、加川たちに言われた助言たちが、頭の中をぐちゃぐちゃにかき乱していく。整理しよう。そう働かせようとするも、そのたびに期待に応えることができない情けない自分への怒り。もうできない、と嘆く自分がその動きを止める。  演技を重ねれば重ねるほど、わからなくなっていく。掴んだ、と思えば、大きく外していて。自分は何もわかっていなかったのだと突きつけられる。みんな、この短期間で目に見えるほど成長しているのに、ユキだけが後退している。  うだうだと堂々巡りしているのだ。同じところを回り、歩数を重ねるほどに自分を嫌悪する気持ちが強くなっていく。自分以外のみんなを妬ましく思ってしまう。そうなると、最適解はおろか、選択肢すら作ることができなくなっていく。  今までだって、似たような状況はあった。初めて主役に選ばれたとき、成績が伸び悩んだとき。たくさんあったけれど、全部自分一人で解決してやってきた。  元々、人に自分のことを相談するのは苦手だ。弱みを見せて、落胆されたくない。だから、いつも人前では強くありつづけた。頼ったりして、邪険に思われたくない。だから、人に頼る選択肢を自分からなくしていった。  なのに、カナと出会って、知らない間に自分が変えられていく。  ボクが求めなくたって、カナは好いてくれ、惜しみなく表現してくれる。弱みを見せたって、それを丸ごと包みこんで心を満たす。そんな安らぎを覚えてしまったボクは、もう前のボクには戻れないかもしれない。  今だってカナが泊まる日には、朝は起こしてもらっている。食事はすっかりカナ任せ。着替えが用意されている現状を受け入れ、一人が寂しくなればカナを求める。さすがにトイレやお風呂は恥ずかしくてまだ自分でやっているけれど、いつかカナにお世話される日が来るのが容易に想像できる。  着実に、一人でいられなくなっている。誰かに頼るのが当たり前になってきている。  そんなことだから、今でも無意識の内にカナを必要としている。  ユキは大きく息を吐き出し、自分を鎮めると顔を上げた。その瞬間、目の前で行われる後輩たちの演技が視界いっぱいに広がった。ぐらりと頭が傾きかけたが、なんとか立て直す。  深く考えこんでしまっていたが、そんな時間は経っていないようだ。ユキは重い身体に勢いをつけて立ち上がらせると、這うようにゆっくりとカナのいる方向へ足を進める。  ユキは、カナだけを見つめる。そうすれば、すぐにカナと目が合った。 「どうしました?」 「カナ、ちょっと……」  視線が交わる。そのときにはカナは立ち上がり、ユキの前に立っていた。  ユキは唇を震わせながら、カナのシャツを摘まむ。言いたいことは山ほどある。でも、ここは十分に甘えることが許された家ではなく、衆人環視のある部室。自分たちを取り巻くその視線たちが気になって、次の言葉が出てこなかった。  出てこない言葉に代わって摘まんだシャツを持ち替え、握りしめる。ユキは白い布に寄った皺を見つめると、閉じた唇に歯を当てる。どうしても、言えなかった。 「少し、休みますか?」  呟かれる提案に、ユキは無言で頷く。そして出てこない言葉を早々に諦めると、ユキはシャツを引っ張り、廊下へと進んでいった。後ろからカナの戸惑った声が聞こえるが無視する。ユキはただ、一心に近くにある空き教室を目指した。  目星はあった。部室から三つ離れた教室、いつもは数学とか生物とかの少数授業をするときに使われるところだ。だから、夏休みの間は使用されることはない。  ユキはその教室の前に着くと、迷うことなく扉を開いた。そうすると案の定、整然とした机が並び、閑散とした空間が目の前に広がった。  カナの身体が教室に入ったことを確認すると、後ろ手で扉を閉める。後先なんて、このときにはもう頭のどこかにやっていた。  ユキは机の角にぶつかりながらも、窓のある方へ進んでいく。たまに聞こえてくるカナの短い声。それを聞き流して開いたカーテンをしっかりと閉めると、窓側の一番後ろの席の椅子を引いた。 「カナ、座って」  空いている手で指差す。久しぶりに出した声は、自分が思っているよりもずっと震えた。 「命令、してほしい」 「ここ、学校ですよ?」 「ここなら誰にも見られないからいい」  さっき出てこなかった言葉が、次から次へと溢れていく。急かすように歯がぶつかり、瞬きとともに頬へ涙が零れる。命令して、お願い。何度も言っていると、鼻の奥が痛くなってきた。  恥じらいはまだある。でも、止まることのない涙は視界を覆っていて、それをいいことにユキはカナを見上げる。  そうすると、するりとシャツを握っていた手が外された。なんで、と目を丸くして見つめれば、カナは手を結び、椅子に腰かける。 「先輩、“おいで”」  ワガママが許され、命令される。その声に、ユキの中で多幸感が膨れ上がった。  ユキは向かい合う形で、カナの両足を跨ぐ。つながった手を握りしめ、ゆっくりと太ももの上に乗ると、上半身をカナに預けた。  遠くから微かに聞こえる部員の声。小道具係の子たちの楽しげな会話、そこに飛び交う台詞の数々。今度は耳を塞いで逃げることなく、ちゃんと真正面から受け止めることができた。  ユキは瞼を閉じる。許されるがままにカナの肩にすり寄った。  すると、予告なしに結ばれていた手がゆるりと外される。自由になった手が、やけに寂しく感じた。  ユキはすぐに顔を上げると、カナの顔を見つめた。そうすれば、カナの表情は口元を緩ませている。拒絶、されたわけではないのか。ならどうして、と困惑していれば、思いっきり両腕で抱きしめられた。 「大丈夫ですよ」  背中に回ったカナの手が上半身を引き寄せ、もたれさせる。優しいけれど、しっかりとユキを抱える手に、ユキも徐々に力を抜いて委ねていった。  ゆらゆらと身体を揺らされ、ぽんぽんと背中を叩かれる。穏やかなそのテンポに、どんどん心は安らいでいった。ユキは肩におでこを置き、背中に手を回してシャツを握りしめる。ふわり香る、柑橘系の爽やかな匂いが最後の支えが外される。 「演技、上手くできない」 「うん」 「もう、どうすればいいかわかんない」  ぽつりぽつり、口から弱音が零れていく。思考はすでにぐちゃぐちゃで、思いつくままに話した。  みんなの期待に応えることができない。勉強だって、もっと頑張らないといけない。どんどん、みんなに置いていかれる。嫌だ、怖い、苦しい。  また流れ出す涙。ユキは、カナのシャツで拭うように押しつける。目の辺りに触れる布がどんどんと濡れていくが、カナは咎めることなく、ユキの背中を撫でつづけた。 「ボク、もうできない」  胸の中で膨らみ、ぐるぐると渦巻くモヤモヤが言葉となって吐き出されていく。  そうすると、身体に入っていた力が全て抜けた。ぐったりと垂れる身体を抱き留められると、家にいるときと同じように全身をカナに預けた。  大きな手のひらが、襟元から覗くうなじを覆った。そろりと首筋を撫でられたと思えば、耳朶を親指がなぞった。ユキは顔を横にすると、カナの首に唇をくっつけ、赤ん坊のように吸いついた。 「大丈夫です。いつだって、俺は先輩のそばにいます」 「……さっき、いなかった」 「すみません、先輩の着る衣装で盛り上がっていました」 「わかってる、わかってるけど……」  ユキは、子どものように駄々をこねる。抱きつく力を強めると、うー、と小さく唸った。  カナの腕の中にいると、感情を抑えることが難しくなる。拗ねて、甘えて、縋って。パートナーになってからというもの、言葉や態度で躾けられたユキは、カナに全てをぶつけてしまう。 「俺は、どんなことがあろうと先輩のことが好きです」  そう言うと、カナはユキの耳に唇を触れさせた。  それから、カナとの距離は急激に縮まった。というか、ユキが縮めた。  カナの近くにいないと落ち着かない。少し離れただけで寂しさが募る。自分から人前では今まで通りの先輩、後輩の関係を保とうと忠告していたのにも関わらず、自分から建てた壁を壊していった。  演習を終え、カナに迎えに来てもらってからは、演技をするとき以外はカナのそばに身を置く。カナが離れようとするならば、アヒルの行進のようにカナの後を追いかけ、隣から伸びる手に従順にお世話してもらう。  その様子を、部員たちは生温かい目で見守っている。それに始めは恥じらいを感じていたものの、日を重ねるにつれて、そんな視線よりもカナへと傾倒していった。  平日、家に着くとカナを引き留め、軽い命令をしてもらう。カナの足元にお座りをして、抱きしめてもらって。カナはいつも手加減をするけれど、ユキは抱きしめる力に痛みが生まれれば生まれるほどに、ユキの心は満たされていく。  演習や部活がない休日は自ら箍を外して、もっと欲しい、と願う心に従った。夏休みの中盤まで来ると、お座りや来て、といった軽い命令では足りなくなってきた。もっと欲しい、もっと求めて。カナの前で服を脱いだり、歯磨きをしてもらったり、とお世話の範囲を広げていった。  ユキはそんなパートナーとしての関係の深まりに、心を安定させた。  といっても、結局のところは短時間の安寧。だとしても、カナの命令に従っているときだけは他のことなんてどうでもよくなる。部活も勉強も、何もかも。それは背負っていた重荷を全て下ろす、そんな解放感だ。  そんな解放感、今までの人生で初めて感じた。身を沈めてくる感覚はあまりに甘く、心に絡みつく。  でも、カナは少し、何かを我慢しているようだ。以前と変わらず、好きだ、かわいい、とユキを褒めてくれる。けれど、ユキに触れる手には前までにはなかった躊躇いが見えるようになってきた。  カナは、どうしたのだろうか。見つけてしまったからには気になってしまう。それなら、いっそのこと聞けばいい。そうなのだが、カナの命令の最中以外、弱い心を拗らせてしまったユキは、本人に問うなんてできなかった。  とはいえ、カナのいない夜はいつも一人、思うのだ。カナに依存している、ちゃんと自立しないと、前の自分に戻らないと、と。なのに、カナを目の前にすると、心が勝手に欲求に従順になってしまう。  もっと、ボクだけを見てほしい。ボクだけを、褒めてほしい。  そんな気持ちの中に、自分に芽生えた気持ちが見え隠れし始めた。でも、この存在に気づいていいのだろうか。今までは必死に距離を取ろうとしていたけれど、見え隠れするその端を発見するたびに興味が湧いてきた。  おそるおそる、指でつんっと突いてしまおうか。そうしたら、風船みたく弾けてなくなってしまいそうだ。じゃあ、いっそのこと存在を認めてしまおうか。だが、そうしてしまったら、ぱんぱんに膨れ上がって抱えきれなくなってしまいそうだ。  そんな心の揺れ動きがありながらも、今までの嵐のような荒れに比べては安定している。一人でいても呼吸しづらくない。寂しい、と思うことが少なくなった。だからといって、演技が劇的に上手くなる、というわけではない。  刻一刻と時間は過ぎていく。後輩は上手くなっていくのに、ユキは置いていかれたままだ。演技はどんどんわからなくなっていって、空回りばかりを繰り返す。幸いなのは、勉強の方は順調に進んでいることだ。  早くどうにかしないと。でも、どうやって。  そんな試行錯誤と堂々巡りを交互にしていると、無情にもお盆が来てしまった。この期間は、演習も部活も休みになる。みんな、家族や塾の用事が入っているらしい。もちろんのことだが、ほぼ親類と縁が切れているユキには何もない。  お盆が近づいてくるにつれて、焦りに押し潰されそうになっていった。それでも精神をすり減らし、必死に普段の自分を保った。 「先輩、お盆は何か用事がありますか?」  お盆初日。カナがいつものように家にやってきた。  この日は、前々から約束していた。自分が不安に取りつかれて、ヘドロのようになってしまう気がしたからだ。カナが来る日は、いつだって浮ついて、笑みを溢してしまう。でも、今日はどんよりと曇り空のように沈んでいた。  そんな自分とは裏腹に、今日も快晴のように明るいカナに思わず目線を逸らしてしまう。 「……なんも、ない」  唇を尖らせ、視線を迷わせた末にそっと顔を俯く。そうすると、スリッパの先にある小さな汚れが目についた。それに目を置きつつ、自分の前で組んでいた指先を遊ばせると、深く息を吐き出した。  どうして、こんなにも落ち着かないのだろう。自分に探りを入れてみると、沈黙が流れる。収まりが悪く、思考をぐるぐると動かす。そうして、ゆっくりと唇を開いた。 「カナは?」  ちらり、カナの方に瞳を向ける。 「俺は親戚の集まりで遠出をしないといけないです」  カナは、うんざりとした表情を浮かべながら溜息をつく。演技めいたその様子からして、自分の思惑とは違うところで動いているからだろう。ユキは親戚付き合いに縁遠いため、その疎ましさがわからなかった。  でも、そのカナの表情に心が突かれ、眉間に力を入れる。そうすると、不透明で、ぐちゃぐちゃな感情がふつふつと湧き起こってきた。 「ボクを置いていくのか」  息を吐くように声が出てきた。 「いや、あの、え……」  自分は、なんて言った?  自分の声に、自分自身が一番驚いた。飛び上がった感情とともに顔を上げ、カナの顔を正面から向かえた。そうすれば、カナは丸い瞳をもっと丸くさせ、ユキを見つめる。  カナが離れていく――  そう思ったとき、ユキに背中を向けて歩き出すカナの姿が脳内に流れた。どうして離れていくの、隣にいてよ。小さくなっていく背中に囚われた途端、溢れ出す感情を抑えることを忘れた。  どうしてか、カナのその背中が、自分の元から去っていった両親の背中に重なったのだ。  ユキはとっさに引き留めようと、カナの腕を掴む。指先は震え、冷たくなっていく。でも、カナが痛がるなんてことは頭にはなくて、ただカナがどこにも行かないようにと握りしめた。  どうして、ボクを置いていくんだ。離れていかないでくれ。隣にいるって言ったじゃないか。お願いだから、ボクを一人にしないでくれ――  独占、悲願、憤怒。抱いたことのないほどの熱情が心から溢れ出すと、頭の先から指先まで染めていく。ボクが塗り替えられ、変わっていく。自分ではなくなっていく。そう、思った。  なんて、自分は醜い人間なんだ。そうやって、ユキの中にいるもう一人の自分が見下ろしてくる。まだ塗られていない前の自分を見つけた。すると、少しだけ冷静になった。 「……っ、楽しんで、こいよ」  カナの腕を掴んでいた手を離し、その場所を軽く撫でる。赤くなってしまった肌は、ユキの中にある汚れた部分を体現化しているみたいだった。  決して、目を背けるな。そう、ユキに言っているようにも思えた。 「ごめん、本当に……」  今まで、ごめんなさい。そんな思いをこめながら触れていると、ユキの中で一つ、決心することができた。  そろそろ、ちゃんと気持ちに向き合わなければならない。この関係に、新しい名前をつけるときなのかもしれない。  決まった思いとともにカナの瞳を見つめる。そうすると、合わさった視線に胸が高鳴るのがわかった。
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