*晩夏~Autumn

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*晩夏~Autumn

 彼から突然の電話を受けたのは、8月も間もなく終わろうかという、肌寒い朝のことだった。  たいていの日は、書斎にこもって早朝から一人で仕事をしている。家族の誰よりも早くに起床し、2階北側の書斎で本を読んだり、大学で教える授業の内容を思案したりするのが朝の日課だ。  几帳面に計画を立て、順序通りにスケジュールをこなす自分にとって、家族が起きてくる前の静寂に包まれたひとときは、集中力を乱されない貴重な時間帯だった。  新学期にはまだ早いが、朝晩の冷たい風がバカンス気分を吹き飛ばしてしまう。そんな中途半端な季節にふと書斎の天井を見上げたとき、遠くで電話のベルが鳴った。  19世紀に建てられたヴィクトリア朝のマナーハウスは、長い年月と戦い続けて修繕を重ね、どうにかその壮麗さを保ち続けている。  テムズ川沿いのこの美しい邸宅をカメラに収めようと、通り過ぎる遊覧船からは多くの観光客が身を乗り出すほどだ。  だが当主としての重圧か、逃れられない責任のせいか、時々胸が押しつぶされそうな深い孤独を覚えることがある。  この屋敷で過ごすようになったのは、大学を卒業した10年ばかり前のことだ。  この場所で、初めて心が躍るような喜びと幸せを味わった。  もどかしくて切なくて、簡単には出口が見つからない、迷路のような苦しみにも悩まされた。  これから過ごす長い人生には、もうあんなに光り輝く美しい日々が訪れることはないのだろう。  たった1年で凝縮した喜怒哀楽を味わい、一生分の感情を使い果たしてしまった今となっては、映画の終演まで席を立てない観客のように、ただ時が過ぎていくのを淡々と待ち続けるだけだ。  そんな個人的な感傷がつらいのか、それとも建物自体が持つ歴史的な記憶に、何かが共鳴して勝手に郷愁を覚えてしまうのかは、自分でも分からない。  にぎやかな家族の中にいても、手際よく仕事をこなしていても、時おり出現する落とし穴のような憂鬱に、引きずり込まれてしまうことがたびたびあった。
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