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 主人公は、どうしてみんなに優しくできるのだろう。どうしたら、いつも明るく前向きでいられるのだろう。あんなにも暗い過去を持っていながら、どうやったら毎日を頑張れるのだろうか。  開いた台本を前に、ユキはそんなことを考える。  箸休めのように小さく折れた台本の端を伸ばすと、できた皺を上から指で押さえる。元々、ペラペラな紙でできた台本。毎日のように読んでいるせいか、すっかりボロボロになってしまった。  ページには、蛍光ペンで引かれた主人公の台詞の数々。みんなからもらった、自分の筆跡で書かれた助言。それらを一文字も漏らすことなく丁寧に読みながら、主人公の抱く感情や行動原理を考えていく。  考え、触れるほど、ボクと主人公は正反対だ。  ボクは、前向きに物事を考えることはできなくて、悶々と後ろ向きなことばかりを考えてしまう。人のために、なんて明るくはいられなくて。何もかもを跳ね返すほど、強くもない。  だから、なのだろうか。どうしても、この主人公のことを掴みきることができない。正直、この考える行為すらも、宙に浮いた不安定な紐に手を伸ばしては指先を掠りつづけているみたいだ。  こんなときは、カナに全てを委ねたくなる。そっと腕を掴むと、ボクの方へ瞳を向かせたくなる。  そんなカナは、三日前に親戚がいる遠方へと行ってしまった。別れる前日まで、この部屋で寂しそうにずっとくっついていた。どこに行くにもユキの背中を追いかけてくる姿は、まるで懐いた犬さながらであった。でも、こまめに送られてくるメッセージや写真たちからは、あちらで楽しく過ごしているのが伝わってくる。  ユキは、密かにその写真を保存している。従兄のお兄ちゃんとお揃いで買った、という有名キャラとコラボしたTシャツを着たカナ。古風な柄の布団の上に寝っ転がるカナ。ほとんどないに等しかった写真のホルダーは、カナで埋まっていく。  どんなに見つめたって、写真だから画面の中にいるカナの表情が変わることはない。いつだって送られてくるのは、ユキの隣にいるときと同じ晴れやかな笑顔。隣にいないから、いつまでも見ていられた。  そんな風に写真を眺めるのが日常と化し始めていた昨日の夜。突然、カナから電話がかかってきた。食事はちゃんととっているか、夜更かしはしていないか。内容は、ユキを心配するものばかり。小さな子どもに対する扱いのようなのに、思わず口元は緩んでしまう。  たった数日、声を聞かなかっただけだ。なのに、一度高揚し切った気分は落ち着かなくて、勝手にぐるぐると口が回ってしまう。笑い声も多く漏らしてしまって、そのせいかふいに、寂しい、と零してしまいそうになった。  弱くなってしまったものだ。隙さえあればカナに頼り、甘やかしてほしい、とすっかり身体に覚えこまされた快楽をまた求めてしまう。そんな自分に目を逸らしたくても、カナの前では無意味なだけだ。  ユキは、黄色の蛍光ペンで引かれたセリフの一つに指を撫でた。明るく強い、この舞台の中でも肝となる言葉たちが、ユキの胸を締めつけていった。  主人公は、常に好意を言葉にする。底へと沈んだ中でも一人、誰よりも強くあろうとする。いつ、永遠の別れとなるかもわからぬ人と人との縁。主人公はそんな刹那を愛し、恐れているのかもしれない。でも、それは全て―― 「……愛、なのかな」  主人公が大事に抱く、大きな大きな感情。その名前を呟いてみれば、ユキ中でパチリと心の空欄にはまる。その瞬間、耳の奥からカナの「好き」が聞こえてきた。 「……お願いだから、考え直してもらえないか」  ゴツン、と舞台の床に膝がぶつかる。ユキは膝から崩れ落ちながらも、目の前にいる男の手を掴んだ。ついさっきまで笑い合い、仲間と呼んでいる男。主人公は裏切られてもなお、男を信じて縋りつく。  そうすると、男はユキを蔑んだ目で見下げ、ニヤリと笑う。見たことのない影のかかった男の顔に、ユキは固唾を呑み込んだ。 「お前のその顔が見たかったんだ。この偽善者!」  自分を形容する酷い言葉が吐き捨てられる。男とつながる、最後の縁。それは無惨にも男自身によって切られてしまい、ユキは眉間に皺を寄せた。  去っていく男の背中を。それを見つめながらユキは、今にも倒れてしまいそうな身体を必死に保った。瞬きに合わせて、ぽろぽろと瞳から雫が溢れ、零れていく。ユキはそっと男とつながっていた手を擦った。 「偽善者か……」  弱く唇から放たれた声は、体育館という広い空間に溶けて消えていく。耳に届くのは、余韻が混ざり合う静寂。ユキは力が尽きて四つん這いになると、とりあえず息だけでも整えようと肩を上下させながら呼吸を繰り返す。  どうして、と見えなくなった男の背中に投げかける。そして、やっぱりそうか、と諦めと納得をする自分もいて。正反対に位置する自分が脳内で口論し、主人公を混乱させるのだ。 「はい、ここまで」  パチン、と拍手の音。パブロフの犬のように根付いた終了の合図に、ユキの身体は操り人形の糸が切れたが如く力が抜けると、舞台の床に倒れこむ。役に入りこみすぎたがゆえに体内に熱が籠った身体に、床の冷たさはよく染みた。  深く息を吐くたび、役が抜けていくのを感じる。そうすると同時に、身体にのしかかっていた重荷も落ちていく。くるり、ユキは仰向けになった。視界に広がる天井の裏の構造を眺めていると、横から加川の顔が覗きこんできた。 「大丈夫か?」  その言葉とともに手が差し伸べられる。ユキは素直にその手を握ると、引き上げられるままに上半身を起こした。  床から頭が離れた途端、くらりと脳内が揺れる。その反動から瞼が閉じかけたが、なんとか力を入れて瞳に光を当てていると、笑う加川の顔が真ん中に映った。そのときになってやっと、周りのざわめきが耳に入ってきた。  ああ、こんなにも騒がしくなっていたのか。  舞台の両端に控えている舞台セット担当の子たちが指示し合う声。舞台の前で練習しているバレー部がボールを叩く音。静かだった世界に舞いこんだ音たちは、忙しないのにもっと聞いていたと思った。 「すっごく良くなってるぞ」  嬉しそうに言われる言葉に、ユキも口元を緩めて見せる。最近になって、ようやく耳にするようになった言葉。ユキは座りこみながら、徐々に体調を落ち着かせていく。 「少し休憩を挟んだら、もう一回できそうか?」 「ああ、大丈夫」  小さく頷くと、加川は再び様子を窺いながらユキを見つめる。舞台の上はもう、次に向けての準備に向けて忙しなく人やものが動いている。  ユキは言葉を裏付けようと床にちゃんと足の裏をくっつけると、手のひらで床を跳ね返し、勢いよく立ち上がる。そうすると、くらっと微かな眩暈こそ感じるも、瞬きを数回していく内にじんわりと治っていった。  後輩に呼ばれた加川と別れる。ユキは邪魔にならないようにと舞台の端へ移動した。辺りを見渡すも、今の自分が役立てる場所はなさそうだ。そう見限ると、舞台の縁に腰かけ、足を投げ出した。  ぼんやりと前に広がる景色を眺める。今日はバレー部もバトミントン部も部内で試合をしているようだ。ネットを挟んでの応酬、攻防の末に入った点。それらを見守りながらも、ユキの顔は自然とにぎやかなところを向いていた。  舞台で使う小道具を力合わせて運ぶ部員たち。その中で頭一つ分抜けたカナの姿。その横顔が笑っているのを見た瞬間、もっと見ていたいとユキの目が追いかける。だが、それと同時に逸らさないと、と制御する自分もいる。  なのに、視線がカナの頭の形をなぞっていく。丸く、小さい。そこを飾るふわふわとした毛先を滑るようにして目線を外せば、パタパタと遊ばせていた足先に視点を置いた。  お盆が過ぎ、夏休みが明けた。その頃には衣装づくりなどの大まかな作業が終わりを迎えていて、カナは力仕事を積極的に手伝っているみたいだ。近頃、大道具を担当する子たちと仲良さそうにしている。今だって、二年生の男の子たちと一緒に何か楽しげに話しているようだし。  そんなカナを、ユキは遠くから眺める。いや、眺めることしかできない。  行き帰りはカナの隣にいる。昼だって前と変わらず、カナの作ったお弁当を一緒に食べている。でも、カナとそばにいると、そわそわとして落ち着かない。以前は、求めるために触れることができたのに、今では手をつなぐことさえ躊躇ってしまう。  カナの隣に座っているだけで、頬はウイルスで侵されたときのように高熱を帯びる。視線が合わされば、心臓がどくっと大きく跳ね上がり、ふいに肌が重なるだけで、三十分は高鳴りが収まってくれない。  こんなこと、初めてだ。  どうやって、この心臓を静めればいいのか。身体を占めていく熱はどうすれば下げられるのか。どんな顔で、カナのそばにいればいいのか。今まで意識することなくやっていたことが、どんどんとできなくなっていく。  毎日、そんなことをぐるぐると考えては、カナを目で追いかける日々。  この気持ちに気づいてしまった。名前をつけ、認めてしまった。もう、知らないままでいたあの頃には後戻りすることはできない。  みんな、こんなにも悩んでいるのかな。 「みんな、そろそろ最後の通し、始めるぞ」  後ろから、加川の声が聞こえてくる。それに合わせて、バタバタと左右に移動していく足音、舞台の動きを再確認する声。幕が上がる前の忙しない雰囲気に、ユキは深く空気を吸いこんだ。  よし、頑張ろう。心の中で勢いづけて腰を浮かすと、ユキはしっかりと足の裏を地面につけて立ち上がる。まっすぐと背筋を伸ばすと、胸の奥まで空気が入っていく。それに小さく「あっ」と声出しすれば、ゆっくりと上手へと向かっていった。  開始の合図が鳴る。裏から出て、舞台の真ん中に立てば、必然とユキはこの物語の主人公になる。 「今日も、きっといい日になるぞ」  仲間たちに声をかけ、前に出る。ユキは口角を上げると、はしゃいだ子どものような明るい声を目指して放つ。  主人公は明るく、みんなからの信頼も厚い。そんな主人公は一つ、大きな目標を持っていた。その目標がもう少しで叶う、そんなとき。仲間と思っていた男たちから裏切られるのだ。突如訪れた挫折に、主人公はどうやって明るく生きていけばいいのか、わからなくなっていく。でも、そんな主人公を今まで支えられてきた仲間が支える。そうして、主人公はまた、目標へ前向きになっていく。  刹那に過ぎ去っていく青春と、得られた永久の縁。笑い、泣き、人間と人間との不器用な結びつき。ありきたりだが、それが愛おしい。 「僕はこれからも、みんなとともに生きていきたい」  遠くの壁に焦点を合わせ、高らかに声を上げる。結末が近づくにつれて、少しずつ息は荒れていき、肩は上下していく。  ユキは呼吸を大きくしながら、左右に並んで立つ仲間一人ひとりの顔を丁寧に見ていく。みんな、穏やかな笑みを浮かべ、主人公を受け入れるように頷いている。それに、主人公も胸を撫で下ろしながら小さく頷く。 「偽善と言われようと、裏切られようと。僕は僕らしく、生きていきたい」  自分の前に幾多と別れ、広がる未来に向けて。そして何より、一度折れてしまった自分に向けて強く誓いを立てる。  台本の最後の台詞とともに、一瞬の静寂が訪れる。そして、前方からパチパチと叩かれていく拍手の音。それを合図に下りていく幕。ユキは、その場で身体を固まらす。重い布が目の前の景色を覆ったところで、ひっそりと一息吐き出す。 「はい、オッケー」  幕の向こうから、演技の終わりが告げられる。それが合言葉であったかのように身体がふらつくと、全身が重くなっていく。見える景色が傾いていく。と思いながら、素早く上がっていく幕の裾をぼんやりと見上げた。  はあ。軽い溜息とともに、ユキはなんとか崩れかけた姿勢を立て直す。なぜだか瞳の表面はじわりと濡れ、視界が滲んで見える。 「最後のミーティングは部室でやろう」  舞台の前に立つ加川の声に、部員みんなが返事をする。ユキはそれに正されるように背筋をまっすぐにすると、前へ片足ずつ運ばせ始めた。 「先輩」  聞き慣れた、どこか求めていた声が呼ぶ。ユキは誘われるがままに振り向けば、後ろから注がれる視線と絡み合い、がしっと両肩を掴まれる。  頼もしい支え。自分から距離を置いていたはずなのに、触れられただけで嬉しくなっていく。どくどく、熱が全身を回る。ユキはそっと、後ろへ身体を預けかけた。でも、その途中で気づいて、とっさに姿勢を直す。  わざと前のめりになると、肩を掴む手から逃げる。いとも簡単に離れていくカナの手。それを少し残念に思いながらも、そんな気持ちを無理やり振り払い、改めて顔だけカナに向き合った。 「……大丈夫、だから」  弱く吐き出した嘘の言葉は、静かな体育館の空気に溶けてなくなる。ユキはのっそりと正面に向き直れば、後ろに立つカナに隠れて息を整える。  そして、クラクラとする頭を抱えながら、固めた決意とともに歩き出す。  重く足を上げ、前に運ばせるたびに後ろを歩くカナに頼りたくなった。カナに支えてもらうだけで、随分と楽になる。でも、それはダメで。そんな緩みかけた自分に鞭を打って、部室へと歩いていく部員の背中を必死に追いかける。  いつもは、カナと話している間に着いてしまう部室までの道のり。それが、そばにカナがいない。それだけで途方もないほど長く感じられた。 「先輩、大丈夫ですか?」 「……うん、大丈夫」  カナの隣を一人、帰路をふらつきながら歩いていく。たまに、カナは心配そうに声をかけてくる。でも、ユキが大丈夫と拒むものだから、背中から離れたところで手のひらを置くことで我慢している。  そんな中、ユキの意識は鞄の中にあった。そこには、さっきのミーティングでもらった文化祭の舞台のチケット。部員だと、前もって家族や友人用に数枚もらえるのだ。ユキは初めてもらった。  そのとき、カナが持っていないのは確認した。  もしかしたら、カナは当日、舞台裏の手伝いをするかもしれない。クラスで出店する可能性だってある。本人から直接聞いていないからわからないけれど、他にやることがあるかも。  だからこれは、完全にユキのわがままだ。カナに、ちゃんと観客として舞台を観てほしい。全身全霊を捧げた演技を、主人公になったボクの姿を――  そして、この気持ちを伝えたい。  うだうだと堂々巡りを繰り返した末に決めた考え。とはいえ、今でもこれでいいのか、と悩む。けれど、あとはもう進むしかないんだ。そんなことを思っていると、自宅の扉の前に着いていた。 「それじゃあ、また明日」  ぼんやりと扉を見つめ、立っている。そうすると、カナが頭を撫で、去ろうとする。 「あ、あのさ……」  とっさにカナのシャツを摘まんで引き留める。止まる足、驚きに丸まったカナの瞳。今ある感情の全てをぶつけるみたくカナの目を見つめ、そっと手を離す。その手で鞄の中を探ると、一枚チケットを取り出した。  ピラッと風に靡き、音を立てるチケットの端。おそるおそる、ユキは差し出す。ゆっくり、カナの指先がチケットを掴む。その瞬間、もう片方の手はこっそり拳をつくった。 「ボクの演技、観てほしい」  喉から絞り出すように告げる。拳を強く握りしめると、少しだけ爪の先っぽが手のひらに痛みを与える。でも、今はその痛みが逃げ出したくてたまらない背中を押してくれている気がした。  断られるかもしれない。けれど、すでに言ってしまった言葉を消すことはできない。ユキは体内で大きく鳴り響く心音を聞いていると、視界の端でカナの腕が上がった。 「わかりました」  さらり、項を撫でられた。と思えば、カナの方へと引き寄せられる。 「先輩の演技、楽しみにしています」  おでこがカナの胸に当たる。ほんのりと伝わってくる熱に見上げれば、ピンクに染めた頬を上げて笑うカナ。目が合った瞬間、何故か目が逸らされてしまった。それでも、受け取ってもらえたことに胸を撫で下ろすと、ユキも自然と笑みを浮かべていた。  時間が増すにつれて、ガヤガヤとにぎわっていく体育館内。ユキは幕の端を捲り、こっそりと外を覗いてみれば、観客席を埋める老若男女。期待の籠ったその顔を眺めていると、ユキも高揚していった。  幕を直し、後輩たちのいる方向へ振り返る。いつもはどちらかといえば、騒がしい彼ら。でも、この雰囲気には慣れていないからか、緊張しているのが目に見えてわかる。 「大丈夫か?」  ユキは、さきほどから深呼吸を繰り返す後輩の一人に声をかけてみる。床を這うように見ていた視線が上がり、瞳にユキが映る。その顔は思っていたよりもずっと暗かった。 「緊張でおかしくなりそうです」  向けられるのは、硬く凝り固まった笑み。そう言い終えると、後輩はまた深呼吸をし始めた。身を縮める後輩を前にしていると、ユキは一年生のときのことが思い出された。  ユキが初めて主人公を務める舞台の開演前、急に強烈な緊張と焦りに襲われたのだ。十分というほど練習をしたのに、まだ足りない気がしてきた。でも、そんなユキの背中を何度も撫で、大丈夫と声をかけてくれる先輩がいてくれた。そのおかげで、ユキは落ち着いて演技することができた。  それを思い出すと、ユキは丸まった後輩の背中に手を置き、優しく撫でる。 「今まであんなに頑張ったんだから大丈夫だ。この舞台、楽しもう」  不慣れながらに声をかけ、温かくなれと背中をさすりつづける。そうすると、徐々に手のひらに固まった身体が和らぎ、熱を持っていくのを感じる。  ユキはそっと後輩から目を離し、壁にかけられた時計を確認する。針は動きを止めることなく、刻々と開幕の時間に迫っていく。部員たちは静まり、今か今かと心の準備をしている。  今日の朝、カナと顔を合わせたとき。「一番いい席で観ます」とチケット片手に言われた。さっき、舞台の袖からは、カナを見つけることはできなかった。でも、カナは言ったから、叶えてくれる。きっと、本当にいい席で待っている。そう信じるだけで自然と身体は温まり、笑みを浮かべている。 「よし、いくぞ」  加川の声が、小さくも舞台の裏に広がる。ユキは後輩に元気を分ける気持ちでぽんっと背中を叩くと、自分のいた元の位置に戻る。あと数分で舞台が始まる。  ユキは一人、目を閉じると息を吸いこむ。舞台裏の静寂と、幕の向こうの話し声。緊張も興奮も全て飲みこんで、この舞台を楽しもう。ぐっと両手を握りしめれば、舞台の開幕を知らせるブザー音が鳴り響く。  ここから、ボクは主人公だ。  胸の高鳴り、気持ちのよい緊張、溢れ出てくる台詞。それぞれ別のものが混ざり合って、一つになっていく。ユキはそれを抱えこむと、舞台の真ん中を目指して駆け出した。 「みんな集まって何の話をしているんだい。もしかして、僕の話とか?」  台詞に合わせ、唇の端を上げ、目を細めて笑う。左右に顔を動かせば、見慣れた後輩たちの顔。毎日のように練習を重ね、見てきた顔だが、やっぱり本番の舞台の上となると、いい意味で全く違った顔をしている。  ああ、こんなにもしっかりと瞳の光って見えるんだな。笑顔一つでも、異なる感情を表現することってできるんだな。こうして今、お客さんに演技を披露している最中でも、手に取るようにみんなの成長が伝わってくる。  幕が上がり、観客の前に出て数分。裏で待っていたときに抱いていた緊張は、どこかに消え去っていった。その代わりに演技をすることへの高揚、演技の交わりへの興奮は高まっていく。やっぱり、演技は楽しい。  そんなことを感じながら、演技は進んでいく。主人公はみんなと楽しく暮らしていた。だが、一人の仲間の裏切りをきっかけに、主人公の当たり前の日常はボロボロと崩れ落ちていく。 「僕は……、たとえ一人になろうと、人を信じていたいんだ」  短い、主人公の心の吐露。この舞台の中で、主人公が弱気になっている場面だ。  ユキは自分の足先に視線を落としながら、彷徨うみたく舞台内を歩き回る。塞ぎこんだように顔を下げるも、観客には表情が見えるように気をつけて。そうして、ぽろぽろと台詞を言っていると、観客席の一つに目が留まった。カナが、いた。  前から三番目、真ん中。カナも、ボクの視線に気付いたようだ。二人で決めた合図であるかのように、カナが小さく頷く。 「人を信じるのって大変だね」  ボクは、カナのこと……  主人公と、自分が重なる。ユキは少し離れたところに立つ、仲間の一人に弱く微笑む。そして、舞台の端に適当に見えるよう置かれた箱に腰を下ろすと、太ももに肘を置いて項垂れる。  この場面の主人公の心情は、今のユキの心情にぴったりと合わさる。相手を大切だと思うからこそ信じたい。なのに、自分はそれに耐えられるほどの心を持っていなくて。でも、いつかはこんな迷いから抜け出さないといけない。  主人公も、ボクも、答えを出さなければならない。 「こんなに迷うのに、どうしたって好きなんだ」  頭を上げ、へらっと仲間に笑いかける。落ちこんだとしても、自分が信じるものを強く思う。主人公は明るく、前向きなのが取り柄なのだ。そして、どんな悪人であろうと人の中にある善を信じつづける。  ボクも、ちゃんと向き合おう。ユキは主人公の背中を押し、主人公はユキの背中を押す。ユキは箱から立ち上がる。そのとき、ちらりとカナを見ると、わからないほど小さく頷いた。  舞台は、終わりに向かって進んでいく。  一度は落ちこんだ主人公も立ち直り、自分の元を離れていった仲間に向き合う。どうして、彼らの気持ちに寄り添うことができなかったのか。今までの自分の行動は正しかったのか。そんなことを考えていく内に、彼らだけではなく、自分自身を見つめることになる。  そうして、もう一度手を取り合う。離れ、対立したからこそ見えたものがある。それとともに培ってきた友情を大切に、仲間と明るい道を目指して歩いていく。 「――ともに生きていきたい」  この劇、最後の台詞が放たれた。  その瞬間、堰を切ったように拍手が沸き起こった。一、二、三。ユキは心の中で数えながら、顔を動かさずに目だけで観客席の様子を窺う。笑う人、タオルで目を押さえる人。キラキラと宝石のように輝く瞳のいくつもを、ユキが独占している。  一人の観客でしかなかったときのユキと同じ瞳をしている。ボクは、憧れたあの人に近づけたのだろうか。最前席に座るその一つの瞳と目が合えば、一気に感動がユキを飲みこんでいく。 「みんな、並ぶぞ」  舞台の裏から聞こえてきた加川の声。それに感動の海から顔を出せば、舞台の縁まで足を進める。カーテンコールは演者だけではなく、裏方も含めて演劇部全員が表に出て並ぶのだ。 「東、挨拶」  そんな声がどこからか言われる。ユキはお腹に力を入れると、大きく口を開いた。 「ありがとうございました」  長くもあり、一瞬にも思えるような時間だった。  ユキは今まで三年間の感謝全てを込めて、頭を下げる。部員と強く握った手、ユキの声につづく部員全員の感謝の言葉。応えるように大きくなった拍手の波は止まることを知らない。  勢いよく頭を上げる。そうすると、左から右へと視線を動かせば、カナのいるところで止まる。カナは誰よりも強く手を打ちつけ、まっすぐユキだけを見つめている。  あと少しだ、頑張ろう。さらに決意を固めると、ぱちりと瞬きを一回する。 「みんな、撤収作業するぞ」  みんな、元気よく返事をする。衣装を脱ぐために舞台から下がる者、小道具の片付けを始める者。一瞬にして雑踏とした舞台上に一人、ユキは足を止めたまま観客席に向き合っていた。  演劇部の動きに合わせて、体育館を出ていく人たち。未だにその場に座るカナに、ユキは小さく手を招いた。これから、もう一勝負待っている。 「お疲れさまでした」  全員で頭を下げ、最後の挨拶をする。  舞台を下りると、衣装を脱ぎ、急いで舞台で使った道具たちを運び出していった。ユキも急いで体育館に向かえば、いつの間にか部員の輪の中にカナがいて。遠目だったが、笑って感想を言っているみたいだった。  そして全てが終われば、部室に演劇部全員が集まって、一つの大きな円をつくるのだ。一旦の区切りとして、ここで部長の役目も変わる。その前、カナは輪から離れようとした。それをユキは引き留め、隣に置いた。部員でなくとも、カナは十分というほど手伝っていた。  顔を上げれば、みんなやりきった笑み。顔を見合わせ、各々感謝の言葉を口にしながら散らばっていく。この後、みんなは文化祭を楽しんでいくようだ。 「――カナ」  後輩たちに感謝の言葉を伝え、伝えられ。瞳を潤ませながら言われると、こちらも胸に来るものがあった。一人ひとり、一言を大切にしながら対応していく。そうして、少なくなっていく背中を確認すると、横に立つカナへ身体ごと向いた。 「このあと、予定あるか?」 「いや、先輩の舞台観たら帰ろうと思ってて」 「それじゃあ、……」  身体の前に組んだ手に視線を落とし、もう一度カナを見上げる。舞台に上がる前とは、全く種類の違う緊張。忙しい気分につられて目がうろうろと動いてしまう。 「話があって、だから、……」  短く途切れ、小さくなってしまう声。無言で待っていてくれるカナ。ユキは指先を見つめながら自分を奮い立たせると、思い切ってカナの手を取る。 「一緒に帰ろう」  カナの瞳を逃さぬようにと、しっかり視線を合わせる。その瞬間、左右に触れる黒目。どうして、そんな泣きそうなんだ。それに不安を覚えながらも、ユキは自分から手を引き、カナをつれて部室を出ていく。  階段を降り、外を出ていく。そこには、昼過ぎだとしても劣ることを知らない文化祭のにぎわいがある。  ユキは恐れることなく、人の間隙を縫うように歩いていく。手をつないだ男二人。それも手を引かれているのはカナだ。いつもだったら、スポットライトが当たったように目立つだろう。だが、今は人混みが容易に二人を隠してくれる。  ユキは前だけを見ていた。でも、意識はカナの手のひらの柔らかさに向いていた。自分で避けてしまって、こんなに触れるのは久しぶりだ。噛みしめるように指を絡めると、大切に重ね合わせる。  美術部が造ったアーチを抜け、帰り道を足早に進んでいく。何を話そうか。でも、これから告げる言葉に合う、戯れのような言葉が出てこない。そのせいか、二人の間は無言で。今になって、いつもエレベーターで静かになるカナの気持ちがわかった気がする。  言おうと決めると、その言葉以外が頭の中から勝手に排除される。心臓の大きな動きが思考に刻まれる。カナの手を求める気持ちにも素直になることができる。  自宅のマンションのすぐ前にある信号機が赤に変わる。止まる足、横に並ぶ肩。ユキはおそるおそるカナを見上げてみた。  大丈夫だろうか。振り返ってみれば、言葉足らずにここまで連れてきてしまった。カナを見ると同時に顔を現し出す不安。今更になって揺らぎかける思いに、つながる手に縋ってしまう。  顔を上げた先。そこには、今のユキの思いを払拭する優しい笑みがあった。 「実は、俺も話があります」 「そ、そうだったのか……」 「だけど、先輩の話から先に聞いてもいいですか?」  笑みと同じ、撫でるような声色。この声で話されると、どうしても律していた自分が溶かされてしまう。ユキと結ぶ手と違う手が伸びてきた、と思えば、カナの両手で包まれる。  普段だったら、これで完全に安らぐ。不自然にユキを覆っていたプライドや頑固さを消し去り、寂しがりのユキに戻してしまうのだ。でも、今はこのあとのことが待っているからダメだ。この後、自分がしなければならないことを考えると、再び緊張が全身を固めていく。 「い、家で、いいか?」 「はい、わかりました」  カナが頷く。さらりとカナの肌を掠める前髪に光が当たり、きらり輝く。  信号が青に変わった。ユキはおずおずと手を引くと、身体を前に向き直す。今は、あとに待っていることを完遂することで精一杯だ。ユキは伝えたい言葉を胸に抱きながら、一歩ずつ、舞台となる自宅へ自ら近づいていく。  エントランスを通り、エレベーターで上がっていく。どちらも話そうとはせず、ちょっと不自然な空気だ。カナはいつも、どんな気持ちでいたのだろう。ユキは階数を知らせる電光掲示板を見つめながら、カナから貰った「好き」の数を数えた。  開いたドアを滑るように出ると、廊下を進んでいく。何回も、それこそ飽きるほど聞いているはずなのに、響く二つの足音はやけに大きく思える。ユキは素早く玄関を開けると、リビングまで足を速める。  夕日に照らされ、オレンジに染まった床。ユキは一度俯くと、深呼吸を繰り返す。落ち着け、落ち着け。そう自分に言い聞かせながら最後に深く吐き出すと、カナの手を一旦離し、カナの正面に向き合う。 「あのさ、……」  口から出てきたのは、思ったよりも小さな自分の声。油断すると震えてしまいそうで、頑張って唇に力を入れる。  こんなにも、勇気がいることなのか。今から言おうとしている言葉はとっても短い。それこそ、さっきの舞台での台詞の数々に比べたら、一瞬で終わってしまう。なのに、上手く告げる自信はどの台詞よりもない。  ユキは改めて、心の中でカナに感謝をする。そして、制服のズボンを握りしめる。 「カナのこと、好きなんだ」  好きで、好きで、大好きで――  でも、この膨大な気持ちを伝える言葉が見つからない。今も、心音とともに痛む胸を抑え、震える唇を噛みしめるので精一杯。苦し紛れにできることといえば、この気持ちが伝われ、とカナの瞳を強く見つめるだけ。  無音の中、返答を待とうと固唾を呑む。その瞬間、ユキはカナの腕の中にいた。 「俺も、先輩のことが好きです。大好きです」  耳元で囁かれるのは、欲していた言葉。その声に、身体を縛っていた緊張は一気に緩む。  背中に回ったカナの両腕はユキを囲い、強く、微かな痛みを伴いながら抱きしめる。乞うて与えられたものとは異なるその痛みは、言葉以上に気持ちを伝える。それに倣うよう、ユキも強く抱きしめる。 「今日から恋人で、本当のパートナーです」  温かい腕の中、初めてボクらは心までつながった。  もう、我慢しなくていいんだ。今まで抑えてきた反動だろうか、ユキは告白によって解き放たれた思いのままにカナに抱きついた。  自分の気持ちを認め、告白をする。そうすると、無性にカナから離れたくなかった。一度、ユキから離れようとするカナの後を追う。ユキはカナをソファに座らせると、命令されたわけではないのに乗り上げた。  太ももに腰を下ろし、胸と胸とを重ね合わせる。それだけでは物足りなくて首筋に鼻先を当てると、すんすんと香りを探す。直接触れる肌は柔らかい。微かにする、柑橘系の香りが鼻孔をくすぐった。  たまに、ユキは甘えるように肩に頬を置く。ゴツゴツと硬い、カナの身体。それを余すことなく堪能しようとすれば、カナとの関係が変わった実感が湧いてくる。思わず、込み上げる嬉しさが笑い声となって出てきてしまう。  ずっと、このままでいたいな。夢うつつに似た思考の中、カナの背骨をゆっくりとなぞる。 「先輩っ!」  呼ばれたと思えば、両肩を掴まれ、身体を離される。突然、目の前に現れるカナの顔。その表情はなんだか、切羽詰まっているように見える。 「どうかしたか?」  ぼんやりとカナの表情を見ていれば、背中に回していた腕を取られ、立たされる。固く、つながる手。ユキは手の引かれるままに足を動かした。ユキの行き先は、どうやらベッドのようだ。  ベッドの前で、カナがくるっと振り返る。ここで、何かするのだろうか。暗い部屋に、とりあえず電気でも点けようか、とスイッチに手を伸ばす。でも、触れる直前、というところで人差し指は届かなかった。 「先に謝っておきます」  次の瞬間、ユキはベッドの上に横になっていた。  ギシっと軋む音、足の方が沈みこむ。天井しか見えなかった景色に、カナが映りこんできた。カーテンの隙間から射す、小さな光。その薄明りに照らされたカナの顔は、初めて見る顔をしていた。  謝るって今から何をする気? 熱情に溶かされてしまいそうな瞳に見つめられながらも、戸惑いを深めていく。ユキは必死にカナの言葉の意味を考えてみるも、見当は全くつかない。 「本当に嫌だったら、セーフワード言ってください」  耳元に近づくカナの顔。囁かれる言葉に合わせて耳朶を掠めるように唇が動く。  そのたび、ぞくっと背筋に走る感触。その衝動に、ユキはとっさに目を閉じ、瞼に力を入れた。すると、その行動を待っていたかのようにユキの唇に柔らかいものが重なる。 「……っ、カ、ナ」  柔らかいものは唇の上に滞在し、ユキの呼吸を封じる。一秒、二秒。徐々に迫りくる息苦しさに目を開けてみれば、すぐそばにカナの顔があって。動いたと思えば、啄むように上唇を甘く噛まれる。  思ってもなかった口づけ。ユキは苦しさを紛らわせようと浅く口を開く。そして、蔦のようにカナの腕に手のひらを這わせると、自分に覆い被さる肩を抱き寄せた。 「はっ、……はむっ、あ、……」  息が苦しいのに、もっとほしい。なのに、口付けの仕方はわからなくて、ユキは求めるままに唇を突き出す。カナの唇は離れてはくっつき、下唇を歯で小さく引っ張られた。 「っ、これで、おわ、りか?」  離れがたいと言っているかのように下唇に軽く歯が立てられると、ゆっくりとカナの唇が離れていく。ユキはその隙間を狙って荒れた息を整えると、カナに尋ねる。  滲み、揺れる景色の中。濡れた真っ赤な唇が釘付けになった。あの、唇に触れていたのか。その事実にまた求めるように口が開く。そうすれば、カナの唇が弧を描いた。 「まだですよ。今からセックスします」 「セッ、クス……」  楽しそうに言われるのは、聞き馴染みのない単語。ユキはその驚きに、聞いたままに復唱してしまう。  二人とベッド以外、音を発するものがない静かな部屋。そこに自分の声によって放たれた、言ったことのない単語が響き、羞恥心を刺激する。なのに、ユキの瞳はカナを見上げていて。その先にある瞳には、命令するときに顔を出す欲がある。 「先輩も、“脱いで”」  シャツを脱ぎながら言い放たれる命令。  初めて見るカナの上半身は、腕よりもうっすら白い。服の上から触れても引き締まっていることはわかっていたが、お腹には筋肉の線が綺麗に入っている。ユキは誘われるかのように、その身体に見惚れていた。  この身体を、ボクは触れていたのか。肌の上をなぞるように何度も往復させる。触ってみた。そんな思いに手を伸ばしかけては、命令の内容を思い出す。  ユキはとっさにシャツの胸元を掴むと、弱く首を横に振った。命令には応えたい。今だって、手のひらに当たるボタンの硬さに触発されて解こうとする。でも、今までとは圧倒的に異なる命令に、どうしても拒んでしまう。 「恥ずかしいですか?」  前へと倒されてくるカナの上半身。そして囁かれる、少し揶揄したような声色。一音いちおん発せられるたびに耳朶にかかる息に、ユキは大袈裟にビクッと肩を跳ねさせてしまう。小さな息でさえ、今のユキの身体にとっては強烈な刺激となる。 「だって……」 「もう、しょうがないなあ」  溢れる涙が瞳の表面を覆っていく。自分を困らせるのはカナなのに、その現状での助けを求めるのはカナしかない。潤む膜越しに見えたカナの顔は、少し口元が緩んでいるのがわかった。  これで、許されるだろうか。ユキは依然としてシャツを握りながら、不明瞭な中でカナの様子を窺う。そうすれば、カナの顔が離れていき、陽の光に照らされる。と思えば、カチャカチャ、とベルトが外されていく。 「えっ、なんで」 「だって、自分で脱げないなら、脱がすしかないじゃないですか」  そう、当たり前のようにカナが言う。  ユキはされている行為に唖然としていれば、下半身を覆い隠していたズボンとパンツをするりと脱がされる。そっとシャツを握る手が取られ、身体の横へ。そして皺のできたシャツを一撫ですると、上から順にゆっくりとボタンが外されていく。  自分を包んでいた布がなくなっていく。なのに、内からどんどんと肌が熱を帯びていく。それはまるで、カナの瞳に灯る熱が移ったようだ。ボタンが全部外され、左右に開かれる。 「っくふ、くすぐったい」 「綺麗ですね」  カナの眼前に晒される肌の上。カナの人差し指が滑るようにツー、と胸からへそにかけて直線を描いていく。綺麗と称した声は、ねっとりと溶かすように思考に入りこんでいく。  ユキは指の進みとともに与えられるくすぐったさに身を捩らせ、肌色が少しでも隠そうと身を縮めようと四肢を動かす。 「“ダメ、ちゃんと見せて”」  その命令に、戯れ程度にしか動かせなかった四肢を止める。カナの腕や足に挟まれ、ほとんど抵抗空しく終わった裸の身体。ユキは従ったまま、じっとカナの次の動きを待つ。 「えっ、あ、……」  途端、ぐいっと膝裏を掴まれ、曲げられる。そして、両膝は左右に開かれた。  今、カナのそばにあるのは他人にはあまり見せることのない場所。それが好きな人の手によって晒されている。その事実に固まっていれば、ユキの足の間にカナの身体が入りこむ。 「あ、あし、広げるな」  せめて言えるのは、そんな短い言葉だけ。ユキはなんとか目の前の光景から目を逸らそうとする。なのに、ユキの中の恥ずかしさが増すにつれて強くなっていくカナの瞳の熱に釘付けになる。 「可愛いですね」 「か、かわいく、なんかない」 「どんな先輩も好きですよ」  仰向けに横になるユキと、その間に座るカナ。必然と見下げる形になった目で見られると、内側で渦巻く快楽がまだかまだかと疼く。 「カナ、カナ」  今にも爆発してしまいそうな快楽。それを抱えきることはできなくて、ユキは縋る思いで名前を呼ぶ。何かに頼ろうと両手を伸ばせば、覆いかぶさるようにカナが近づいてきた。 「もっと呼んでください」  ちゅっ、と鳴らされる水音。軽く唇が重なり離れれば、にやっとカナが笑う。 「なっ、なにを、するの」 「一回、硬くしておきましょうか」  カナの手が動いた、と思えば、その手が小さく縮んでいる性器を包まれた。  一つの目的に向けて上下する手。そんなこと、他人にされたことなんてもちろんだがなくて。ただただ自分のモノを掴む手の軌道を追っていけば、どこがどんどんと熱を持ち、硬くなっていく。 「っふ、そこ、ダメっ、」  伸ばした手が辿り着いたカナの二の腕を掴み、上りつめようとする情欲を散らそうと左右に頭を振る。  他人に触れられたことなんてないそこは、すぐに最大になってしまう。とはいえ、カナの手に隠れるほどの大きさしかなくて。カナの手に踊らされるままでいれば、揃っていた指から離れた親指が先っぽを弄り始める。 「もっ、……もうダメ、おね、がい」  今まで事務的にしか処理してこなかった性器は、皮膚の表面を撫でるような触れ合いでさえも弱い。それも命令のときとはまた種類の異なる物理的な気持ちよさ。もう、溺れてしまいそうだ。  ユキに止めてもらおうと、無意識に指先に力を入れる。なのに、尿道の入り口を擦る親指の腹を速くなるだけ。それに押されるように、情けない声を出してしまう。 「……っくふ、はあ、ふんぐっ……」 「かわいい、もっと気持ちよくなってください」  ちゅっ、と額、頬、唇の順にカナの唇が落とされていく。その柔らかさを甘受しながら身体を竦めれば、自然と視線が絡み合う。  艶めかしい行為に反した穏やかな笑み。いつの日か、このベッドの上で命令後の微睡みの延長で昼寝をしたときに見た顔だ。その表情に少し、入っていた力が抜ける。すると、トンっ、とお尻の穴のある部分を指で叩かれる。 「知ってますか? 男同士はここ、使うんですよ」  にこやかに笑いながら、カナはその場所を主張するように数回叩く。 「そっ、そんなとこ」  戸惑いの声を上げる。そうすれば、それを制するように唇を重ねられる。  啄むように唇同士をくっつけ、呼吸をしようと開けた小さな隙間から舌が入りこむ。ユキも慣れないながらも味わうような動きに合わせて舌を絡めてみれば、交わる口の中からくちゅっと唾液が跳ねる水音が響く。  すっかりと息が荒れた頃、ゆっくりとカナの顔が離れていく。鼻先でキスするような距離。前髪が垂れたカナの顔は甘く、ほのかに頬を赤くしている。 「全部、俺に委ねてください」  どちらのものかわからない唾液で濡れた唇に熱い吐息がかかる。ユキは逆上せたみたく体温の上がったカナの身体を弄るように二の腕から背中へ手のひらを這わせる。それだけで、この肉欲に溺れているのが自分だけではないと確認できた。  性器から手が離れていく。それをいいことに、言葉に従っておそるおそる両足をカナの腰に回してみれば、下腹部同士がくっつく。ズボン越しでもわかる、硬く膨れ上がったカナの性器。それに後押しされるように背中の筋をなぞると、自分から唇を突き出し、口付けをする。 「カナ、だから、大丈夫」  速くなりつづける心臓の動きを抑えながらも言葉を紡ぎ、いつもみたくカナの首筋に顔を埋める。微かに香る汗の匂い。ユキはマーキングするように何度も鼻先を擦りつける。  ついさっきまで、未知の連続に恐怖が勝っていた。だが、カナの肌と触れ合うたびに胸の辺りが温かくなっていく。これが、愛おしいということなのだろうか。そうすると、はしたないと思いながらも、自らカナを求めてしまう。 「先輩……、それはさすがに狡い、というか……」  うぅ、と小さな唸り声。項垂れるようにカナの唇が肩口に当たる。 「ああ、もう……好きです」 「ふふっ、ボクも好き」  ユキの身体とベッドの間に腕が入り、抱き寄せられる。少しでもカナが動けば、首に毛先が掠め、たまに唇が肌に吸いつく。くすぐったく、カナの言葉の意味はわからない。でも、ちゅっ、と音が鳴るたびに好きと言われているみたいで嬉しい。  そういえば。 「あのさ、お尻でなにするの?」 「ああ」  短い声が上がり、カナの顔が離れていく。  背中とベッドの間から腕が抜け、カナの上半身が遠ざかっていく。途端、冷めていく肌の表面。それがやけに寒くて、外れる両手でシーツを掴む。それでも質問の答えを待ち、カナの動きを眺めていれば、カナの指がお尻の間に入りこんでいった。  そして、穴の入り口の皺を撫でられる。 「ここを広げて、俺のモノを入れるんですよ」  ゴリッと硬いモノが擦りつけられる。布の柔らかい感触の奥にあるカナの性器。それが何を示しているのか、理解すると同時にさっと頬の熱が高まる。 「い、痛くないよね?」 「痛くならないように善処します」  そう言って、頭を撫でられる。当てられるモノに反した優しい手つき。それに徐々に力を抜いていけば、カナがズボンを脱いでいく。自分の性器越しに見るカナのモノは、パンツに覆われていても大きさを主張している。  どこから出してきたのだろうか。カナの手には小さな正方形。それがピリッと破かれると、濡れた袋のようなものを指につけた。 「まず一本、入れますね」  ぬるっと濡れた、と感じれば、くにくにっと穴の入り口が揉まれる。 「先輩、“力抜いて”ね」 「はふっ、ひゃい」  命令に従おうと、一生懸命浅い呼吸を繰り返す。ユキが息を吐くたび、指の腹が中に入ろうと入り口を押す。触れられる部分に集中しながらも、四肢はだらりと力をなくしてベッドの上に置かれていく。  シーツの上を足の裏が泳ぐ。胡坐をかいたカナの足の上に両足を乗せ、上下に浮き沈みする胸の動きが穏やかになる。そのとき、ぬるりと穴に細い指が入ってきた。 「っふく、はぁ、んんっ」  普段は体内から外へ出すために使われる器官だ。だから、カナの侵入を阻もうと肉が勝手に締めつける。粘膜を押す、骨張った指の硬さが生々しい。ユキはシーツから手を離し、握った拳を口元に置くと、下半身に目線をやった。  カナの身体分、開かれた足。その間にはお尻に向かってカナの腕が伸びていて、自分の身体でその先が見えなくなっているが、体内で動く指の感触が全てを物語っている。 「んつ、くっは……」 「痛くないですか?」 「だ、大丈夫だ、けど……なんか、ヘンな、かんじ」  カナの指が内を探るように奥へと進んでいく。その動きは痛みのような強い衝撃はなく、ただただ変な感じとしか言えないのだ。 「はむっ、ううん、んくっ」  ユキは口から漏れる声を手の甲で隠し、小さく身を捩らせる。  指が内壁を押すたび、腰が跳ねてはカナにさらりと腰骨を撫でられる。ゆっくりと中が広げられ、思い出したかのように鎖骨や胸の飾りに唇が落とされる。断続的にもたらされる小さな快楽たちは、ユキの思考に靄をかけていく。 「ひゃあぅ、そこっ、カナ、そこ」 「三本、入りました」  さらに大きく広げられ、お腹側の壁をぐっと押される。その瞬間、悲鳴に似た短く高い声とともに強烈な快楽が全身を駆け巡った。  身体は勝手に逃そうと腰が浮き、背中が弧を描く。自分ではもう、制御できない。なのに、カナは少しでも発散させることを許さないと言わんばかりに覆い被さると、ベッドに縫いつけられる。そして唇を盗まれ、上も下も内から乱されてしまえば、自分が自分でなくなっていく。 「先輩、もう我慢できないです」  ちゅっ、と名残惜しそうに吸いつかれ、唇が離れていく。見えたのは、切羽詰まったカナの顔。ユキは息を吐き出そうとすれば、それを見越していたように内にある指がまた、快楽を生み出す部分を撫でつける。 「ふっ、く……はあ、ひゃあ」 「お願いです。ねえ、もう無理かも」  太ももに擦りつけられる熱は、今にも皮膚を溶かしてしまいそうなほど熱い。  耳元で訴えるカナの声はあまりに甘くて、鼓膜を震わせるだけで微力な電流となってユキを冒していく。まるで全神経が裸になっているみたいだ。ユキはもう、体内を侵していく指とともに押し出される声を出すので精一杯になっていた。  ああ、ボクを求めてくれている。嬉しい、ボクも欲しいな。  朦朧とする中、思いに従うままにカナの背中に手を回して抱きしめる。ポカポカと、興奮によって高められた熱とはまた違った熱が胸の内で高まっていく。しっとりと濡れた肌は、カナも高揚していると教えてくれる。  ユキは息を荒くしたまま、求めるようにカナの唇を舐める。 「いい、よ」  味を確かめるようにぺろっと表面に舌を這わせ、微かに口角を上げる。 「ユキ先輩、好きです。大好きです」  出したままだった舌を吸われ、唇が合わさる。呼吸ごと奪われるような食いつき。ユキは追いつこうと舌を動かす。歯列をなぞられ、唾液を混ぜられ。透明の糸がぷつんと二人の間で切れる。 「痛かったら、すぐに言ってくださいね」  熱情を抑えようと、眉間に皺を寄せる苦しげな顔。ユキはこくっと一度、縦に頷く。  カナの上半身が起き上がり、離れていく背中を撫でながら手を落としていく。もっと触っていたいけれど、カナの身体には届かなくて。持て余した腕で胸を隠すように自分の身体を抱きしめる。  目の前で素早くパンツが取り払われる。現れる、カナの性器。今日の触れ合いだけで、その大きさは十分というほど感じた。でも、生でお腹につきそうなほど勃起したそれを前にすると、思わず注視してしまう。 「そんなに見られると、さすがに恥ずかしいです」 「あっ、ああ、ごめん」  言われて気づいた、恥ずかしい自分の行い。ユキはすぐさま目を逸らすと、自分の肩を掴む手に力を込めた。  他人の性器をまじまじと見つめてしまった。あれが、今から自分の中に入ってくるんだ。そう思うと、全身の熱が何度か上がり、今さっきまで弄られていた後ろの穴がきゅっと締まった。  きゅっ、きゅっと勝手に小刻みに締まる自分の後肛。そこから発せられる甘美な痺れに、ユキは目を瞑った。  すると、ピリッとさっきも聞いた音がしてきた。ユキはちらりと瞼を開ける。そうすれば、カナの性器にさっき指につけられていた袋が被さっていて。濡れ、光に照らされるそのいやらしさに、カナの目を見つめてしまう。 「じゃあ、入れますね」  自分の意思とは関係なく締まる穴の、ゴリッと性器の先端が押し当てられる。 「う、ん……っふく、うぅ」 「くっ、先輩、もうちょっと緩めて」  じわりじわりと太いモノが穴を広げながら自分を侵していく。硬いそれに、確かな異物感がある。でも、カナのだと思うと内壁が形を覚えようと吸いついてしまう。その締まりが辛いようだ。顔の横に肘をついたカナが、身体を解かそうと唇を交わらせる。  じっくり、ユキの肉に馴染ませるように性器が奥に進んでいく。迫りくる息苦しさ、募っていく好きの気持ち。ユキは浅く呼吸を繰り返しながら、カナの身体を強く抱きしめる。  好き、大好き。あったかい、もっと触りたい。辛いけど、ずっとこのままでもいいかも。 「全部、入りました」  唇が離れていく。ユキは近くにあったカナの首に口を押し当てれば、耳元でそんなことを告げられる。  あれが、全部入った? 言われた事実を意識すると、反射的にカナの形を確かめるように穴全体で性器を包みこんだ。カナが、ボクの中にいる。それを後押しするように下腹部に柔らかな毛が触れ、腰骨が太ももの裏に当たる。  そうか、そうなのか。認めるほどに気持ちが膨らみ、溢れてしまいそうだ。ユキはそんな気持ちを留めるようにカナの身体に四肢を絡ませ、引き寄せる。肌の重なりが増す、それだけで身体とともに心が満たされていく。  でももっと、もっと欲しいな。ユキは求めるままに唇を開く。 「カナ、抱きしめて」  カナと一つになれるように願いを込めながら締めつけ、全身でくっつく。ユキは早くはやくと鼻先を擦りつけ、歯を少しだけ立てた。そうすると、カナの手が背中に回り、腕の中に囲まれる。  かかるカナの体重と、縛りつける微かな痛みと、小さく動く内の硬さと。別のところでもたらされる快楽が重なり合って、気持ちよさが高まっていく。 「ずっと、そばにいて」  気付けば、そんなことを言っていた。瞬きと同時に零れる涙は、睫毛を伝ってカナの肌へと流れ落ちていく。 「先輩こそ、俺から離れたらダメですからね」  命令系ではない。悲しくなるほど優しい約束だ。  でも、カナの腕は言葉に似つかわしくないほど強く抱きしめる。そこから発する痛みは、ここに愛があると教えてくれる。何よりももう、ユキにとってカナは離せないほど大切な存在になっている。 「お前も、よそ見したら許さないから」  離れないように、離されないように。ユキは痛いほど、カナを抱きしめる。
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