第1節

1/2
前へ
/19ページ
次へ

第1節

 あらゆる芸術、ファッションの先端を行く花の都――十九世紀末パリ。  そこで開催されている展覧会兼コンテスト会場には人があふれていた。並べられている作品の作者やその関係者はもちろんのこと、各商家の目利き人や買付人も一堂に会しているからだ。このコンテストの結果次第では、新たな芸術家やデザイナーが誕生する。あるいは流行の最先端、時代の先駆けともいうべきものが。それらをいち早く確保してこそ、商家には専売という利益が生まれるのである。  そんな思惑の入り乱れる人混みをかき分けて進んだ先に、モーリス・ルゥセールブはようやく親友の姿を見つけた。ぽつんとひとりきり、己の作品の横に付き添うように立っている。慣れない正装に身を固め、緊張しているらしい彼に、モーリスは話しかけた。 「アレン、どうしたんだ。そんなにそわそわして」  ぽんと肩に手を置いた瞬間、親友はびくりと体を震わせ、驚いたように振り返った。どうやらまったくモーリスの気配に気がついていなかったらしい。自分に話しかけてきたのがモーリスとわかると、親友――アレン・オリヴィエは少しほっとしたように肩の力を抜いた。 「ああ、モーリスか。びっくりしたよ。……どうにも落ち着かなくて」  昔馴染みであり親友のモーリスの姿に、アレンの緊張が少しはほぐれる。モーリスはアレンの後ろに置いてある作品を興味深げにのぞき込んだ。 「これが『リリィ』か。綺麗な鋏だ、いい作品だよ」  アレンはデザイナーの卵――と果たして呼んでいいのかどうかわからない。なぜなら、今日がアレンにとってデザイナーとしての一歩を踏み出す日でもあったからだ。  画家である父を持ちながら、同じ画家としての道を歩むのではなく、紆余曲折あってデザイナーとしての道を選んだアレンは、この展覧会のために初めて「リリィ」という作品を作った。アンティークの鋏に蝶と白百合のモチーフがあしらわれた、極めて優美かつ華奢なデザインの作品である。  鍛冶屋である親友のモーリスの工房も借りながら作り上げたそれを、モーリス自身も初めて見た。デザイン画や制作途中のものは工房を借りた折にたびたび目にしていたが、仕上げはアレンが自分の工房で行っていたからだ。  このコンテストでデザイナーとして認めてもらえるかどうか――その初勝負と言っても過言ではない大舞台には、じゅうぶんふさわしい作品のようにモーリスには思えた。だからこそ本心から、いい作品だとそうアレンに伝えたのだが――。 「うん、僕もそう思うよ」  しかしモーリスの掛け値なしの賞賛にも、アレンの声はわずかに震えた。そうと気づいて、情けないと自分でもアレンは感じた。モーリスが呆れたようなため息をつきながらも、そんなアレンの背中を遠慮なくばしんと叩く。 「痛いじゃあないか、モーリス」 「お前が自信なさげだからだ。もっと自信を持て」  叩かれた背中をさすりながら、アレンは軽く瞳を見開いた。モーリスは「ほら、背筋はしゃんと伸ばせよ」とさらに激励してくれる。そこまで言って、ふとモーリスは思い出したように、自身の上着のポケットを探り出した。 「……そうだ、思い出した。そういえば、これをあの娘から預かってきたんだった」  モーリスが上着の内側から取り出したのは、小さな紙包みだった。アレンが首を傾げながらそれを開くと、中から綺麗にたたまれた真っ白なレースのハンカチがあらわれる。その隅には小さく、刺繍で縫い取りが施されていた。 『アレン。頑張ってください』  作り手の心がそのまま伝わってくるような、紛れもない応援の言葉に、アレンはまじまじとその刺繍を見つめた。モーリスは「よかったな」と呟き、気恥ずかしそうに頬をかきながら、そっと視線を明後日の方向に向けた。心なしかアレンの頬は赤い。  そんな二人を見つめる一対の淡い色の瞳があった。それはアレンの作品「リリィ」の横に静かに佇む少女のもの。  ほっそりとした華奢な体を黒いケープにつつみ、瞳と同じ色の長髪を白いリボンで結い上げた彼女は、まるで人形のように静かで、ひどく無機質な雰囲気が醸し出されている。世界から一線をひいたところに佇んでいるような、不思議な印象を与える少女だった。  けれども何より不思議なことに、その少女が作品の真隣というかなり目立つ場所に立っているにも関わらず、誰もその少女に目をくれないのである。少女が作品の置かれている台に座っても、誰も咎めることはない。皆、素通りしていく。まるで少女が世界に存在しないかのように。  ――なぜなら彼女こそ鋏の「リリィ」そのものが具現化したものであり、人の形を象ったものだからである。  どうしてこのような形で生まれたのか、無機物が意識と身体を持ったのかは、リリィ本人にさえ説明がつかなかった。彼女の姿は人の目には見えず、彼女の声も人の耳には届かず、そして彼女自身がこの世の物に触れて動かすことはかなわない。ただひたすらにこの世を見つめるだけの存在と言っても過言ではない。  神の悪戯か気まぐれか――いずれにせよ、リリィにとっては些末ごとであった。作品であり鋏である彼女にとって、創作主であり遣い手であるアレンと同じ世界に――たとえ会話をすることも触れることもかなわなくても――存在できることは至上の喜びだからだ。  アレンが嬉しければ、自分も嬉しい。逆も然りでアレンが悲しければ、自分も悲しい。アレンの喜怒哀楽は、そのままリリィの喜怒哀楽でもあった。  けれど今日ばかりはリリィの胸中は複雑だった。今までアレンとともに小さな工房にいたときとは異なる、純粋な喜怒哀楽でははかれない何かがどろどろと渦巻く。それは悲しみも混ざっていたが、もっと焼け付くように熱く、アレンがちらちらと他の作品に目を向けているときにリリィの胸の内をひどく焼いた。  リリィにはその感情に名前をつけることはできないけれど、何が原因かくらいはわかっていた。 (アレンは私を駄作と思っているのですね)  リリィは小さく息を吐いた。  無意識にか意識的にかわからないが、アレンはリリィと他の作品を比較していた。確かにここには美しく、個性的で、技術的に見ればリリィよりも優れている作品も多く置かれている。けれど。 (私はアレンの作品であることに誇りを持っているのです)  リリィはまっすぐにアレンを見つめた。  リリィがここへ並べられるまで、アレンはずっと大事に扱ってくれた。毎日刃をぴかぴかに磨き上げ、しまうときにはやわらかな白布を敷いた木箱に、まるで姫君を寝かせるように扱い、「頑張ろうねリリィ」と声をかけて。  それなのにここへ来て、どうしてあんなにおどおどするのだろう。リリィはちょっとばかり恨めしかった。アレンではなく、アレンの目に見えない自分が。  もしも彼の目に自分の姿が見えていたのならば、リリィはアレンに言い放っていただろう。「私は貴方の作品でよかった」と。  きっとそのひとことで、アレンははっと我に返ってあの不安げな表情を引っ込めて、いつものように朗らかに笑うのだ。「そうだねリリィ」と。  けれどそれができない以上、リリィはひたすらに彼を見つめるしかなかったし、たとえ人の目には見えなくとも胸を張って己の本体の横に立っているしかなかった。せめてアレンにとってのこの大舞台で、自分という作品を通じ、彼のデザイナーとしての才能の素晴らしさを認めてもらうために、全力で。  その瞬間、鋏そのものがわずかに輝きをともした。まるで星がきらめくように。
/19ページ

最初のコメントを投稿しよう!

10人が本棚に入れています
本棚に追加