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だが不安に支配されているアレンと彼を励ますことに夢中のモーリスはそれに気がつかなかった。けれどもその輝きがともった瞬間から、さりげなくリリィを見つめて通り過ぎていく人も増えた。
輝きには気づかずとも、人の視線が増えたことには、モーリスは気づいていた。アレンよりも幾分か落ち着いていたから。
「さっきからリリィを見ていくお客さんも増えたぞ。あの娘もこうやって応援してくれているんだし、そう不安になるなって――」
「ちょっと失礼。この作品の作者は貴方ですかな?」
不意にモーリスとアレンの会話にひとりの紳士が割って入った。アレンとモーリスが振り返れば、上質な仕立てのスーツに身をつつみ、ロマンスグレーは後ろになでつけられている紳士がそこに立っていた。一目で上流階級か、あるいはそれに近い階級の人間であることが知れた。
「はい、僕が作者のアレンです」
アレンが緊張しながらも一歩前に進み出ると、紳士はアレンと作品とを「ふむ」と見比べた。だが上流階級人間によくある値踏みするような嫌なものではない。純粋に作品とその作者を観察しているようだった。
ややあって紳士は「唐突に失礼とは存じますが」とアレンに向き直った。
「アレンさん。この作品――『リリィ』はいくらで売っていただけますかな?」
「えっ……」
アレンは一瞬絶句した。
それは紳士の申し出が彼の気分を害したからではない。単純にあまりにも予想外のことで思考回路が停止したのだ。
今この紳士はなんと言ったのだろう――「売る」とはつまり、アレンの作品を手元に置きたいと言ってくれているということに等しい。しかも、アレンの言い値で。有名なデザイナーでない限り、デザイナーは作品そのものに価値を持たせることはできない。その判断は買い手がする――ましてアレンはデザイナーとしては無名なのだから。
アレンはちらりとリリィを見た。白布の上に鎮座しているアンティークの鋏を見て、アレンはそっと瞳を閉じた。
そうして再びその淡い色の瞳が現れたとき、彼の表情からは先ほどまでの暗さが綺麗さっぱり消えていた。
「残念ですが、『リリィ』には値がつけられないのです。僕の隣にずっといてほしいと思っているので」
「おい……」
遠回しに断りを入れたアレンの脇腹をモーリスがしかめ面で小突く。
けれどアレンは気にもとめなかった。アレンにとってこの「リリィ」は特別な思い入れがあったから。
老紳士はアレンの言葉に一瞬目を見開いた。「無名の若造が」――そう言われるかとモーリスの方が気が気でなかった。
だが。
「ふっ……。なるほど、わかりました」
老紳士は存外あっさりアレンの言葉を受け入れ、そして笑ってさえ見せた。まるで何よりも尊いものを見つめるように、目を細めてリリィを眺める。
「私にはあの作品が輝いてみえたのですよ。まるであなたの作品であることに誇りを持っているかのように。そう作品が語ることは少ない。また、そう作品に想われる作者も少ない。どうですか、リリィは諦めますが代わりに――」
老紳士はリリィからアレンにしっかりと視線を移した。
「我が社とデザイナーとして契約いたしませんか、ムッシュウ?」
老紳士の言葉にまたもアレンはあっけに取られた。
それはつまり今、アレンの目の前に鮮やかに道が開かれたということである。ずっと夢見ていたデザイナーとして生きる道が、この老紳士によって。
歓喜のあまり、アレンは指先まで打ち震えた。こんな幸運があるのだろうか。
(もしかしたら、僕は明日死ぬのかもしれないな……)
引き換えにそんなことが起きたとしても、アレンは驚かない。
モーリスもまたあまりのことに驚いていたが、ふと肝心のことを聞いていなかったと気づいた。
「……その、ムッシュウ、大変魅力的な申し出ですが、あなたはどなたでいらっしゃいますか?」
「これは私としたことが。大変失礼いたしました。私はアルベール・デュ・ベレー。ベレー商会の会長です」
その瞬間、アレンやモーリスだけでなく周囲もざわめいた。
ベレー商会といえばこの国随一の商社。その商会で取り扱うものは超一流品ばかり。その創設者がアルベール・デュ・ベレーその人であり、一流かそうでないかを見抜く正確な目を有している。そんな彼に認められたということは――。
「あ、あの、ぜひ弊社とも!」
「いえ、こちらはいかがですか!?」
次の瞬間、わっとたくさんの買付人や目利きがアレンとリリィの周囲に寄ってきた。アルベールを押しのけることはさすがになかったが、ちょっとした騒ぎになる。
「じゅ、順番に話をお聞きします、お聞きしますから!」
モーリスが仕切ってくれたおかげで事なきを得たものの、結局開催初日からてんやわんやの騒ぎとなった。
リリィは本体の横に立ってその様子を見ていた。いつもは表情の乏しい彼女の口元がわずかに緩む。それはアレンの気持ち――認められて嬉しい、夢への一歩が踏み出せて嬉しい、努力が報われて嬉しい――そんな感情が彼女の中へと流れ込んできたからだ。もちろん彼女自身もとても嬉しかった。アレンの喜びこそが彼女の喜びでもあるのだから。
(よかったですね、アレン)
アレンの焦りながらも歓喜に満ちた顔を見つめながら、リリィはすうっと本体に吸い寄せられるようにその姿を消した。
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