第3節

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◇◇◇  不意に、リリィの中にすとんと何かが落ちてきた感覚がした。それでびっくりして目を覚まし、ぼんやりと瞳を開けると、そこは当然、工房だった。  小さな灯りはひとつきりで、窓の外は真っ暗。それが意味することは、つまり今は真夜中ということだった。そこで雑多な工具や材料に囲まれて、作業台に突っ伏しているのはアレンであった。  そろりと近寄ってみれば、すうすうと穏やかな寝息が聞こえてくる。手元にあるのは作りかけの作品。どうやら、これを作っている最中に疲れて眠ってしまったらしい。  アレンには今やいろんな依頼が舞い込んでくるようになった。すべてを引き受けているわけではもちろんないけれど、根が真面目な彼はひとつひとつに真剣に取り組む。当然そのぶん、時間もかかるため、彼の仕事の過密さは常人のそれを超えていた。このところは睡眠もほとんど取っていなかったことを、リリィは知っている。それで限界を迎えてしまったのだろう。  とにもかくにもリリィは心配になった。おろおろと辺りを見渡す。工房にはリリィとアレンの他に誰もいない。 (このままだと風邪をひいてしまうかもしれないですね……。工房は冷えますから……)  人間や動物ならば、寄り添って暖を取ることができるけれど、リリィがアレンに寄り添っても、ちっとも暖かくしてあげることはできない。  どうすればいいのだろう――そんなことを考えるリリィの目に、寝台の上に置かれた一枚の毛布が目に入ったリリィはしばらく考えたのち、無駄だとわかっていながら、それでもその毛布に触れられるか試してみた。  ――刹那。  驚いたことに、伸ばした指先が毛布のやわらかな布触りをとらえる。なぜか今は、物に触れることができるようだ。リリィは軽く瞳を見開いた。 (どうしてでしょう……。いえ、そんなことは考えている暇などありませんね)  神様の気まぐれでもかまわない。今日ばかりはありがたいことだった。  神様の気が変わらないうちに、リリィはその毛布を両腕に抱え、アレンのもとへと運んだ。そうしてばさりと広げて、アレンの肩にかける。その瞬間、毛布をかけた重みでのせいか、アレンが「ん……」と身じろいだ。 (起こしてしまいましたか……!?)  けれどもリリィの心配をよそに、アレンは再び眠りに落ちていったのでほっとする。できればベッドで寝てほしいけれど、眠っているところをわざわざ起こすのもしのびない。  深夜の静けさの中、リリィの瞼も重くなってきた。抗えぬ眠気が忍び寄ってくる。 (でも、あと少しだけ……)  リリィはアレンの隣に膝を抱えてちょこんと座った。もしかしたらアレンに寄っかかれるかもしれない――そんな希望を抱えて。  そっと触れるか触れないか程度にアレンの肩に体を預けると、不思議なことに、今日は透過しなかった。  初めて触れたアレンの体に、リリィの鼓動が早まった。どくどくと早鐘を打つようにうるさい。この音がアレンに聞こえていないか心配だ。もしも聞こえたら、彼の眠りを妨げてしまうかもしれない。  アレンの体は硬かった。無機物としての硬さではない。きちんと肉体としてのやわらかさとぬくもりはあるのに、どこかリリィの肉体とは違う。何が違うのかリリィにはわからなかった。わからなかったけれど、それを意識するとなんとなく頬が熱くなった。理由はわからない。  そのまま、眠りに落ちる寸前、リリィの中から今度は何かが離れていく感覚がした。閉じていきそうになる瞼を必死に押し上げて、その何かを見極めようと、リリィは睡魔に抗った。 (――リリアンヌ?)  睡魔で歪む視界に入ったのは、確かにリリアンヌだった。何かリリィに言いたげに、泣きそうな表情で佇んでいた彼女は、半分透き通ってゆらゆらとしていた。まるで彼女の魂だけが、彼女を象ってそこにいるかのように。  けれどもリリアンヌがここにいるはずはない。きっとこれは幻覚だろう、夢だろうと、リリィはそのまま目を閉じた。 ◇◇◇  翌朝、ざあざあと響く雨だれの音に、アレンは目を覚ました。手元には作りかけの作品。少しだけうたた寝をしようと思ったのに、結局朝まで眠ってしまったらしい。  作業台に突っ伏して眠っていたから、体のあちこちが痛む。背中を伸ばそうと、体を起こしかけてふと気づいた。毛布が肩にかけられていたのである。しかも、ここでの仮眠用にと寝台にたたんでおいてあったものが。  ぐるりと部屋を見渡す。当然、彼以外に誰もいない。工房の扉には内側から鍵がかかったまま。アレンは少し首を傾げた。けれど深くは考えなかった。そういうこともあるのだろう。 (何より、これのおかげで風邪はひかずにすんだし)  体の節々は痛んでも、寒さは感じなかった。毛布をたたんで、ぐっと体を伸ばす。ふとアレンの目に、百合の花の意匠が施された華奢な鋏が止まった。  箱に敷かれたやわらかな白布の上に鎮座しているそれは、彼が最初に手掛けた作品。「リリィ」と名付けたもの。この作品のおかげで、アレンのデザインが世間に認められ、依頼が舞い込むようになったことを思い出す。 (そういえば、昨夜誰か僕に寄り添ってくれたような気がしたんだけど……)  まあ、それも気のせいだろうと、アレンは鋏を手に取り、愛しむように撫でながら話しかける。 「おはよう、リリィ。すべては君のおかげだよ。今日も続き、頑張るから」  そうしてその鋏をそっと箱の中に戻す。多忙を極めてはいるし、自分の思うままにならないこともたくさんある。それでも夢見た職業に変わりはない。だからこそ作品の続きに取りかかることにした瞬間のことだった。 「アレン、いるか!」  どん、と扉が激しくたたかれた。アレンが慌てて開けると、そこには息せき切ったモーリスがいた。黒い外套に身を包み、かぶったフードからは水がぽたぽたと滴っている。時刻はまだ早朝と言っても過言ではない。  とにかく中へ入るように促せば、「自宅にいなかったから、こっちだと思って」とモーリスは外套の雫を振り落としながら、工房の内へと足を踏み入れる。  アレンは冷え切っているであろうモーリスのために、紅茶を用意しながら「それで、何かあったの?」と尋ねた。  モーリスは唇を震わせた。喘ぐように口がわずかに開閉する。その瞳には複雑な感情が渦巻いていた。――今から告げる事実を、アレンにどう伝えればいい?  それでもようやく覚悟を決めて、出した声は掠れていた。 「アレン……」 「どうしたの、モーリス」 「落ち着いて、聞いてくれ」  モーリスはアレンの肩を掴み、そして震える唇で彼は告げた。 「あの娘が、死んだ」  ――カチャン。  アレンの手から滑り落ちた白磁のカップが、粉々に砕け散る。脳裏にリリアンヌの笑顔が――それだけが甦る。  その瞬間、アレンの時間も世界もすべてが停止した。  ざあざあと外では雨が降り続いていた。
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