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スポットライトが照らす光の輪。そこが、ボクの居場所だ。
舞台の真ん中に立つ。東有希人は瞼を閉じると、深く息を吸いこむ。同時に、身体の内側へと意識を沈ませていけば、自分の心臓の動きが大きくなっていくのを感じる。
あとは、役になるだけ。ここからは、ボクの時間だ。
ユキは瞼を開け、空気を吐き出す。そして一歩、前へと踏み出した。
「さあ、別れのときが来ましたよ」
その台詞とともに、己の足元に跪く男に目をやる。
この男と別れる場面。この役にとって、男と離れることは自分の身が引き裂かれるのと同等の、いやそれ以上の痛み、苦しみを伴う。だが、男と別れなければならない。これは男のための、男の幸福のための決別なのだ。
「い、いやだ。俺はお前と共にいたい」
「どんなときでも、私は貴方のことを思っていますよ」
言葉を紡ぐ男の唇は、微かに震えている。私を見上げる男の瞳には、うっすらと涙の膜が張られていて、瞬き一つで涙が溢れてしまいそうだ。そんな風に思いながら縋るように自分の手を握りしめる男の両手を優しく外すと、微笑みを浮かべた顔を正面に向けた。
男一人から舞台の前へ、景色が広がっていく。
放物線を描きながら飛んできたボールが、迎える手に収まる。前後左右、不規則な動き。それに合わせた急な停止に、床と靴の底が擦れ合い、キュッと高い音が鳴った。
舞台の前に張られたネットの向こうでは、二面を使ってバレーボール部とバトミントン部が練習している。演技が始まる少し前、この景色を頭の片隅に置き、忘れていた。だが、この景色を目に入れた瞬間、体育館全体の熱気が肌を伝わっていく。
ユキは前を見据えると、お腹の真ん中辺りにぐっと力を入れる。
「さあ、私たちの華麗なる別れの時です」
腹の底から出した声は波紋のように広がり、端から順に消えていく。人の動きが止まった。舞台の下で見学する部員たちの喉仏が上下する。静けさの中、向こうのグランドで吹かれた陸上部の笛の音に、ユキは密かに胸を膨らませた。
パチン、手が叩かれる。
「今日はここで終わりにしよう」
ユキは、音がした方へ顔を向ける。顧問の山崎先生が舞台の下で手を合わせて立っている。
終了の合図とともに、身体中の力が抜けていく。頭の先の感覚は鈍くなっていき、すでに指先は氷水につけたように冷たい。膝から崩れ落ちそうだ。そう他人事のように思いながらも僅かに残った力を振り絞り、必死に踏ん張る。
視界に白い靄がかかる。それを払うみたく瞬きを繰り返すと、誰にも気づかれぬようにと無理やり背筋を伸ばした。すると、パラパラと拍手の音が聞こえてくる。ゆっくりと辺りを見渡せば、さっきまで練習していた目がこちらを向いていた。
よかった。自分に集まる注目の分だけ、地を這っていた気分が高揚していく。向けられた瞳の数だけ、締めつけるような苦しみが占める胸の内から安堵が湧いてきた。
深く、ゆっくりと呼吸を整える。部長のかけ声に合わせ、「ありがとうございました」と礼をするも、その頭はやけに重い。なんとか上げ、前を向く。見上げた先の窓から覗く空は、いつの間にか赤くなっていた。
あとは部室に戻って、制服に着替え、家に帰るだけだ。窓の外を眺めながら、これからのことを考えていくと、張りつめていた意識が少しずつ緩んでいく。
後輩に、名前を呼ばれた。その声に引っ張られるように、ユキは体育館から去ろうとする部員の背中を追いかける。
ユキはふらつく足元を見つめつつ、階段に足を下ろそうとした。爪先が着く、そのとき。いきなり上半身が傾いた。あっ、とワンテンポ遅く驚けば、突然、前のめりになった身体が後ろへ引き寄せられる。
「あっ、ぶなかったですね」
焦った声色、お腹に置かれる骨張った指。捲られた裾から出た腕を飾る黄色のガラス玉のブレスレットには見覚えがある。
「……また、来てるのか」
「先輩のいるところに俺はいますよ」
小さく振り向けば、やはりと言うべきか、樋口叶人が立っている。こいつは同級生でもなければ、演劇部の部員でもないのにも関わらず、気づけばユキのそばにいる。
浮かべられた胡散臭い笑顔。どさくさに紛れて、ちゃっかりとユキを抱きしめている。
いや、まあ、支えてもくれているのだけれど……。どこからか聞こえてくる黄色い声。この状況、部員は助けてくれないようだ。最初の頃は慌てていたはずなのに、今はちらりと視線をやるだけだ。
ユキは頭一つ分、大きなカナの身体に背中を預ける。決して強い力ではないのに、しっかりと支える腕。それに身を任せていけば、全身を襲っていた怠さが徐々に良くなっていくのを感じた。
それが、ユキはなんだか悔しかった。
思いっきり、カナを睨みつける。これをしたところで、カナに通じないことは重々承知だ。それでも、この苛立ちをぶつけたい。カナは依然として目を細め、頬を緩めている。
「抱っこしましょうか?」
「いいって、いつも言ってるだろ」
カナのおかげか、回復してきたことをいいことに、囲う腕の中で身を捩る。そうすれば、簡単にカナの体温は離れていく。こういうとき、引くんだよな。後ろ髪が引かれるのを感じたが、すぐに気のせいと捨て去った。
体勢を直し、足の裏をきちんとつける。そうしてカナに向き合えば、カナは両腕を広げ、首を傾げている。背後では練習が再開されたのか、ボールを叩く音や指示する声が聞こえ始めた。
絡まる視線。解くのはユキか、それともカナか。
「東も樋口も、早く行くぞ」
飛んできたのは、部長の加川の声。
すぐさまカナから顔を逸らせば、出入り口の近くで演劇部のみんながクスクスと笑っている。それを見た瞬間、さっと頬に熱が灯った。ユキはとっさにカナの腕を軽く叩くと、体調を悪くしていたことを忘れて、部員の元へと駆けていく。
「待ってくださいよ、先輩」
跳ねるような楽しげな声が近づいてくる。ユキは部員の輪の中に辿り着くと、身を隠そうと足を進めた。その瞬間、消えかかっていたはずの重荷が再びのしかかってくる。ぐらり、上半身が揺らいだ。そうすれば、カナが隣に立っていた。
「まだふらついているんですから、無理しないでください」
耳に唇が寄せられ、ユキだけに聞こえる声で注意される。諭すような、穏やかな声色。言葉とともに伸ばされる手は、そっと支えるように背中に回される。
部員たちの一番前にいる先生が声をかけ、みんな揃って部室に向かっていく。ユキもついていこうとすれば、後ろに置かれたカナの手が上着を摘まんだ。それに足を止められ、必然的に輪の最後尾へ。添えられた手が、微かに支える。
「辛くなったら、いつでも言ってくださいね」
カナは軽く凭れさせながら、ゆったりとユキの背中を押す。それでいて、決してユキの不調を周りに気づかせないようにと配慮する。こういうところ、狡い。
そうして、北校舎の端にある部室に着く直前。カナはユキの背中に置いていた手を離すと、代わりに重なるように自分の身体を添わせる。いつ、ユキが倒れても受け止められるようにしているのだ。
そんな思いに気づきながらも言葉は出てこない。カナから与えられる優しさはいつも胸の辺りをむず痒くさせ、唇をぴったりとくっつけてしまう。
そのくすぐったさに耐えられず、カナから目を逸らすと、ユキは部室の隣にある準備室の扉を開いた。すでにユキ以外の部員は着替え始めている。
ユキは自分の使っているロッカーの前に行くと、ジャージから制服へと着替えていく。シャツに腕を通し、ズボンに足を入れる。襟にネクタイを通し、結んでいく。三年目にもなると、考えずとも身体が動く。
狭い準備室の中、カナは少し離れたところで立って待っている。
「俺が結びましょうか?」
「お前はボクを何歳だと思ってるんだよ。ネクタイくらい一人でできる」
茶化すようなカナの言葉を跳ね除け、ジャケットを羽織る。脱いだジャージを畳み、鞄の中へとしまっていく。あとは、荷物を持って帰るだけだ。
肩に入っていた力が消えていく。すると、横からひょいっと鞄が浮いた。ユキはのっそりと、自分から離れていく鞄が描く放物線を辿っていく。そうすれば、やはりと言うべきなのか、カナが鞄を持って立っている。
カナは、やけにユキの面倒を見たがる。ユキが何かしようとするたびに、「~しましょうか」とか「俺がやります」とか言って、横から手を伸ばしてくる。挙句の果てには、ユキがやろうとしていることを先に先にとやってしまうのだ。
頼りないかもしれないが、一応カナより年上なのに……。もしかして、カナには幼児にでも見えているのだろうか。
「お前ら、仲良くなったな」
隣のロッカーを使う相川が、カナに話しかける。二つの鞄を持つカナは、それにふわりと爽やかな笑みを浮かべてみせる。そして、ユキを一瞥すると、くるりと相川のいる方向へ身体を向けた。
自分から気が逸れている内に、とカナが持つ鞄に手を伸ばす。けれど、肝心の鞄はしっかりと腕に守られ、触れさせる気すらない。着替え終わった部員たちは、ゆったりと雑談している。
「カナが勝手についてくるだけだ」
その一言に湧き起こる部員の笑い声を無視し、カナの名を呼ぶ。
カナの顔がユキを向く。それをいいことに「鞄を返せ」と言えば、カナは整った面を溶かすだけ。鞄とは反対の手が上がった。と思えば、さっき手櫛で直したばかりの髪をくしゃくしゃと乱し、撫でられる。
蜂蜜みたく、とろりと甘い瞳。カナの、他人と自分との対応の差を最近、わかり始めた。
「先輩の恋人になれるよう、交渉中なんです」
ニコニコ、と効果音がつきそうなほどスッキリとした笑みが向けられる。ユキは細目になりながら、カナの顔を見つめる。
この笑顔、少女漫画とかなら、カナの周りは花が舞っているんだろうな。そんなことを思いながら、未だに頭の上に乗ったままのカナの手を払うと、乱された前髪を軽く直した。
部員みんな、そんな二人の様子を生温かい目で見ている。
「というか、馴染みすぎじゃないか」
纏わりつく空気を一掃した、つもりだった。なのに、部員から注がれる視線は何一つ変わらない。
「なんかもう、準部員みたいなものだろ」
加川のその一言に、部員内に笑いが起こる。部長がそんな適当でいいのか。ユキは軽い怒りを込め、加川を睨みつける。すると、横からやって来たカナの手が、ユキの両目を覆い隠した。
大きな手は、片方だけでユキの二つの目を塞ぐ。カナの手のひらは、ほんのりと冷たい。
「俺のワガママでいさせてもらっているんです」
いつもありがとうございます、とカナがみんなに言う。にぎやかな空気に誘われたのか、女の子の話し声がだんだんと近づいてくる。遠くでは、先生の「早く帰れ」の声が飛んでいる。
この状況、ユキが一人、置いてきぼりだ。
何とも言えぬ焦燥感。ノックが三回聞こえ、部員が誰かに応える。そして、扉が開かれた。
女の子がカナの名前を呼ぶ。この声は副部長だ。その後ろでは、普段より幾分か高く発せられる声たちがはしゃいでいる。それがユキの鼓膜を震わせるたび、胸の奥で何かが急き立ててきた。
カナの手を無理やりはがす。瞳に入ってきた夕日の赤に瞬きを繰り返すと、カナに構うことなく乱暴に足を運ばせる。華やかな女の子の笑い声が、今だけは気に障った。ユキは準備室へ入っていく女の子の横を通り過ぎると、廊下に出たところで足を止めた。
「行くぞ、カナ」
後ろを振り返る。夕日を背景に立つカナは、やけに眩しい。ユキはまともにその姿を見ることなく強引にカナを呼び寄せれば、答えを待つことなく下駄箱へと歩き出した。
「はい! ユキ先輩」
弾んだカナの声、近づいてくる足音。ユキはほんの少し、進める速度を緩める。
名前を呼べば、必ずユキの元にやってくる。カナの中で、ユキが最優先なのだ。忠犬のようなその姿に、その反応にかわいい、なんて思ってしまうときがあって。でもそれは、きっとなんかの気の迷いで。
そんなことを思っていると、視界の端にカナの靴先が映る。それを確認すると、一歩大きく足を前に出した。
カナと肩を並べ、ユキの家につづく道を歩いていく。
一回、下駄箱に着いたところで離れると、スリッパから靴に履き替える。昇降口を出たところで待っていれば、二年生の下駄箱からカナが駆けてくる。素直にカナの隣に立つと、いつもと同じく身を縮めた。
下駄箱から校門までの道のり。カナの隣にいると、四方から視線を浴びるのだ。でも、ユキは舞台の上以外では目立ちたくない。そんなこともあり、カナを壁にして隠れると、足早に外を目指していく。
ユキは知らなかったが、どうやらカナは人気者らしい。
カナに出会ってから、まだ数ヵ月しか経っていない。なのに、カナの隣にいると、同級生であろう人たちから話しかけられる姿を何度も見かけた。今だって、校門に着くまでの短い距離で、部活終わりの数人から声をかけられている。
話が終わったようだ。そうすると、壁になっているカナが心配そうに見てくる。けれど、ユキはその顔が嫌だった。だから、ユキはその顔から逃れるように顔を伏せて息を潜めると、校門へと一人、向かっていく。
一歩いっぽ、校門から離れていくにつれて、カナに集まる視線が少なくなっていく。ユキは息を吐き出すと、全身に入った緊張を抜く。曲げていた背筋を伸ばすと、夕日に照らされ伸びた二つの影を眺めた。
「先輩、今日の演技も素敵でした」
「ああ、うん、ありがとう」
「もっと先輩の演技、観てたいです」
ちらり、話すカナの横顔を盗み見る。カナは、丸い瞳いっぱいに好きを表している。
やっぱり犬みたいだ。ゴールデンレトリバーを彷彿とさせる体格、従順な慕い方は慣れないながらに嬉しい。でも、そのまっすぐすぎる思いは自分には不似合いすぎて、居心地悪さを感じてしまう。
ユキはすぐに目線を外すと、交互に前に出る足先に落とす。
学校から自宅までの数十分、カナはいつも楽しそうに話す。ユキの演技の感想、ユキが貸した本の内容。ユキに関わることばかり。きっと、ユキが一切返答をしなかったとしても、カナは気にすることなく笑っていそうだから不思議だ。
そして、ユキが少しでも反応を見せれば、その途端にカナは口を噤み、一心にユキを見つめながら相槌を打つ。いや、前見ろよ。そう何度も注意するのに、何故かカナは障害物を器用に避けて歩いてみせる。
「いつも言ってるけど、まっすぐ家に帰れよ」
「先輩が家に入るまで、ちゃんと見守らないと」
やっぱり、カナの瞳を通してみると、ボクは幼児にでもなっているみたいだ。
実際のところ、ユキの家とは真反対のところにカナの家がある。カナが帰り道についてくるようになった頃、気になって住所を聞いてみれば、遠さに怒ったほどだ。なのに、カナはそれを笑って聞き流し、ユキの隣にいつづける。
いつもはユキを第一に考えているくせに、だ。
とはいえ、カナは絶対にユキを否定しない。それだけでユキは楽で、息がしやすい。こんなのはダメだ、なんて思いながらも、ずるずるとカナの好意に甘えてしまう。
ユキは自分に悶々としつつ、青に変わった信号を渡り、右に曲がる。マンションのエントランスを抜け、エレベーターに乗れば、途端にカナは口を閉ざす。
しばしの静寂。カナはこの数分、絶対に話さない。二人でいるときの、この静けさにはもう慣れた。でも、この数分はいつも、胸の辺りがムズムズとして落ち着かない。
ユキは階数を知らす電光掲示板を眺めながら、ひっそりとカナを見る。同性からしても整った造形をしているカナの横顔。笑顔が取り去らわれた今は、どこか冷めた印象を与える。
こいつ、どうしてボクなんかの隣にいるんだろう。カナと出会ってからというもの、抱きつづける疑問を無言でぶつけてみる。そうすれば、カナはふわりと花が咲いたように笑う。
チン、と到着を告げる電子音。カナが先に出ると、ユキはその背中についていく。
オレンジに染まるカナの背中。廊下には、ボクら二人しかいない。二つの異なる足音が響き、消えてゆくのを聞いていると、表札のない扉の前でカナの足が止まった。
「はい、到着」
振り返るカナの顔に影がかかる。差し出される鞄を受け取れば、ユキは気まずさを隠すように中にある鍵を探る。指先に当たる、冷たい金属。すぐに見つけたそれを握りしめれば、静かにカナの顔を見上げた。
このとき、カナは少しだけ眉尻を下げると、空いた片手をユキの頬に置く。
「好きです、先輩」
そっと、短い唇の動きをなぞる。迷い犬のような瞳を知らないフリする術を、ユキは持っていない。
「……そんなの、今だけだ」
「そう思ってもらって構いません。俺がただ、伝えたいだけなんです」
定型文みたいなやりとり。この扉の前で、何度もカナに好きと言われた。そして、ユキはいつも断る。カナは好きというとき、少し苦しそうに、泣くのを我慢しているみたいに笑う。
尊敬、熱情、友情。どんな好きであろうと言われると嬉しい。そう思うのに、その言葉をどこか信じられない自分がいる。
決して、カナを信じていないわけではない。これはきっと、誰に言われても信じられない。ボクはただ、自分に向けられる好意の存在を信じることができないのだ。
自分なんかが、誰かに好きと思ってもらえるわけがない。うっかり期待なんかしてしまって、裏切られたくない。そんな弱い心が、カナの告白を強く拒む。
でも、このままの先輩後輩の関係なら、ボクは傷つかないで済む。結局、ボクがどこまでも醜いだけなのだ。
こんなボクだけど、お願いだから嫌いにならないで。一方的に拒んでいるくせに、そんなことは思ってしまう。ユキは頬を包んだカナの手のひらに顔を預ける。そうすれば、ぶわっと熱が湧き起こった。
「じゃ、じゃあな。早く帰れよ」
「はい、先輩。また明日」
慌ててカナの手から顔を離す。急いで鍵を開けると、部屋の中へ身を滑り入れる。
これも、告白後のお決まり。ユキはおそるおそる扉を小さく開け、外へ顔を覗かせる。そこでカナを探せば、すぐに目が合って。カナは一段と笑顔を咲かせて、ユキに手を振るのだ。
ユキも小さく手を振り返す。しばらくして去るカナの背中に、ゆっくりと扉を閉めた。
「どうして、あいつは……」
鍵を閉め、くるりと反転して扉に背を預ける。ずるずるとしゃがみこみ、お尻が地面についたところで膝に顔を埋めた。瞼を閉じれば、カナの笑顔がいくつも浮かんでくる。
どくどく、胸の内で打ちつける心臓の動きが激しい。まとまらない考え、ぐらり揺れる感情。二極に分かれる思いの間を行ったり来たりを繰り返す。
ユキは思いっきり足を抱えると、ぐりぐりと額にこすりつけた。
こうなったきっかけは、今年の四月まで遡る。
葉桜となり、温かくなってきた頃。ユキは登校してくると、昇降口で真新しい制服を身につけ、緊張した面持ちで歩く一年生とすれ違った。二年前の自分もあんな風だったのだろうか。そう思うと、懐かしい気持ちがよみがえってきた。
二週間の春休みが明け、ユキは高校三年生になった。
とはいえ、二年生のときに理系・文系とクラス分けがされていて、三年生はクラス替えがない。それに春休みの間も、部活や演習と学校には来ていたから、まだ二年生の気分が抜けない。
階段を上り、新しい教室に入っていく。見渡せば、いつもと変わらない顔ぶれ。近づいてきた演劇部の部員に挨拶し、昨日の練習について話す。名簿番号で決められた席につけば、また去年と同じような一年が始まるのか、と思った。
変わることといえば、授業の内容と窓から見える景色くらいか。始業式を終え、授業が開始されれば、平日のリズムへと戻っていく。
高校三年生となれば、必然と進路を見据えた授業になる。大学進学者がほとんどのこのクラスの授業は応用問題が多く、眠気と思考の戦いになっている。
そんなことを考えていると、数学の授業が終わった。チャイムが鳴り、昼休みに入ると同時に、座ったままだらりと項垂れる人が続出していく。
みんなのつむじを眺めつつ、登校途中にあるコンビニで買ったおにぎりを机上に置いた。すると、ユキの周りに演劇部の部員がどんどんと集まる。みんな、さっきの数学の論述問題で盛り上がっている。そんな中、ユキはいつも通り、その隅で黙々と食す。やっぱり、ツナマヨはおいしい。
「東くん、呼ばれてるよ」
話が数学から、次の物理の話題になったとき。
ユキは一つ目のおにぎりを食べ終え、お茶で喉を潤したところだった。そんなところを突然、クラスメイトの女の子に話しかけられる。初めて話しかけられた。そのことに驚きながらも女の子が指差す方を見遣れば、見知らぬ男が立っていた。
「あ、ありがとう」
女の子に声をかけ、おにぎりのゴミを掴むと、ゴミ箱経由で男の元へと歩いていく。
自分が誰かに呼ばれることがあるのなら、それが演劇部関連だ。後輩とはあまり話したことがないが、顔は覚えている。でも、あの男は見たことがない。
一体、何の用事なのだろう。そう疑問に思いつつも、キョロキョロと落ち着かない様子で頬をほのかに赤らめる男を前に、ユキは首を傾げる。
「と、とりあえず、端に行きますか」
今、扉の前で相対しているが、昼休みで出入り口の多いここにいると邪魔になる。何より、背中に感じる視線が痛い。そんなこともあり、どちらかといえば、その注目から逃れようと男をつれて校舎の端に移動した。
廊下には、幸いにもユキと男だけしかいない。そばにいると男の気持ちが移ってきたのか、ユキも無駄に視線を左右に泳がせてしまう。
「俺、樋口叶人って言います。二年です」
「は、はあ」
男と向き合うと、突如始まった自己紹介。ガヤガヤと騒がしい教室とは正反対の、静かな廊下に樋口叶人の声が響く。今にも迫ってきそうな勢いに、ユキは戸惑いから曖昧な返事しか出てこなかった。
ユキを一心に見つめる瞳。それに耐えられずに顔を逸らせば、テニスコートで遊ぶ人たちを見つけた。
「東先輩、好きです。付き合ってください」
すると、思ってもみなかった言葉が、男の口から飛び出す。
ユキは思わず、男の顔を凝視した。そうすれば、熱情が灯った男の視線がユキに絡みつき、釘付けにさせられる。ぶつけられる感情。ユキはそれから離れようと一歩、後退する。男が一歩、距離を縮める。
「……ごめん、なさい」
男の勢いに小さく逆らい、返事をする。その瞬間、男の頭にへたりと折れた犬の耳が見えた気がした。
「君のこと、知らないし、それにボク、恋愛とか興味ないから」
気まずさに顔を俯かせ、言葉を重ねる。自分の足先のすぐそばに男の足がある。
他人がこんなに近くにいるなんて、同い年の部員と話すときか演技中くらい。できることなら、今すぐにでもここから去ってしまいたい。でも、それは不誠実で。だから、身体の奥に感じるくすぐったさに身悶えながらも、必死に踏みとどまる。
そろそろ、帰ってもいいだろうか。思い切って顔を上げてみれば、男はなぜか満面の笑みを浮かべている。
「わかりました! 俺、頑張ります」
爽やかな初夏のように言う男。タイミングがいいのか悪いのか、男が言い終わると同時にチャイムが鳴った。
「それでは先輩、放課後にまた会いましょう」
そう言い、男が軽やかな足取りで去っていく。まるで、突風のようだった。
ユキは呆然と、消えていく男の背中の行き先を見つめた。物理の先生の声をかけられて我に返ったが、自分に訪れる急展開についていけず、それあと受けた午後の授業はまともに覚えていない。
でも、これは新たな一年の幕開けにすぎなかった。
樋口叶人は言葉通り、放課後になると本当にやってきた。
ユキは演劇部の部室で練習していた。後輩とのエチュード。その合間に水分補給をしていると、ふと顧問の山崎先生に目が行った。そうすれば、仲良さげに山崎先生と話す昼間の男。ユキは目を丸くして驚けば、それに気づいた男が笑顔で手を振ってきた。
どうやら、男は人懐っこい性格のようだ。あれよあれよという間に、演劇部の中に溶けこんでいった。
「ユキ先輩って呼んでもいいですか?」
帰り道、男は当たり前のように隣にいる。断る者の、あの手この手で誤魔化され、気づけばこの日から一緒に帰る習慣が始まっていた。
その道中、呼び方を聞かれたから、別に何でもいいと答えた。そうすると、男は「カナって呼んでください」と言う。横から注がれるのは、期待の視線だ。それをわかっているのに応えるのは癪で、名字で呼んでみれば、あからさまに不満げな表情をしていた。
溜息一回、渋々、カナと呼んでみる。
やっぱり、口に馴染まないな。首を傾げつつ、この一回限りだな、と隣をちらりと見た。そうすれば、男はパッと嬉しそうに笑って見せるものだから、そこからなんだかんだカナと呼んでいる。
それから数日後。
「ユキ先輩、弁当作ってきました」
昼休憩になると、二つの弁当を持ったカナが教室に入ってきた。ユキは唖然としたが、演劇部のみんなはすぐに受け入れ、楽しそうに話している。
ユキは置いてきぼり。差し出されるままにカナが作ったという弁当を食べ、朝買ってきたおにぎりはその日の晩ご飯になった。
「ユキ先輩、好きです」
カナは一日に一回、必ずユキにそう言う。
ユキは、一種の儀式のようなものと割り切っている。なのに、それを聞くたびに揺すぶられ、鎖骨の辺りに弱い痛みが走る。それも、数を重ねるごとに強くなっていく。カナの顔を見ないと、なんだかしっくりこなくなってきている。
甘えているとわかっている。でも、カナの言葉を聞くと、どうしても安心してしまう。
「東、来てるぞ」
演劇部の誰かに言われたとき、指の先にいるのはカナだ。
クラスメイトもカナが二週間通ったところで、カナの顔を覚えたらしい。カナが来ると教えられるし、演劇部のみんなは特に積極的に話しかけている。カナの性格もあってか、好意的に受け入れられているようだ。
「お前ら、犬とその飼い主みたいだよな」
ある日、部員の一人に言われたことがある。
そのとき、カナはポテトを買いに食堂に行っていて、その場にはいなかった。ユキはそれを聞いたとき、確かにカナは犬みたいだし、言うこと聞くからな、と流れるように関係性を認めかけた自分がいた。
なのに、それを拒む自分がいて、ぐるぐると堂々巡りしてしまう。
ボクらにつけられる関係の名前は何というのだろう。わからないままでいたくて、でも、わかっていないといけない気がして。考えれば考えるほど、答えが存在するのかもわからなくなっていく。
だから、今だけは――
「……わからないままでいたいな」
うやむやな状態がいいときもあると、ユキは初めて知った。
ユキは砂のついたお尻を払うと、靴を脱いでリビングへと向かっていく。カナと別れた後は、いつも足が重い。引き摺るように足を運ばせ、リビングへつづく扉を開けば、ソファに勢いよく腰を下ろした。
ユキしかいない部屋を照らすのは、沈みかけた太陽の光のみ。だが、カーテンは閉め切っているから、眠る前の暗がりに近い。
ジャケットを脱ぎ捨て、ソファの上で膝を抱える。膝の裏に腕を入れ、上半身へ引き寄せると、できる限り身体を縮める。
誰か――苦しい、助けて、寂しい。
悲鳴を上げる心を潰すみたく、胸に太ももを押しつける。目を閉じなくても真っ暗な世界は、自分一人だけなのだと強調される。カナと一緒にいると、一人でいられなくなるからダメだ。
大きく息を吐き出し、少し止める。訪れる微かな苦しみは、不安定な今の自分を支えてくれる気がした。そうして、膝に口を当てると呼吸を再開する。
そのとき、机の上に置いたスマホの画面が明るくなった。突然の眩しい光。なんだと目を寄越せば、表示されているのはカナの名前。
〈夜、電話しますね!〉
どうして、ボクなんかを好きになったんだよ。
顔を出すワガママをカナにぶつけてしまう。そんな自分が嫌になってスマホから目を逸らせば、瞼を閉じると同時に涙が零れ流れていった。
誰にも見られていないから。今くらい、泣いていたい。
こういうとき、一人暮らしは楽だな。
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