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◇◇◇
アレンがリリィを携えて訪れたのは、街中の閑静な住宅街――その一角に佇むこぢんまりとした家だった。突然の訪問だったにもかかわらず、その家にいた優しげな婦人は「あら、アレンくん。久しぶりね」とアレンを快く迎え入れた。
(この人がもうひとりの『リリィ』なのでしょうか)
アレンの後ろに付き従うリリィは首を傾げた。
「おばさん、ご無沙汰しています。リリィはいますか?」
「ええ。上にいるわ。たぶん起きていると思うけれど」
「ありがとうございます。上がっても?」
「もちろん。そんなよそよそしくしないでいいのよ」
アレンは微笑み、そして軽く会釈してから階段を上がり始めた。もちろんリリィもそのあとに続く。
どうやらあの婦人はリリィでなかったらしいと知って、余計にリリィの疑問はつきない。けれどもこれから――少なくともこの階段を上った先に、件の「リリィ」はいるようだったから、自ずと答えはわかるだろう。
階段を上がった先には、木製の扉がひとつ。アレンはその扉の前に立つと、すうと深呼吸し、ノックをした。
「リリィ。アレンだよ。……入ってもいいかな」
沈黙。しんと静まりかえった廊下に、ややあってやわらかな声音が落ちた。
「どうぞ」
その肯定の答えに、アレンは意を決したように取っ手に手をかける。扉が軽くきしんだ音をたてて開いたその先は、この家と同じようにこぢんまりとした部屋だった。
きちんと整理整頓され、掃除もまめにしているのか、清潔感あふれる部屋の壁には、たくさんの絵が飾られていた。その多くが風景画で、たまにはキャンバスに描かれたものもあったが、そのほとんどがスケッチブックに描かれて切り取ったものだった。
その絵のタッチを見たリリィは目を軽く瞠った。なぜなら。
(どうしてアレンの絵がこんなに?)
それはよく見慣れた、アレンの絵だったのである。リリィが見間違えるはずもなかった。
とうのアレンはといえば、絵には目も止めず、小部屋の奥の窓際にしつらえられた寝台へと向かった。
窓から吹き込む風が、カーテンをやわらかくはためかせる。その横の寝台で半身を起こして窓の外に目を向けているその女性に、アレンは呼びかけた。
「久しぶり、リリィ」
リリィと呼ばれた女性が振り返る。アレンの後ろからその女性を見ていたリリィは驚いた。
――彼女はリリィとそっくりの容姿をしていた。
その髪の色も、瞳の色も、目鼻立ちもすべてが同じだった。女性の方が幾分か大人びて落ち着いた雰囲気であることと、アレンを見て滲み出たやわらかな雰囲気が相まって、リリィとはまた別の印象を与えるのだが、少なくとも姉妹あるいは双子といえば、誰もが信じるほどには。
そしてこの女性こそが件の「リリィ」なのであろう。だがその顔色はあまりいいと言えなかった。意識はしっかりしているし、笑顔も浮かべてはいるが、どこまでも儚げで、透き通って、いっそ青ざめているほどに白い肌や折れそうに細い華奢な体躯は、女性がこの部屋からほとんど外に出たことがないことを物語っていた。
女性はアレンを見つめると、ひどく嬉しそうな、とろけるような表情を浮かべた。
「お帰りなさい、アレン。コンテストの結果はどうでしたか?」
「うん、入賞は逃してしまったんだけれど、でもその代わりにね」
アレンは寝台のすぐ横にあった椅子へと腰掛ける。そうして彼女にパリでの出来事を話した――ベレー商会の会長が認めてくれたことで、デザイナーとしての道が確保されたこと、展覧会では様々な作品が展示されていたこと、パリはさすがに都会で衣食住すべてが最先端の流行を取り入れていること。
女性はそのひとつひとつに耳を傾けた。優しく微笑み、時に相槌を打って、その様子はまるで大切な宝物を受け取るかのようだった。
「本当に行けなかったのが残念ですね。私もアレンの晴れ舞台を見たかったです」
「でも、モーリスに刺繍入りのハンカチを渡してくれたよね。あれはすごく嬉しかった。……次は、君も連れて行きたいよ。その……」
アレンはわずかに言葉を濁した。視線も少し女性から逸れる。
(今日こそ、今日こそ言わなくちゃ……)
アレンの心臓がどくどくと大きく鼓動する。その様子を見ていたリリィの脳裏に、アレンの言わんとしていることが流れ込んできた。
――僕のお嫁さんとして。
その言葉は、文字にしたってたいした長さの言葉ではない。そのほんの数秒もあれば伝えられる言葉を言ってしまえと感情は語るのに、恥ずかしさが邪魔をして喉の奥から出てこない。
女性はその先を促すように首をちょっと傾げた。けれども結局、アレンの口からその先の言葉は出ず、沈黙を誤魔化すように、アレンは「あ、そうだ、これを持ってきていたんだ」とリリィを取り出した。
女性は少し寂しそうな表情を浮かべたが何も言わず、木箱の中から現れたその鋏へと視線を落とした。白布の上に鎮座するアンティークの鋏を。
「素敵な鋏ですね。百合があしらわれていて……。なんという作品なんですか?」
「……『リリィ』って名付けたんだ」
女性が少し驚いたように目を見開いて、アレンを見つめた。アレンは頬を赤く染めて、視線をうろうろと彷徨わせる。
「その、百合をあしらったから……。あと、君の名前――リリアンヌをもらって。これは……君をイメージして作ったから」
女性――リリアンヌはまじまじと作品とアレンとを見比べた。ややあって、リリアンヌはそっと鋏を手に取った。そのたおやかな手が愛おしそうに何度も鋏を撫でる。
ふたりを見ていたリリィは、それで気がついた。リリアンヌの手から流れ込んでくる気持ちも、アレンがリリアンヌに向ける視線も、理解はできずともなんと呼ぶかくらいはわかった。
――愛している。
モーリスの言っていた「あの娘」とアレンの言っていた「リリィ」とはリリアンヌのことだったのだろう。そしてリリィがなぜこの容姿をもってここにいるのか――それはリリアンヌをイメージして作られた作品だからなのだろう。
不意に、リリィの胸がきゅっと苦しくなった。紐でも巻き付けられたかのように。リリィはぎゅっと胸の前の布を握りしめた。
(アレンは……)
アレンが自分を大切にしてくれるのは、リリアンヌをイメージした作品だからなのだろうか。自分そのものを愛してくれているわけではないのだろうか。
考えれば考えるほどに、リリィはわからなくなった。胸の苦しさは増していく。けれど。
「――この作品は、大事だよ。僕の夢を叶えてくれた作品だから」
アレンのその声にはっと顔をあげれば、アレンはリリアンヌとまだ他愛ない会話をしていた。リリアンヌが「よかったですね」と鋏を箱へと返す。
そのひとことに、リリィの胸のつかえがすっと取れた。
理由がなんであれ、アレンはリリィを大切にしてくれている。そしてアレンが幸せならば、リリィもまた幸せだ。それになんの違いがあるだろうか。そう気がついたからだ。
アレンとリリアンヌは楽しげに会話を続けている。リリィはそんなふたりを見て、微笑みを浮かべた。
お嫁さんのなんたるかくらい、リリィも知っている。もし、リリアンヌがアレンのお嫁さんになったなら、こうやって日々を一緒に過ごしていくのだろうか。
(早く言えるといいですね、アレン)
窓から入ってくる風が、再びカーテンをはためかせた。
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