第3節

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◇◇◇  夕方になったからか、窓から昼間よりも少しだけ冷たくなってきた風が吹き込んでくる。  リリアンヌは身を震わせ、こん、と咳をした。一度でなく、二度、三度と。咳き込むたびに刃物で刺されるかのように胸がひどく痛んだ。口をおさえた白魚のような手に、べったりと赤黒い血がつく。  それをじっと見下ろしながら、リリアンヌは物思いにふけった。  ――十歳まで生きられるか、わかりません。  リリアンヌの体は人より少しばかり神様に愛されていたらしい。医者にそんな診断を下されるまでもなく、リリアンヌはなんとなく自覚していた。きっと神様に愛されてしまったが故に、早く神の御許に還る運命にあるのだと。  それでも今日まで生きながらえたのは、一重に奇跡としか言い様がなかった。年をおうごとに――最近では日に日に――弱っていく体ではあったが、気がつけば花嫁になれる年まで生きることができた。 (でも……)  リリアンヌはなんとなく思っていた。自分は花嫁衣装を着ることがないのではないか、と。ただひとり、自分を一心に望んでくれる彼はひどく臆病者だから、リリアンヌの命が燃え尽きるまでにその言葉を言うことはないだろう。先だってパリから帰ってきたときも、結局誤魔化されてしまったのだから。  それでも心残りはほとんどなかった。病弱で、外に出られない体であっても、外の世界は彼が代わりに全部見せてくれた。画家の家に生まれついた彼は絵を描くことが得意だったから、どこかへ行くたび、美しい風景を見つけるたび、紙の上にそれを描きながら話をしてくれた。  部屋の壁を埋め尽くすほどの絵は、彼がリリアンヌに見せてくれた世界のすべてだった。 (それにたった一度だけ――)  リリアンヌはあの日のことを思い出して、ふふっと笑んだ。リリアンヌの生涯で、けっして忘れられない日になった。そのあと大人たちに叱られたことさえ、いい思い出だった。  あれから幾年が過ぎゆきたのだろう。  リリアンヌの心残りは彼のことだけだった。  大事な人を次々に喪う運命にあるかのように、数年前に彼は父親を亡くし、相次いで母親までも亡くした。そして今度はリリアンヌさえも。  両親を亡くした時、彼はモーリスとリリアンヌがいたからこそそれを乗り越えることができた。でも、リリアンヌがいなくなってしまったら、彼はどうなってしまうのだろう。 (アレン……)  最後に姿を見たのは、彼がパリから帰ってきたあとだった。以降、デザイナーとして忙しくなってしまったが故に、アレンがリリアンヌのもとへ訪れたことはない。頑張っていることは知っているから、口が裂けても寂しい、会いたいなどと言えなかった。  こん、ともう一度咳が出る。こぽりと口から血があふれた。尋常でない胸の痛みに、リリアンヌは体を曲げた。真っ白なシーツが赤黒く汚れていく。 「リリアンヌ、そろそろ寒いから、窓を……リリアンヌ!?」  部屋に入ってきた母親が目を見開いて駆け寄ってくる。苦しむリリアンヌに寄り添い、何やら部屋の外に向かって声をあげているが、リリアンヌにはもう聞こえなかった。  ついに神様が迎えにきたらしいと知って、リリアンヌは抵抗した。命を延ばすことはできない。それはリリアンヌにもわかっている。でもかなうことなら、あと少し。 (アレンのために……)  リリアンヌは彼のために生きたかった。少なくとも、自分がいなくても大丈夫だと思えるまでは。  視界が閉ざされ、意識が混濁していく。リリアンヌという人格が闇に沈んで消えていきそうになる。  けれどもふと、リリアンヌは誰かに手を掴まれた気がした。暗闇の中、その手はぐいぐいとリリアンヌを引っ張っていく。リリアンヌの体はもう歩くこともかなわないはずなのに、リリアンヌは確かにその手に導かれて、暗闇の中を歩き、そして――。  不意に宙に投げ出された感覚がし、ややあってすとんとどこかに落ちた――と思ったら、闇が拭い去られ、視界が晴れた。 (ここは……?)  置かれた作業台、その上に散らかった部品、スケッチ画。そこはどこかの工房のようだった。そしてリリアンヌは目を瞠った。  そこで雑多な工具や材料に囲まれて、作業台に突っ伏しているのはアレンであったからだ。
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