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第3節
「では、よろしくお願いしますよ」
上質なスーツに身をつつんだ紳士が工房の扉から出て行く。アレンは紳士を見送ると、テーブルの上の茶器を片付け始めた。
コンテストから早数ヶ月が経過した。季節が穏やかに移ろいつつある中、アレンの工房にもささやかな変化が起きていた。
工房そのものは相変わらずこぢんまりとしているが、作業台の他に来客用の小さなテーブルと椅子が置かれた。仮眠用のソファーはついに簡易的な寝台に取って代わられた。
早い話が、アレンはこれまで以上に工房で過ごすことが多くなった。依頼のための来客が増えて、日中はその対応に追われることがほとんどであり、夜に作業を行うため、自宅には帰れなかったのである。
実を言うと、リリィはそれがちょっぴり嬉しくもあった。アレンと工房で過ごす時間が好きなリリィにとって、幸せな時間が増えたからだ。
太陽は東から昇って、西へと沈んでいく。依頼人と打ち合わせをし、作業をし、時折モーリスの訪れがあって、夜は時間の許す限り作業に勤しむ――そんな日々が繰り返される中、今日もまた新しい依頼があったらしい。茶器を片付け終えると、アレンはスケッチブックを広げ、その真っ白な紙面に鉛筆を走らせていく。
リリィはスケッチブックにデザインをしたためていくアレンを後ろから覗き込んだ。今度依頼されたのは、どうやら鍵のようだった。いくつもの鍵のデザインを描いては×を記していく。だがどのデザインにも薔薇があしらわれているところを見ると、それは依頼者の意向らしい。
「うーん……。ああ、もう、全然決まらない!」
ついにアレンがスケッチブックをばたんと閉じた。外を見ればもう夕暮れ。長いこと思案していたが、これと思うものは決まらなかった。
アレンはため息をついた。作業台の上には、作りかけの試作品があった。別の依頼で作成していたものだが、それに取りかかる前に、アレンは棚に置いてあったバイオリンを手に取った。ちょっとした気晴らしだ。
バイオリンをかまえ、弓を滑らせる。するとどこまでも澄んだ音が工房に吹き渡っていく。
リリィはといえば、最初はそのバイオリンの音色に聞き入っていたのだが、やがてむずむずと足が落ち着かなくなってきた。すっくと立ち上がると、そのほっそりした足を床へと一歩差し出す。
流れるバイオリンの旋律に合わせて、リリィは踊った。まるで花びらが風に運ばれるように優しく。そのケープの裾が翻り、髪が宙に流れる。無論、リリィの踊る姿はアレンには見えない。
それでも、リリィは踊った。これが楽しいということならば、そうなのかもしれないとリリィは頭の片隅で考えた。
(もっと……)
もっと続いてほしいと願うほどに、アレンとこの時間を共有したかった。リリィの乏しい表情はいつものことだが、今ばかりはどことなく歓喜に似た色が浮かんでいる。
やがて、曲は余韻を残して終わりを迎えた。リリィもまた自然な流れで動きを止め、アレンを見つめれば、アレンは曲の余韻を楽しむかのように弾き終わってもしばらくはその姿勢のまま、瞳を閉じていた。
程なくして、ぱちりとアレンは瞳を開けた。先ほどよりも幾分かすっきりとした表情をしている。
「うん。決めた」
そう呟くと、彼はバイオリンを片付け、作業台ではなく、再度スケッチブックを広げた。どうやらいいデザインを思いついたらしい。さらさらとよどみなくデザインを書き記していく。
リリィもまた、先ほどと同じように、彼の後ろからそのデザインを覗き込んだのだった。
アール・ヌーヴォーを表現する、アレンの作品。流麗な曲線と、植物とを組み合わせた、豪奢で美しいデザインの数々に、リリィは感嘆のため息をついた。
(きっとこれなら、あのおじさんも気に入ってくれますね)
リリィはそう確信していた。
だから、数週間後、再び工房を訪れたベレー商会からの使者である紳士は満足してくれるものだと思っていたのに。
「試作品です。いかがでしょうか。それと鍵にはご要望のとおり、薔薇をあしらいましたが、こちらのデザインも確認いただければと思います」
「ふむ……」
テーブルの上には薔薇をあしらった鍵のデザイン画と、いくつかの試作品が並べられている。紳士は、数週間前にアレンに依頼した商会用の試作品と、自分個人のためのオーダーメイドの鍵のデザイン画を一瞥し、そして眉を寄せた。
「鍵の方はこれでかまいませんが、試作していただいた作品は作り直しを」
「えっ……」
リテイクの指示にアレンは絶句した。デザイン画のときは承諾が出たのに、なぜ今になって――そんな表情が出ていたのかどうかわからないが、紳士は試作品を手に取って眺めながら「勘違いしないでください」と呟いた。
「けっしてあなたが駄目だというのではない。むしろ、私はあなたのデザインが好みです。ですから、鍵の方はこのデザインで進めていただきたい。けれどね、商品となる作品はそうはいかないのですよ」
「……というと」
「私たちが行っているのは、最終的には商売です。美術品として美術館に飾るだけなら、このデザインのままで結構。しかし、そうではなく我々は客にこの商品を買っていただくのです。平面から立体に興したときに、やはりこれでは商品として売れないかもしれない、利益があがらないかもしれない、制作コストがかかるかもしれない――それを考えなくてはならないのですよ」
紳士は試作品をことりとテーブルに戻した。そしていくつか、改善点を指摘する。アレンは黙って頷き、それを設計図に落とし込んでいく。
紳士はそれ以上、何も言わなかった。帰る間際にも。けれどもアレンは先ほどの言葉でひしひしと感じていた。
――デザイナーは芸術家ではない。
紳士はつまりそう指摘したのだ。アレンのデザインを好んでくれているのは事実だろう。けれどもデザイナーとして生計を立てていくならば、この程度のリテイクはあって当然だとも言った。好きなものを作るのが芸術家ならば、客や世間のためにデザインを考えるのがデザイナーであると。
アレンは唇を噛みしめた。それはとても難しいことだった。大衆の意見ばかり取り入れては、自分のデザインというものは喪われてしまう。かといってオリジナリティを強調しすぎてもいけない。きちんとアレン個人を認めてもらえるまでは。
「難しいなぁ……」
乾いた自嘲まじりの呟きが工房に落ちる。リリィは励まそうとアレンのまわりをうろうろするが、結局何もできず、肩を落とす。
(もしも私が人間だったのなら)
アレンを励ますことができたのに、とリリィの胸中にまたも悔しさともどかしさが忍び寄る。
鍵はともかく、商会からの依頼には期限までほとんど時間が残されていない。
アレンは試作品をぽい、と屑籠に放り入れて、紳士に指摘された箇所を直すべく作業台へと向かい合った。
外はまもなく日が落ちようとしている時刻だった。
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