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2018.08 TEXT 低い声で喋る
■2018.08 低い声で喋る
雑文を更新するのは八年ぶりになる。八年前、私は自分のサイトで文章を吐き出さなくても生きていけるようになったのだと思った。書くことがなくなったのはいいことだと。
一年前からふたたび小説を書き始め、自分には小説ならばぼちぼち書くことがあるらしいと悟った。
あいかわらず書きたいことを書けるように書いているだけだが、雑文のネタが落ちてきたので「INTERPLAY TEXT」に続きを書くことにした。
ハリウッドの女優はなぜ自分の急所をさらけ出すような服を着て、晴れやかにレッドカーペットの上を歩くのだろうか。男性の急所が衆目に晒されることはないのに。
女が若く、弱く、細く、美しいことが称揚される社会。自分では努力できないものに人生を左右される理不尽さに、それらの条件に当てはまらない女は呻吟する。
社会の規範通りに生まれついた女にとっても、それらはすべて歳とともに失われていく資質である。ゆえに、女はいつまでも若く、弱く、細く、美しくあらねばならないという強迫観念が植えつけられる。男の成熟の理想型はあるというのに、なぜ女の成熟の理想型はないのか。女はつねに未成熟であらねばならないのか。
トロフィーワイフという言葉がある。社会的に成功した男性の、若くて美しい、そしてそれを維持するために膨大な金をかける妻のことだ。金持ちが連れて歩くプードルのような存在。彼女たちは社交界へ適応する順応性を持ち合わせていればいいだけで、トロフィーワイフの中身などはさして問題にはされない。
男と女がお題目だけで平等である社会に私たちは生きている。内実は男はA であり、女はA'である。
A はA' であるが、A'はA ではない。
生まれつき背負わされている運命に対する恨みを、心理学用語で未生怨という。女は生まれつきA'であるという運命を背負わされている。A を補完する存在。A よりも優れていてはならない存在。
家父長制とは、生まれてくる子供に自分を侮蔑するよう育てるシステムのことだと、上野千鶴子は言った。
仕事や趣味に人生を賭けている女にとって、出産と育児はハンディキャップになる。子供を産み育てることが尊い仕事であるならば、どうして男が育児をしないのか。
恋愛にも権力構造がある。ヘテロセクシュアル(異性愛)の恋愛にも、社会の権力構造がべったりと貼り付いている。実質的には男女平等ではない社会のなかで、「愛情」によって対等な関係になることをロマンティック・ラブ・イデオロギーという。しかし、男にはそんなものはお題目でしかなかったのではないだろうか。
ホモセクシュアルの恋愛にも、社会の男女の権力構造が反映されている。女役、ネコ、受け身の人間はヘテロセクシュアルの女の役割を踏襲する。
この社会で女であるということは自分のエゴや欲望を殺すことだ。お題目だけの男女平等の裏で、陰湿に男性が優れているという工作が繰り返し行われている。
愛情とは、愛情を持つ者とその他を区切る境界線でもある。が、女はなぜ他人から承認されなければ自分が存在していいという確証を持てないのか。
ある男性が語った女性に対する言説が、私が猫を語るときの言説にそっくりだった。その男性は女を対等なものと見ていないのだ。女をただ愛玩するだけの対象としてしか見ていない。そのことに私は寒々しさを覚えた。
歳を取った男性が若い女性に恋をする。若い女性の内面に恋をし、女性を対等な存在として扱うのであればいいが、大抵の場合はそうではない。若い女性から愛される自分という自己愛の補強でしかない。
彼女は男のように「家」を離れ、男のように「出発」したいのである。それはとりもなおさず女である自分に対する自己嫌悪にほかならない。私は前に、時子にとって「母」になることは老年に変貌することを意味した、といった。つまり彼女にとって「母」であり、「女」であることは嫌悪の対象である。
(中略)
これが、「近代」が日本の女性に植えつけた一番奥深い感情だといえば、問題は一般化されすぎるかも知れない。ある意味では女であることを嫌悪する感情は、あらゆる近代産業社会に生きる女性に普遍的な感情だともいえる。(成熟と喪失 江藤淳 講談社文芸文庫 P64)
江藤淳がこの文章を書いたのは昭和四十二年である。
社会は江藤淳がこの文章を書いた当時からほとんど変わっていないのではないだろうか。
しかし社会はあるていど成熟して、市井の人が言葉を語るようになった。ふつうの女たちが言葉を紡ぐようになった。弱者の文学。そのひとつがボーイズラブである。
ボーイズラブは男である受けが「恋愛」によって攻めの男性と対等になり、攻めを支配する。強姦も虐待として行われるのではなく、攻めの男性の愛情のオーバーフローの結果として行われる。
ボーイズラブでは、強姦や性的な暴力は受けの尊厳を失わせるための行為ではない。だから腐女子は安心して、ボーイズラブの各種の性的アトラクションに浸ることができる。
しかしそれらは「ファンタジー」であることを腐女子たちは諒解している。ヘテロセクシュアルのロマンティック・ラブ・イデオロギーは、男同士の「ファンタジー」でしか実現できないことを、腐女子はどこかで知っているのではないだろうか。
自分がA' であるという現実から抜け出して、ボーイズラブという「恋愛」によって男と対等になる・あるいは男の上位に立つ。それによってA' であるという呪われた宿命から解放され、つかの間の美しい「恋愛」の夢を見る。そして、あらゆる「恋愛」のバリエーションを模索し、男同士の架空の関係性の実験場で遊戯に耽る。
あらかじめ存在しない「恋愛」への嗜癖。それがボーイズラブである。
「恋愛」の欺瞞に満ちあふれた社会において、現実の「恋愛」に嗜癖することと、架空の「恋愛」に嗜癖することのどちらが異常だろう。
架空の「恋愛」で現実との折り合いをつける腐女子を嗤いたい人には嗤わせておけばいいのだ。
この社会で女であることを肯定できる人は、肯定すればいいし、否定したい人は否定すればいい。自分の規範は自分で決める。人から与えられる他律的な規範ではなく。
私は低い声で喋る。女という属性を消し、愛玩の対象ではないというひとつの信号として。
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