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◇◇◇
リリアンヌの葬儀の日は彼女が死んだ日とうってかわって、青空が広がっていた。
街外れの小高い丘にある墓地に黒服をまとい、棺を見下ろしている人々の中に、虚ろな瞳で立ち尽くす青年がいた。
「それでは最後のお別れを」
葬儀を取り仕切る祭司にそう告げられ、ますます泣き出す者、崩れ落ちる者、嘆きを深める者――皆種々に悲しみの色を見せているのに、その青年――アレンは立ち尽くしたままだった。ガラス玉のようになんの感情も宿さない瞳で棺の中に横たわるリリアンヌを見つめている。
白百合に埋もれて眠る彼女は、今にも目を覚ましそうだった。まるで少し休息を取っているかのように。それほどまでに安らかな顔をしていた。
でも彼女の綺麗な瞳が、アレンを見つめることはない。微笑みかけることも、アレンに話しかけることも、もはや永遠になかった。アレンはわずかに唇を噛みしめる。
リリアンヌの命が人のそれより儚いことはわかっていた。病弱でずっと病室から出たことのない彼女に、アレンは何度も何度も絵を描いた。外の世界を伝えるために。彼女が直接見ることのかなわない、あらゆる世界を。
いつしかリリアンヌへの気持ちを自覚し、大人になるにつれて疎遠になってしまった。美しく儚く成長していく彼女を見て、どうにも自分と釣り合っているか、そればかりが気になってしまって。でも。
(こんなことになるのなら)
照れ隠しに多忙を理由にして会いに行くのを避けなければよかった、そして一度でも伝えておけばよかった。愛している、いつか僕のお嫁さんになってほしい――けれどももう彼女に告げることはかなわない。
臆病者の自分に、神は慈悲を与えなかった。
無情にも棺の蓋が閉められ、穴へと下ろされる。ざっざっと土をかける音にさえ、アレンは何も感じなかった。ただ彼女が二度と手の届かないところへ行ってしまった事実に、涙がひとしずく頬を伝った。
――リリィはそんなアレンを近くの木陰から見ていた。あんな様子のアレンがかえって痛ましくて放っておくことなどできなかったのだ。
(……アレン)
リリィがどうにもこらえきれずに――自分に何もできないと知っていてそれでも――一歩踏み出そうとしたそのとき。
不意に一陣の風が吹き抜けた。
リリィの目前で草木がいっせいにそよぐ。思わず目を閉じた一瞬に、目の前から墓地も、黒い服をまとった人々もいなくなっていて、ただただ青々とした草原が広がっていた。小さな野生の花々が咲き乱れ、そよ風が草花を優しく揺らす。
リリィはぱちぱちと瞳を瞬かせた。確かに自分はリリアンヌの葬儀を見ていたはずなのに、いったい何が起きたのだろう。
(ここはどこなのでしょう……)
戸惑いながらもリリィが視線を巡らせると、向こうから人影が歩いてくるのが見えた。
それは、まだあどけなさを残すアレンと、今よりもまだ少し健康そうなリリアンヌだった。
リリィは驚いた。どうしてふたりがここにいるのだろう。アレンはともかくリリアンヌは死んだはずだ。それなのに、なぜ彼女は棺から出てアレンと歩いているのだろう。ともあれ、ふたりには相変わらずリリィは見えていないようだった。
リリアンヌは一斉にそよぐ草花を見て、ちょっと首を傾げてアレンを振り返る。
「アレン、ここがそうなのですか?」
「うん。君に見せたかったんだよ」
ほら、見て――そうアレンが指さす先には、美しい街並みがあった。どうやらこの草原が小高い丘になっているらしく、街を一望できるようだった。
リリアンヌはその景色に軽く目を瞠って、次いで嬉しそうに微笑んだ。
「綺麗……」
風が優しくそよぎ、リリアンヌの髪とスカートを揺らした。
アレンは手に持っていたバスケットからブランケットを取り出して草むらに敷いた。そこへリリアンヌと座って、他愛ないことを話し始める。
どこまでも雲ひとつない青空のもと、暖かな日だまりに、アレンとリリアンヌの笑顔が咲く。お弁当を食べ、ぼーっとし、リリアンヌの楽しそうな表情をとどめるようにスケッチをし、やがてあまりの心地よさにうたた寝をし始めた彼女にアレンは緊張しながら肩を貸し、そしてその寝顔をとどめるようにこっそりスケッチする――時はそんなふうにして、ゆるやかに穏やかに流れていった。
(ああ、これは……)
リリィは目をすがめた。きっとこれは在りし日の二人だと、リリィにはわかった。アレンの記憶がリリィに流れ込んできているのだろう。幸せそうなふたりを見て、リリィは胸がしめつけられた。
こんなにも幸せそうな時が確かにあったのに、もう二度と戻れない。――もう、二度と。
やがて太陽が傾き始める。アレンは眠っているリリアンヌをそっと揺り起こした。
「リリィ、帰ろう。寒くなる前に帰らないと、君の体に障るから……」
「う、ん……」
リリアンヌが眠そうに目をこすりながら体を起こし、そして寝顔を見られていたことに恥じらうような表情を浮かべた。それにアレンは苦笑する。
「いつの間にか眠って……。アレン、ありがとうございます」
「気にしないで。さあ」
アレンがリリアンヌに手を差し伸べる。リリアンヌはその手にそっと自分の手を重ねた。
たったそれだけのこと、他愛もない時間なのに、今のふたりにはどんな時間よりも忘れがたく、かけがえのない瞬間だったことがリリィには伝わってきた。
リリアンヌはアレンの手を借りて立ち上がると、もう一度街並みを見下ろした。
「アレン、ここへ連れてきてくれてありがとうございます。私はずっと貴方の絵でしか、外の世界を知らなかったし、それでいいと思っていたけれど……」
アレンを振り返ったリリアンヌの、はにかむような笑顔が夕陽に美しく照らし出される。
「今日ここへ来ることができてよかったと思いました。また、一緒に行きたいです。貴方が絵にして見せてくれた場所、これから絵に描いてみたい場所、貴方の行くところ全部」
図々しいお願いですか? とためらいがちに問いかけるリリアンヌに、アレンは首をぶんぶんと横に振った。「嬉しい、ありがとう」くらいは言われると思っていても、これは予想外だった。頬が自然と赤く染まる。
どぎまぎしながらも、アレンはその手をリリアンヌに差し出した。
「……君が行きたいところなら、どこへでも連れて行くよ。だから一緒に行こう。これからも」
アレンがそう笑いかければ、リリアンヌも花が咲くように笑みを浮かべ、その手を優しく掴む。
そうしてふたりが並んで去って行くのを、リリィが追いかけようと一歩踏み出した瞬間、さあっと風が吹き抜けた。
気がつけばそこは元の墓地だった。
葬儀が終わり、参列者は皆去った夕暮れの墓地、リリアンヌの墓の前でアレンはまだ立ち尽くしていた。壊れた人形のように彼は繰り返し何かをぶつぶつと呟いている。
リリィが心配になって駆け寄ると、その声ははっきりと聞こえた。
「リリィ、どうして、どうして……?」
ぱたぱたと際限なく落ちる涙と、けっして答えのない問いに、リリィは目を伏せた。そして知った。
――アレンが喪ったものの大きさと、ついてしまった傷跡の大きさに。
気がつけば、モーリスもまた遠目からこちらを見ていた。かける言葉もないというように、唇をきつく引き結んで。どうしたって、モーリスにもリリィにも、その心の傷を癒やすことはできないのだろう。
(神様……)
リリィは天を仰いだ。もしも神様がいるのなら、リリィは聞きたかった。お願いをしたかった。
――神様、どうしてアレンから奪っていくのですか? どうしてこんな仕打ちをするのですか? どうすればアレンを癒やすことができますか?
けれどそんな答えのない問いよりも何よりも、叶えてくれる願いがあるのなら。
――神様、私の存在と引き換えに、リリアンヌを生き返らせてください。
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