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第4節
「おはよう、リリィ。すべては君のおかげだよ。今日も続き、頑張るから」
その声でリリィは目を覚ました。ゆらりと本体から抜け出せば、自分の本体をアレンが箱に戻しているところだった。試しに触れてみようとしたが、指先はすっとアレンを透過した。やはりあれは一夜の夢だったらしい。
(残念ですけど、でもアレンが元気ならそれでいいのです)
それにたった一度触れられただけでも、リリィにとっては奇跡だった。きっと昨夜のことはリリィがリリィである限り忘れないだろう。
睡眠を取ったせいかいつもよりはすっきりした顔で、アレンが作業台へと向かう。リリィはその手元をいつものように覗き込んだ。――そう、いつものように。
昨日と同じ今日が続くと、リリィは疑いもしていなかった。
けれどもたったひとりの来訪者がもたらした知らせが、今日を昨日の続きにはしなかった。
「あの娘が、死んだ」
――カチャン。
アレンの手から滑り落ちた白磁のカップが、粉々に砕け散る。
リリィの瞳が見開かれる。モーリスが呼ぶあの娘とは、リリアンヌのことだろう。どくん、どくん、とリリィの心臓が嫌な音を立てる。かつて一度、窓辺で会ったきり――そういえば。
(アレンはあれから……)
アレンはあれからリリアンヌと会っていないのではないかと、今思い至る。すっかり多忙になって、それでも折々のモーリスの訪れによって彼女の近況を知るくらいで、そのたび俺に近況を聞くくらいなら会いに行けよとモーリスが言っても、アレンは照れて全然行こうとしないままだった。
リリィはおそるおそるアレンの様子をうかがった。伸びた髪がアレンの表情を覆い隠すせいで、アレンが今どんな顔をしているかわからなかった。
アレンからこぼれた第一声は、モーリスの知らせを確認するものだった。
「……死んだ? リリアンヌが?」
「ああ。急な容態の変化で昨夜……」
モーリスは次にアレンが取るであろう行動に備えた。けれど。
「……そう、それで葬儀は?」
アレンは至極そっけなく、それだけを尋ねた。
リリィとモーリスは訝しんだ。アレンの妙に落ち着き払った態度がかえって不気味だった。もっと取り乱すかと思っていたのに。
モーリスは「まだわからない。決まったら連絡が来るだろう」と告げると、アレンは「そう」とだけ、やっぱりそっけなく返事をした。
「なら、その連絡を待つよ。モーリス、雨の中、わざわざありがとう」
ちょっと首を傾げて、そうモーリスを労るアレンに、かえってモーリスの方が戸惑った。
「あ、ああ、いや、これくらいたいしたことじゃない。……俺はもう戻るが、お前も一度自宅に帰らないのか?」
「うん、そうだね。でもこれを片付けてから帰るよ」
アレンが示したのは、足下で粉々になったカップだった。「手伝う」とモーリスに言わせない強さが、その言葉には秘められていた。
親友の明確な拒絶の意思に、モーリスは何か言いたげだったが、結局何も言えなかった。
「……わかった。気をつけろよ」
それだけ残し、それでもなおどこか不安そうにモーリスは工房を出て行く。
アレンはモーリスが出て行く扉の音を背に、しゃがみこんでカップの破片を片付け始めた。かちゃん、かちゃん、と破片が寄せられては積み上げられていく軽やかな音が響く。
ふとアレンの指先がびくりと跳ねた。指先にぷつりと赤い玉が浮かび上がる。
「――っ!」
咄嗟にアレンはその指をひっこめて、かばうようにもう一方の手で包み込んだ。
その痛みが、彼を夢から現実に引き戻したのか、どうか。
リリィにはわからなかった。わからなかったが、アレンはそのまま拳を握り込んだ。絞り出すような苦悩の声が、彼の口からこぼれ出る。
「う、あ……」
アレンはぎゅっと拳を握ったままうずくまった。もう破片のことは頭からないようだった。
次に彼の口から出たのは、獣の叫びにも近いほどの慟哭だった。
「うわあああああああああ!」
刹那、リリィは膝から崩れ落ちた。アレンから流れ込んでくる強烈な感情に耐えきれなかった。
(アレン……!)
絶望、悲しみ、後悔、苦しみ――あらゆるアレンの負の感情が、リリィに奔流のように叩きつけられて痛みへと変わる。それでも這いつくばるようにして、嘆きの声を上げ続けるアレンのもとへと近づいた。
アレンがどんなにリリアンヌを愛しく大切に想っていたか、リリィは知っている。その名前を冠し、彼女のイメージを象った自分を作り上げ、いつかはお嫁さんに望むほどに。たとえリリィがたった一度しかリリアンヌに会っていなくとも、端々にリリアンヌへの想いは感じることができた。
そこでリリィははたと昨夜のことを思い出す。自分の中に何かが入ってきて、そうして離れていったあの感覚、最後に見たリリアンヌの姿。もしかして、あれは。
(リリアンヌが最期に……)
リリィはリリアンヌをイメージして作られた作品だ。故にその容姿も似ている。だとするならば、リリィとリリアンヌとを繋ぐ、なんらかの道筋ができていてもおかしくはない。
病状が悪化し、天にその魂が還ろうとする前に、リリィの中へリリアンヌが入ったとしたら、リリィの体をほんの一瞬、借りていたのだとしたら、リリアンヌのアレンを想う心が昨夜の奇跡を生み出したのだろうか――。
リリィはアレンに触れた。アレンに寄り添い、抱きしめる。昨夜と違って、けっしてそのぬくもりも感触も届くことはないとわかっていて、それでも。
(どうしたら私は貴方を救えるのですか、この悲しみから)
アレンの心にヒビが入って砕け散る音が聞こえるようだった。
――砕けたカップが戻らないのと、おんなじに。
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