孤独の果て

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 前から気になっていた町中華に入り、半チャーハンとラーメンを注文した。  チャーハンは水っぽく、かつ塩気が強すぎるし、ラーメンはなんだかケミカル風味だった。  この店を選んだのは失敗だったのだが、面白い話も聞けたので、結果としてよかったとも思える。  ことのきっかけは、口に広がる塩味とケミカル味を水でごまかしきれず、ビールを注文した時だった。  瓶ビールをこれほど美味いと感じたことはなかった。身近なものに美味を感じたいのなら、不味いものを食べてからいつも食べてるものを口にしてみるといい。それだけで案外と幸せなものだから。  昼間から酒を飲んで、少し気分があがったからかもしれない。僕は、厨房でぼーっとテレビを観ている店主に、声をかけた。 「店をやるようになって、どれくらいになるんですか?」  店主は、少し間を置いて、僕を見た。自分に話しかけられていると気付かなかったらしい。 「まだ半年くらいです」 「そうなんですか? でも、ずいぶん前から店はありましたよね?」 「店のこと、ご存じなんですか?」 「いや、学生時代からずっとここに住んでいるんで、存在は知っていたという程度です」  店主は、そうですか。と笑う。良い笑顔だなと感じた。 「実は、この店、私の店のお客さんがやってた店なんですよ」 「店?」 「ええ。私、北口の方でバーをやってるんです。本業はそっちでして」  僕らが利用する駅には、北口と南口がある。生活の基盤となる店やらは大体が南口に集まっていて、北口にはバスターミナルくらいしかない。僕はバスを利用していないので、長く住んでいるにも関わらず、北口のことはほとんど知らなかった。 「夫婦でずーっと店をやってたんですよ。それこそ、休みなんてとらずに。けど、この店にはいつも笑顔が満ちてました。奥さんがね、よく笑う人だったんです。店主さんは少し恥ずかしがり屋だけど、お客さんと楽しそうに笑う奥さんを見て、いつも嬉しそうにしてました」  店主(現店主と言うべきだろうか。まあ、どちらでもいいだろう。今はこの人がここの店主なのだから)はテレビを消し、僕の方を見る。  いや、おそらく、かつての店の賑わいを、幻視しているのだろう。目を細め、どこか泣き出しそうな顔で、店を見渡す。 「奥さんがね、亡くなったんです」  沈黙。続きを話す気なのか、それとも、ここで終わりなのか。  僕は残っていたチャーハンを口に放り込む。何故だか、あまり塩味を感じなかった。 「それから、店主さん、ひどく落ち込んでしまいましてね。いつも暗い顔をしてて。なんとか励まそうとするんですけど、駄目でね。日に日に、痩せて、衰えていくようで」 「じゃあ、その後に……」  亡くなったのですか。と訊こうとしたが、言葉が詰まった。詰まった言葉が喉にこびりついたように思えて、僕はビールを飲む。 「いえ。ただ、どんどん、遠くへ行ってしまっていて」 「遠く?」 「はい。なんといえばいいのか。心が、どこかに彷徨い出て行ってしまっているようで。北口のベンチで、ずっとバスを見てるんです。時々、行先を確認したりしてね。どこかへ行きたがっているようで」  僕は、男の姿を頭に思い描く。道を行き交うバスをじっと見つめている男。何をするでもない。ただ、バスを見ているだけの男。 「それからしばらくして、私の店に、よく来るようになったんです」 「話をしに?」 「毎晩同じ時間に来て、同じ席に座り、同じ酒を一杯頼み、同じ時間に帰る。それだけです。ただただ同じことを毎晩繰り返す。儀式みたいに」 「何か、意味があったんでしょうか」 「どうなんでしょう。こちらから話しかけても、少し微笑むだけでした。注文した酒を、じっと見つめてるんです。長い時間をかけて酒を見つめて、それから一気に飲み干すんですよ。そうすることで、つっかえを飲み干せる。そんな風に思っていたのかもしれません」  先ほどの自分のことを思い出す。出かかった言葉を飲み込んで、喉につっかえた感覚。僕のそれは些細なもので、ビールで簡単に流し込めたけれど、とても大きくて、張り裂けてしまうほどの感情を抱え込んでいるのだとして、それは果たして酒で飲み込めてしまえるものなんだろうか。 「そんなのが、しばらく続いた日でした。いつもと同じ時間、同じ席、同じ酒。いつも通りの夜でした。けど、いつも帰る時間になっても、席を立たないんです。気になって、話しかけてみました。そしたら……」 「そしたら?」 「私に訊くんです。果てってどこにあるんだろうって」 「果て? 世界のとか、そういうことですか?」 「わかりません。なんて返せばいいのかわからなくて、私はただ、わからないと答えるしかなかったんです。そうしたら、彼は静かに席を立ち、帰っていきました。酒を飲まずに。彼が姿を消したのは、次の日でした」 「失踪した、ということですか?」 「ええ。なんだか、あの時私が問いに何かしらの答えを返せていたら、こんなことにはならなかったんじゃないかって考えてしまって。だから、せめてこの店は守っておこうと思って、昼間はここに立ってます。いつか、帰ってくるかもしれないから」 「どこへ行ったんでしょう」 「探しに行ったのかもしれません」 「果てを?」 「はい。孤独って、人を飲み込むと思うんですよ。悲しいとか辛いとか、そういう感情が積もりすぎると心の動きなんかが全部止まってしまって、ただただ無になっていく。本物の孤独って、そういうもので、あの人は、そんな孤独を抱え込んでしまったのかもしれません」  店主は、店の入り口の引き戸を見た。何かに期待するように。  けれど、その引き戸は開くことがなかった。 「長話聞かせてすいません。味も悪かったでしょう? 中華はどうにも苦手で。これじゃあ店を潰してしまうと思うんで、練習してるんですよ」  会計の時、店主はそう言った。優しい人なのだろうなと思う。  店を出て、駅へ向かい、北口の方へ出る。  缶コーヒーを買って、ぼんやりとバスターミナルを眺めてみる。  もしかしたら、果てを探していた男は、ここからバスに乗って、どこかへ向かったのかもしれない。  終点へたどり着いたら、また違うバスを探して、違う場所へ向かう。  ひたすらにバスを乗り継いでいく。果てを探し求めて。  僕は行き交うバスを見つめながら、缶コーヒーを時間をかけて飲み干し、その場を去った。
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