第5節

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◇◇◇ 「ムッシュウオリヴィエ。これは……」  それきり紳士は口をつぐんだ。アレンは静謐な笑みをたたえたまま、ベレー商会からの使者である紳士を見つめていた。彼が絶句したのも無理はないと、膝を抱えて棚に座るリリィはぼんやりと頭の隅で思った。  紳士が今日、工房を訪れたのは、商会からの依頼のうち、改良の末、完成したものを受け取るためだった。だが、アレンが目の前に並べたものを見て、紳士は言葉を失ったままだった。  なぜならデザイン画も、並べられた試作品も、そこからは彼らしさが消えていたからだ。改良のために指摘した点以外も変更されている――言ってしまえば、いっさいが均質にして均一。無駄のいっさいない、実用性をただただ重視しただけの作品。  紳士の背筋を冷たいものが伝った。  確かに従前のような、装飾性を求める時代は終わりつつあるのかもしれないと商会も考えてはいる。だがそれをまったく求められていないわけではない。実用性と装飾性を兼ね備えたデザインを、アレンなら考えつくかもしれないと、商会は考えていた。  紳士は絶句したまま、アレンをちらりと盗み見る。けれどもその青い瞳はまるでガラス玉のようで、アレンが何を考えているのか、紳士にはいっさいわからなかった。 「こちらが制作工程になります。よろしければ、お持ち帰りください」  アレンが差し出したノートを紳士は受け取った。受け取らざるを得なかった。体調を崩し、休養を取っている間に何が起きたのかはわからない。けれども制作工程を紳士に渡すその意味は、もはや依頼にこれ以上手をつけるつもりはないという、拒絶の意思表示のような気さえした。 「わかりました。一度、持ち帰って検討させていただきます」  紳士は再度ここへ来るつもりだと暗に告げたのだが、アレンは何も言わなかった。うなずきさえもしなかった。  話はそれで終わったのだが、紳士は工房を去る前に、アレンを振り返った。アレンの表情は穏やかだが、なんとなく不穏なものを感じた。 「信じてもらえないかもしれませんが」  気づけば紳士はぽつりとそうこぼしていた。 「私も会長も、貴方の生み出すものが好きです。そう、あの鋏――リリィに象徴されるように。だから、貴方らしさを残した作品を世に送り出したかった」  紳士は棚のリリィをまっすぐに見ていた。けれどアレンはその視線の先を追わなかった。リリィではなく、紳士を微笑みながら見つめた。「そうですか。ありがとうございます」と礼を呟いたのち、「でも」と続ける。 「でも、僕は人のための何かはもう作れないので」  その先の言葉をアレンは言わなかった。けれども言わんとしていることは紳士に伝わってきた。手元のノートに視線を落とす。紳士の手は震えていた。 「……これからも、作品は作るのでしょう?」  アレンは答えず、「そういえば」と棚から小さな箱を持ってくると、紳士に渡した。紳士が首を傾げていると、アレンはにこりと笑った。 「忘れていました。貴方に頼まれていた、僕の作品です」  紳士は唇を震わせた。けれども何も言えず、紳士はそこを立ち去ることしかできなかった。  手中の箱は軽いはずなのに、やけに重たく感じられた。 (アレン……)  リリィは紳士を見送るアレンの背を見つめた。何もできない、誰にもどうすることはできない――リリィは唇を噛みしめた。  それでも、その晩にあんなことが起きるとは、リリィは思っていなかった。 ◇◇◇  アレンが紳士に作品を渡した、その晩は月が綺麗だった。  眠っていたリリィは不意にぽっかりとその瞳を開けた。その耳に懐かしいバイオリンの旋律が届いたからだ。  旋律に誘われるように、するりと本体から抜け出せば、アレンがバイオリンを弾いていた。今宵は満月で、工房の天窓から差し込む光だけがアレンのその姿を照らし出した。その傍らの作業台には湯気を立てる紅茶のカップ。リリィは彼が気分転換をしていることに、わずかに安堵した。  けれど同時にどこか胸騒ぎもした。日中にしか弾かないはずのバイオリンを弾いていることと、気分転換のはずなのにやけに片付けられてすっきりした作業台に。不意に日中のアレンの言葉が耳に響いた。 『僕は人のための何かはもう作れないので』  まるでデザイナーをやめると言わんばかりの言葉だった。 (そんなことはない、ですよね、アレン……)  リリィは不安を打ち消そうと、首を横にふった。あんなに夢見ていた職業なのだから、そんな簡単に諦めるはずがない――そう思った直後、バイオリンの音がやわらかに消えていく。  アレンが一曲弾き終えて静寂の中響く余韻に、リリィはぱちぱちと控えめな拍手を送った。  ――刹那。  まるでその拍手が聞こえているかのように、アレンがリリィに視線を向けた。棚に飾られたリリィに。その視線がリリィを射貫いた瞬間、リリィはぞっとした。  リリィを見つめるアレンの瞳は虚無そのものだった。ひどく暗く、恐ろしく、茫漠とした闇さえ宿して。 「リリィ、君は自分のことをどう思っている?」  アレンはリリィに話しかけながら、リリィに手をのばした。 「君は僕以上に素晴らしいからね。展覧会で賞賛されていた君が羨ましかったよ。――あの時に褒められていたのは、僕じゃなくて君だったんだ」  声音はひどく沈んでいた。けれどもリリィを撫でる手つきはひどく優しかった。まるで愛しむように、労るように。 「そういえば、『いい値で購入したい』と言ってきたのは会長だったね。あの時売らなくて正解だったと思う。君は僕にとって特別のハサミだからね。――ねえ、リリィ。君はハサミとしての役目をほとんど果たさなかった」  アレンがゆっくりとリリィの本体を開いていく。 「ならば今、君にしかできないことを僕にしてくれないか」  その言葉に、リリィは指先まで凍ったかのように動けなかった。気づいてしまったからだ。今まで見て見ぬふりをしていたことに。  アレンらしさが消えたデザイン、人のための何かは作れないと言ったアレン、片付けられた工房。  アレンは持ち直したのではなかった。ぜんぜん違った。  彼は壊れてしまったのだ。粉々になったカップが戻らないのとおんなじに、いろいろなことがあって疲れていた彼の魂は、リリアンヌの死によって壊れてしまったのだ。もうこの世に彼をつなぎ止めるものは何もない――リリィはそうと気づいてしまった。  アレンがリリィの本体を掲げる。その喉笛に向かって、刃を滑らせるように。 「世界に一つしかない僕だけのハサミ、リリィ。僕の体を切り裂いておくれ」  自身に伝わってくるアレンの肌のぬくもりと、血管の波打つ感触にリリィは必死になった。自分の本体をどうにかしようと必死になる。  どうすればいい、自分をへし折ればいいのか。でも刃が刃である以上、アレンはへし折った自分でさえも使うかもしれない。  結局アレンにすがるように背伸びをして、本体を奪い取ろうとする。けれども、いくらリリィが自分の本体に触れようとしても指先が透過してしまった。その間にアレンの自分を掴む指先に力がこもった。 「ありがとう、そしてさようなら」  リリィの瞳が見開かれる。アレンの自分を持つ手が横に滑った。いや、やめて、だめ、そんなことに私を使わないでお願い――! 「マスタ――!」  リリィの絶叫とともに、アレンの喉笛が切り裂かれた。
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