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序章
彼女は無機物であった。無機物ではあったが、何の因果か、意識があった。意識があったが故に、彼女は幾度もあることを考える。
(――私は、貴方を傷つけるために生まれてきたのでしょうか)
無機物である彼女は、流れ流れて、幾人もの主の手に渡った。たとえばとある帝国の貴族、たとえば稀代の殺人鬼――主が代わるそのたびに、彼女は歴代の主たちとの思い出を記憶ごと失った。けれどもどういうわけか壊れてしまうその瞬間まで、その青年のことは忘れたことはなかった。
最初の主にして、彼女の創作者たるデザイナー。
――アレン・オリヴィエのことを。
◇◇◇
時は十九世紀末から二十世紀初頭。ヨーロッパの人々は「芸術に革命を」と、新たな芸術を掲げる運動を起こした。
その運動の名はアール・ヌーヴォー。
花や植物といった有機的なモチーフや自由な曲線を描いたそれは、従来の様式にとらわれない装飾物や建築、グラフィックデザインなど多岐にわたって取り込まれ、新たな芸術の概念を生み出したという。
その頃のフランスの、ある街に、ある青年がいた。
その青年は月明かりの差し込む小さな工房で、ある物を手に感極まった声で呟いた。
「嗚呼、これが僕のはじめての作品なんだ」
その手の中にあるのは鋏だった。持ち手には蝶の羽を、ハンドルにはフルール・ド・リスをあしらった、華奢な鋏である。
その鋏を見つめるまなざしはひどく優しく、そして暖かみを伴っていた。
青年はためつすがめつ、その鋏を眺めたり月明かりにかざしたりして、くすりと微笑んだ。
「リリィ。――君の作品名は『リリィ』にしよう」
その瞬間、ゆうらりと鋏から靄のように人影が現れた。
その人影――少女は瞳を閉じたままそこに佇んでいたが、やがてぱちりとその瞳を開けると、青年をじっと見つめた。
ひどく無機質で感情の伴っていない、淡い色の瞳で。
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