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第5節
アレンが目を覚ましたのは、それから一昼夜のちのことだった。医者の見立てでは過労とのことで、しばらくは入院だと言われた。ようやく観念したのかアレンはそれを素直に受け入れた。
モーリスはため息をついた。面会謝絶にはならなかったため、アレンの病室を訪れれば、アレンはベッドに身を起こし、窓の外を眺めて座っていた。
「アレン」
そう呼びかけると、アレンは振り向いた。倒れたことがきっかけとはいえ、睡眠を取ったせいか幾分顔色はよくなっている。
その瞳は寝起きのせいかぼんやりとしていた。だが、リリアンヌが死んでから拭い去ることのできなかった翳りはない。モーリスはそれに少し安心した。
「……気分はどうだ」
「悪くないよ。迷惑をかけてしまってごめんね、モーリス」
「だから言っただろう。無理をするなと。もうあんなことはごめんだ」
アレンは申し訳なさそうにうなだれた。モーリスは腕を組んでゆっくりと息を吐く。
「それでも、お前が生きていたなら、いい。……どうせだから、休暇だと思って少し休め」
「そのつもりだよ。だから申し訳ないのだけどモーリス、依頼のスケジュール調整を手伝ってくれるかな」
「あ、ああ」
やけに素直でしおらしいアレンに、モーリスはかすかな不安を覚えた。
(いや、これが当たり前なんだが……)
これまでの狂気に満ちた行動と落差がありすぎる。さすがに倒れたことによって、思うところがあったのだろうか。
アレンの瞳はいたって静謐で、どこにも不安な要素はうかがえない。けれどもモーリスの胸の奥にはひとかけらの不安が、熾火のように残っていた。
それでも親友であるアレンの望みだからと、モーリスはアレンを手伝った。新規の依頼は断り、すでに引き受けた依頼でできそうなものだけを残して、できないものは丁寧な謝罪とともに依頼者へ返した。
そうしている間に、アレンは入院がてら休養生活を満喫した。適度に運動をしながら、きちんと食事と睡眠をとって、読書をしたり散歩をしたりと気ままに過ごし、時折看護師やモーリスとの会話に花を咲かせ――そうして肉体的にも、精神的にも、健康的になっていく彼にようやく退院の許可が出たのは、三月後のことだった。
◇◇◇
聞こえてきたその音に、リリィは耳をそばだてた。やわらかな足音、扉に鍵を差し込んで開ける音――それはこの三月の間、この工房の手入れに訪れていたモーリスとは違う人物のものだった。
案の定、扉を開けて入ってきたのは、リリィが待ち望んでいたこの工房の主だった。
「――ただいま」
その優しい声が工房に響き渡った瞬間、リリィの顔がくしゃくしゃに歪んだ。見えないとわかっていながら、工房の主であるアレンに駆け寄る。
光にきらめくやわらかな金髪も、翳りのなくなった青い瞳も、血色の戻った頬も、リリィの大好きなアレンだった。細かい傷のついていた指先だけが仕事をしていなかったために綺麗な指先に戻っていたけれど、それでもリリィたちを生み出してくれた指に変わりがなかった。
(お帰りなさい、アレン)
この三月というもの、リリィはひとりでアレンの帰りを待っていた。病室に行こうと思えば行けなくもなかったが、この工房を守る人が誰もいなくなってしまうと思って、ひとり残り続けた。もちろん、リリィがいたとしても何ができるわけでもない。けれど、不思議とこの三月に作品を盗んでいこうなどという不埒な輩はひとりも来なかった。
だから時折、工房の掃除と依頼の折衝の関係でモーリスが訪れる以外には、この空間はひどく静かだった。触れられることのない道具も、開かれることのないスケッチブックも、リリィには寂しさと不安の象徴でしかなかった。
でも今日、アレンがこうやって戻ってきてくれたのだから、リリィにはすべてが些末ごとへと変わった。リリィの頬をぼろぼろと涙が伝う。
アレンはリリィを手に取った。モーリスに手入れをしてもらっていたから――この作品だけは――綺麗なまま。今はもういない、かの人を偲ぶよすがでもある。
「ただいま、リリィ」
甘く、優しく、恋人に囁くように、そしてそっとその鋏に口づける。瞬間、リリィの唇にぬくもりが伝わってきた。そう、まるで、アレンがリリィに口づけたかのように。
突然のことに、リリィは目を見開いた。そうしている間にアレンはリリィを箱へと戻してしまう。
(今のはいったいなんだったのでしょう……)
リリィはとっさに唇を押さえた。左胸の奥がどくどくとうるさく、涙も突然のことに止まってしまっている。
アレンはもう荷物を片付けて、スケッチブックを広げていた。リリィはその作業を見たくて、熱くなった頬を冷ますようにぱたぱたと顔を仰ぎながら、アレンの後ろからスケッチブックを覗き込む。ああ、いつもの日常が戻ってきた――リリィはそう思っていたが、アレンの手が生み出していくデザインに戦慄した。
(こ、れは――)
アレンの生み出していくデザインは、よどみなく紙面に描かれていくそのデザインは、すべてが「死」を象徴しているのだとリリィにはわかった。
バレリーナの少女の人形がついただけの、シンプルなネジ式のオルゴール。装飾が限りなく削られて、文字盤の字体も飾り気のないものとなっている懐中時計。
それは今までのアレンのデザインとまったく違っていた。
アレンのデザインは悪く言えばごてごてと実用的でない、良く言えば非常に優美で繊細な装飾が特徴的な、良くも悪くもアール・ヌーヴォー的なデザインだったのだ。それなのに。
(アレン、アレン、いったいどうしたというのですか!)
リリィの叫びは、しかしアレンに聞こえることはない。
アレンはさらさらとデザインを描きながら、ふとその手を止めた。そうしてぺらぺらとスケッチブックに描いた過去のデザインをめくり始める。
「……これは、もういらないね」
そう言うと、アレンはびっとスケッチブックのページを破り捨てた。一枚でなく、二枚、三枚と。
次々に躊躇なく床の上へと破り捨てられていくスケッチを、リリィは這いつくばるようにして集めた。けれどもその指先は紙面に触れることなく、虚しく空気をかくだけ。
曲線の装飾が施された豪奢な木箱に納められたオルゴール、蓋に蔦と花の装飾がついた、盤面の字体の美しい懐中時計、持ち手にアザレアと蔦が豪奢に絡められたカトラリー――いずれもアール・ヌーヴォーの特徴である曲線と植物に彩られたデザインで、アレンにしか生み出せないもの。
それなのにそれをいらないと、アレンは言う。そうして無慈悲に、無残に、容赦なく、破り捨てていく。
リリィはアレンを振り仰いだ。まるで救いを求めるように。けれどアレンはリリィを見ていない。
――床に散らばるスケッチの上に、ぽたりと雫が落ちた。
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