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第2節
工房内にかちゃかちゃと金属や何かのぶつかる音が響く。リリィはアレンの向かいで頬杖をついて、じっとその音のする手元を見つめていた。もちろん、アレンにはリリィの姿は見えていない。
けれどもリリィはそうやって作業をしているアレンの手元を見るのが好きだった。自分もまたこうやって作り出してもらえたのだと思えば、よくわからない不思議なあたたかさがちょっぴり胸の奥に灯る。
うつむきがちなために、目元に影を落とす金糸の前髪、その合間から覗くのは、しっかりとした光を宿す、手元の作品にのみ一心に視線を注ぐ水色の瞳、そして繊細な意匠を施していく指先の動き――リリィにとっては、いずれもいつまでたっても見飽きることがなかった。
「アレン、いるか?」
そんな声とともに工房の扉がノックされた音に、アレンが顔をあげた。工房の扉が開いて顔を覗かせたのは、アレンの親友であるモーリスだった。アレンの顔が自然と緩む。
「モーリス!」
「久しぶりだな、アレン。ちょっと休まないか?」
モーリスがアレンに頼まれていたらしい部品を机の上に置きながらそう言えば、アレンは苦笑して作業の手を止めた。作業台の上には作りかけの作品とデザイン図が散らばっている。
あのパリのコンテストで、最終的にアレンは入賞を逃してしまった。しかしベレー商会の会長が目をつけたという事実は、それ以上の価値がある。結果として彼はベレー商会とデザイナーとして契約した。その依頼が早速舞い込んで試作に勤しんでいたらしいことが、モーリスにはうかがえた。
「そうだね。じゃあちょっと準備するから、適当に座って待っていてくれないかな」
「いや、俺がやる。お前はそこを片付けてくれ。うっかり作品を壊したら大変だから」
モーリスは勝手知ったるなんとやらと言わんばかりに、簡易的にしつらえられた台所へと向かっててきぱきとお茶の準備を始めた。
そんなモーリスに「ありがとう」と言いながら、作業台の片付けをするアレンの後ろを、リリィはついて回った。モーリスは時折、こうやってアレンを訪れては、作業に熱中する彼を休ませようとしてくれるのだった。
やがて片付けられた作業台の上からお茶の香りが漂う頃、モーリスはふとある話を切り出した。
「なあ、このまま順調にお前がデザイナーとして成功したら、俺と会社を作らないか?」
「え?」
お茶を飲みながらもたらされた話題に、アレンは目を瞬かせる。モーリスはカップを置いて語り出した。
「鍛冶屋をやっていくだけじゃもう時代遅れなんだ。今うちは父さんの腕で持っているけど、そのうちそれだけじゃ駄目になる。デザイン性も兼ね備えていないと……」
「それで僕が専属のデザイナーとして入って、機能性とデザイン性を兼ね備えた商品を作ろうってことか」
「そうなんだ。もちろん今すぐってことじゃない、もっと先の話なんだけどな」
モーリスの構想にアレンは微笑んだ。モーリスと会社を作る――そんな未来が訪れたらどんなに嬉しいだろう。そんな気持ちがリリィにも伝わってくる。
「ああ、でも社名はもう決めてあるんだ」
「え? もう? モーリスはせっかちだなあ」
「『ベル・フルール』――綺麗な花って意味だ。お前のデザイナーとしての初作品、すべての原点『リリィ』にふさわしい名前だろ?」
棚に飾られたリリィ本体を見つめながら紡がれたモーリスの言葉に、ふたりの会話を見守っていたリリィはぽっと頬を染めた。そんなことを考えてもらえていたなんて、思いもよらなかった。ちょっぴりの気恥ずかしさが胸中に、甘酸っぱさをもたらした。アレンも賛同するように「いい響きだね」と頷いていることが、それに拍車をかけている。
「……ああ、そういえば『リリィ』で思い出したんだが、お前、まだあの娘に会ってないのか?」
唐突な話の流れにリリィは首を傾げた。だがアレンにはそれで通じたらしい。アレンは無意味に手元のカップをいじり始めた。
「うん。……最後にリリィと会ったのはパリに行く前で、帰ってきてからずっと忙しくて……」
「リリィ」とは自分の名前のはずだ。けれどもふたりの話からすると、もうひとつ「リリィ」が存在するらしい。
(いったいどういうことなんでしょう……)
自分という存在がこの世に生まれ落ちたのはほんの数週間前の話だ。その前に自分の知らない作品があったとしてもおかしくはない。けれどアレンはリリィを大切にしているように、生み出した作品のひとつひとつを大切にする人だ。たとえ複製品であったとしても、同じ名前をつけるとは思えなかった。
「そうか。……なら今から会ってこいよ」
「え、今から?」
モーリスの唐突な提案に、アレンが瞳を瞬かせる。モーリスは何を当たり前のことをと言わんばかりに、眉を寄せた。
「そうだよ。だってリリィは、あの娘をモチーフに作った作品なんだろ? お前がパリに行っていた理由だって知ってるし、ああやって刺繍入りのハンカチまで贈ってくれて。なのに、なんの報告もしないなんておかしいじゃないか。お前が直接伝えた方が、あの娘も喜ぶぞ」
モーリスのからかい混じりの言葉に、アレンはちょっとそわそわし始めた。頬もほんのりと赤く染まり、リリィの見たことのない表情をしている。伝わってくる名前の知らぬ感情に、リリィもなんとなく落ち着かなくなった。嬉しい、恥ずかしい、でも会いたい――そんな甘酸っぱい何かがリリィの胸のうちを満たしていく。
「でも、こんな格好で変じゃないかな」
ちょっと煤や油で汚れた緑色のエプロンに、少し皺が寄ったシャツ。まかり間違っても戦勝報告に行くような格好ではない。アレンは自信なさげに己の服に視線を落とした。
「何言ってるんだ。お前の仕事着だぞ、誇りを持てよ。だいたい幼なじみなんだから、今更だろ」
「それはそうだけど……」
それでもなお渋る様子のアレンに業を煮やしたのか、いつもは冷静なモーリスがため息をひとつついて、棚へと歩み寄る。飾られていたリリィを手に取ると、丁寧な手つきでそれを箱に仕舞い、アレンの手に押しつけた。
「行ってこい。時間はあっという間に過ぎるんだぞ」
後悔しても遅いんだからな――モーリスのその言葉についにアレンも覚悟を決めたのか、「そうだね」とようやく頷いた。
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