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◇◇◇
結局のところ、リリィの問いに答えが返ってくることはなかったし、無論その願いも聞き入れられなかった。
リリアンヌが死んでも世界は終わらない。太陽は相変わらず東から昇り西へと沈んでいくし、夜になれば月が世界を照らす役目を担う。人々はおのおのの生活を営み、花は咲いてしおれそして新たな芽が息吹いていく。
それはリリィも同じだった。彼女は相変わらずこの世界に存在し、ただアレンを見守る存在であった。
けれど、彼女はもう目を背けたかった。何から? ――自分のマスターである、アレンから。
(アレンは変わってしまいました……)
リリィは作業台で一心不乱に作業するアレンを見つめた。
アレンはあの日からずっと仕事をしている。それこそ、休む暇を己に与えないかのように。
舞い込む依頼は片端から引き受けて、暇さえあればデザインをする。デザインを描き込んだスケッチブックの数は格段に増えた。
けれども、アレンのデザインはそれと引き換えになぜか受け入れられなかった。「豪奢なだけで、実用性がない。つまりただ見るだけの美術品――つまらないんですよね、あなたの作るもの」「噂を聞いて頼みにきたが、私の好みではないな。ベレー商会も先を見る目があるのか……」そんなふうに直接アレンに言う、あるいは手紙で伝えてくる輩まで、ごく少数とはいえ存在した。
それがリリアンヌを喪った心にさらに負担をかけたのかどうか――「自分が何をしたいのかがわからない」と言わんばかりに、アレンは迷走した。その穴を埋めるように、正解を探すように、アレンは依頼を大量に引き受けた。
その結果、これまで順調だった依頼にもリテイクが増えて、さらにそれを経てようやく受け入れられたデザインも、依頼者からすれば最低ラインをクリアした程度のクオリティでしかないらしく、皆どこか不満な表情を浮かべていた。
それでも、ベレー商会の会長に認められたデザイナーというお墨付きが、アレンに次から次へと依頼をもたらしていく。悪循環に悪循環が重なって、リリィはもう見ていられなかった。
「お前、少しは依頼の量を減らせ。デザインなんて、量より質だろう」
ある日工房を訪れたモーリスはリリィの心中を表したかのようにそう忠告した。リリィを喪って半年経つか経たないかの頃――その頃にはアレンははっきりと目に見えて、変わっていたのである。
これまでの気弱であっても穏やかな表情はどこにもなく、虚無そのものに無表情で、その上食事もろくに取らないが故に、やつれてしまった。
アレンは試作品を作る作業の手を止めず、「大丈夫だよ」とだけモーリスに返した。
「今がデザイナーとしての頑張り時なんだ。僕のデザインを認めてもらうために必要なことなんだよ、モーリス」
「お前、自分の顔を見ろ!」
モーリスの怒号に、リリィはびくりと肩をすくめた。彼の怒気は本物で、空気をびりびりと震わせた。
普段は冷静なモーリスが声を荒げるほど――そんなにも心配になるほど、アレンは変わっていたのだった。
それでも手を止めようとしないアレンに、モーリスがついにその肩を掴んだ。
――その瞬間。
アレンの手から試作品が滑り落ちた。だらりと、アレンの腕が力なく重力に従ってぶら下がる。いや、手だけではなく、全身の力が抜けたかのように。
崩れ落ちそうになるアレンを、モーリスは慌てて支えた。「おい、アレン!?」と慌てて問いかけるも、彼はぐったりと瞳を閉じて動かない。リリィは息を呑んだ。
「やっぱり限界だったんじゃないか……! 誰か!」
モーリスはアレンをそっと長椅子に横たえると、人を呼びに工房を出て行った。リリィは長椅子で眠るアレンにそっと寄り添う。アレンの顔は青ざめていて、まるきり血の気というものがない。まるで陶器でできた人形のよう。
リリィはその頬に触れようと手を伸ばした。けれどもいつものようにアレンには触れられず、その肌の感触さえも掴めずに、リリィの指先は透過してしまった。リリィの唇がきゅっと引き結ばれる。
(こんな時でも、私は何もできないのですか……!)
リリィの胸の奥が焼けそうに熱かった。悔しくてたまらなかった。自分より何より大事な人だというのに、こうなる前に――こうなってさえも、何もできない自分が嫌だった。
程なくして、モーリスと近所の人たちが入ってきた。彼らにも当然、リリィは見えるわけがない。寄り添うリリィなど気にもせず、彼らは「よし、運ぶぞ」「お前、そっちを――」とアレンを運ぶ算段を整えていく。
やがてアレンはそのまま、工房から運び出された。
リリィはぽつんと、主のいなくなった工房に立ち尽くした。そうすることしか彼女にはできなかった。アレンが運び出されていくのを、見つめることしか。
ぎぃ、と工房の扉が閉められる。ばたんと完全に閉められてしまえば、リリィにはどうすることもできなかった。先ほどまでアレンが横たわっていた長椅子に膝を抱えて座る。
(アレン……)
どす黒い不安がリリィを押しつぶしそうだった。でも慰めてくれる人は誰もいない。
リリィは膝を強く引き寄せて、嵐が去るのを待つかのように顔を埋めたのだった。
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