金緑猫睛

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金緑猫睛

 彷徨うように人目をのがれ、漂うように竹林にはいった。  初夏の青竹は伸びやかで、その葉はさらりと風に鳴る。鋭く細く、舟のような竹の葉が、くるくると降り落ち、竹根の網目に突き刺さった。青空を臨む竹の葉は、玻璃のような陽をきりきざみ、煌く破片をふりまいている。  翳りの薄布をもたらすほどに密に伸びる、壁めいた竹林の隙間に、午後を迎えた集落の姿がちらついた。私は、私の住む(むら)を背に、歩を進める。地を這っていては気づけないが、ここにおいてゆるやかな上りである傾斜は、やがて、唐突に反り返り、竹林はそこで終わる。その代わり、竹林の終わりたる急な傾斜の底からは、終わりの向こうから流れてきた水があふれ、沢となり、邑を潤していた。  水音が聞こえる。竹の香が濃くなる。  竹の間を縫い、踏みしめただけの獣道の先に、まばゆい光があった。白く潰された視界において、影のいろをした竹が交差する。  白と黒でできた竹林を進んでいくと、潤んでいて、ひやりとしたものが、頬を撫でた。土の香を、覚える。水を孕んだ風に遊ばれる頃には、目は光に慣れ、彩りが戻ってきていた。  光を招いた竹林の裂け目とは、沢により穿たれたものだった。沢の傍の岩に、紅いものが掛かっている。近づいてはいるものの、ここから沢まではまだ距離があった。  目を凝らすと、その紅は、紅衣を纏った少女であると知れる。歩を進めるにつれ、岩に腰掛けている少女の、光にとけていたかたちが浮きあがってきた。年の頃は、十をみっつよっつ越えたほどだろうか。幼くも、熟れているようにも、老いているようも見え、印象が定まらない。癖のない、流されるままの黒髪が、金糸銀糸の刺繍も鮮やかな、紅の絹目を滑っている。きめの細かな肌はみずみずしく、水蜜のように、あまさを透かしていた。  みまごうことなく、良家の娘だった。このような少女が、このようなところにひとりでいるとは考えにくい。世話する者を連れていないなど、それこそ異なことだ。  だが、周囲を見回すかぎり、少女はひとりだった。  花の香が、よぎる。芳しさに誘われて眼をうつすと、少女のやわらかな指先が、桃の花冠をもてあそんでいた。水に濡れ、透きとおった花びらが、かろうじて花のかたちをたもったまま陽に曝され、潤んだきらびやかさを撒いている。  その時、華貌がこちらを向き、石榴の目が、私を見た。結ばれていた唇が隙をもち、少女の薄い胸がふくらむ。肋にまもられた肺はふくらんだまま刻をとめた。  静謐のままに驚愕を呑んだ少女の眼が、立ち尽くしてしまった私を射る。そこにあったのは、不満、であるようだった。偶然そこに居合わせただけで投げつけられる感情としては、理解に苦しむ。気難しいのか、わがままなだけなのか。いつつは年下であろう少女を前に、私は困惑した。 「花が、流れてきたから」  蕾のほころぶような声が、耳をまさぐる。 「実がたべたいわ、って。実をさがしてきて、って、命じたの」  あどけなく、透きとおった音律が、甘やかな鋭利さをもって、肌を撫でる。ゆるめるように細められた柘榴の目に、微笑むような、いたぶるような、ささやかな彩りが閃いた。  記憶の奥底に眠っていた見知った貌に、強張っていた肉が弛緩する。少女の傍らに立ち、私は苦笑した。 「ひどいな」 「そんなことはないわ。だって、これが桃の花だといったのはあのひとよ。花が咲けば、実がなるもの。だから、どこかに実があるはずよ」 「このあたりには竹しかないよ」 「それでも、流れてきたわ。竹林になくとも、沢をのぼればいいだけよ」 「それでも、季節はずれなんだ。狂い咲きだよ」  少女の口の端がつりあがる。そうか、と、得心がいった。 「息抜きかい?」 「あなたもそうでしょう?」  問い返されて、私は苦笑するしかなかった。 「でも、ここはあぶないよ。そもそも、邑に近いにもかかわらず、この竹林にどうしてこんなにも人がいないのか。わかっているのかな?」 「わるいものが、棲んでいるから」  あいらしい唇が微笑をかたどる。おやおや、これは災難だな、と、私は内心で少女のつきびとに同情した。 「君のつきびとは、竹林に行きたいと言われて、こわがらなかったのかい?」 「こわがっていたわ。屋敷を抜け出してここに来るまでも、ひとりで探してきなさいって放り出した時も、こわがっていたわ。ひとりだろうがふたりだろうが、竹林にはいってしまったら、変わらないのにね」  小鳥が囀るように、少女はわらった。微笑みをたたえたまま、少女の眼が私を射抜く。柘榴に滲むいろは気まぐれにいれかわり、猫の睛のように、優美で残酷な印象をたゆたわせていた。  相手が気まぐれであるのなら、こちらも気まぐれを差し出したとて、お互い様だ。だから、私は冷笑めいたかたちに唇を持ち上げてみせた。 「つきびと、大切じゃないのかい?」 「大切よ。いなくなったら途方にくれちゃうわ」 「じゃあ、どうして」  どうやら、私の問いが気に障ったらしい。挑むような目がこちらに据えられる。 「なら、あなたがさがしてきてくれるの?」  かたちだけ笑みを模した唇が、棘を孕んだあまやかな声を紡ぐ。 「いいよ」  即答すると、少女の目はまるくなった。 「もし、君のつきびとが手ぶらで帰ってくるようだったら、私が探しておこう。もっとも、君のつきびとが君の所望するものを手に帰ってくるのなら、その時は、驚かれるだろうけどね。目の色だけが違う、私と同じ顔をした男に会って、その実をもらったと言うに決まっている」 「どういうこと?」 「わるいものが、果樹をはぐくんでいるんだよ。私たちの邑を生かす種を。この沢の上流、この竹林の先で、ね」  怪訝さを隠すこともなく、少女は眉根を寄せる。 「君だけ秘密を握られてちゃ不公平だろ。ここに君が来ていることを、私は誰にも言わない。だから、君もこのことは誰にも言わない。ほら、理にかなってる」 「ほんとうともつくりばなしともつかないものを秘密と称してふりかざすなんて、おとなはあざといわ」  やわらかな頬がふくらんだ。拗ねてそっぽをむく少女がかわいらしくて、私はわらう。  竹林の切れ目から射しこむ陽が、少女の肌を透かした。気まぐれと無茶で誰かを振り回したとて、蝶にじゃれつく仔猫のように、その者が必死になって得てきた宝物を、この子はいともあっさりと棄てるのだろう。己の望みを泡沫に沈め、珊瑚の爪が柔肌をたやすくひき裂けるなどとは思いもよらずに。己が相手を失望の底に蹴落としたことに気づくことすらなく、ただ無邪気に、血潮の上のとろけるような薄肌を愛でるのだ。  沢の傍らの岩では、細い指先で濡れそぼった花をいらう、やわらかな肉塊がわらっていた。  胡蝶のまぼろしから、水の香が私をひきあげる。  そこにいたのは、まぎれもなく、少女といういきものだった。  竹林にさざめく問いは、水音に絡め取られ、沢とともに流れていく。  少女は乾きかけた花冠を見つめていた。私は飛沫のはねる沢を見つめていた。 「ここにはよく来るのかい?」 「来るかもしれないわ」 「また会えるかな?」 「どうかしらね」  青竹が撓み、撥ねる音が、空へと抜けていった。少女は手のひらに載せた花冠を見つめていた。 「でも、わたしは、あなたみたいなひと、きらいじゃないわ」  私たちは、お互いに、お互いが誰であるのかを知っていた。私たちが住んでいるのはちいさな邑であるから、少女が家のもの以外に顔を見せる機会が少ないとはいえ、驚くようなことではなかった。それでも、私たちは、お互いに、お互いが誰であるのか、知らないふりをして喋った。それは、お互いが、お互いに、ここにいる目的を息抜きであると理解していたからだ。息抜きであるからには、邑における役割を持ちこんでしまっては、抜ける息も抜けなくなってしまう。そう、お互いに理解していた。  少女のつきびとが帰ってくる前に、私たちは別れた。だから、つきびとが少女の望んだものを手にすることができたのかどうか、私は知らない。  それでも水蜜を得てきてしまったのは、もしかすると、未練のようなものなのかもしれなかった。  細竹の垣根に沿って歩を進める。少女の家は、邑の糧をおさめる倉をまもる家系であり、由緒のある家柄であるためか、屋敷も大きかった。これに関しては、邑長の直系である私もひとのことは言えない。  白昼と薄暮の間、昼の夢と夜の夢がまざりあう時刻。片手で水蜜をもてあそびながら、さして期待もせずに歩んでいると、垣根の隙間から少女が見えた。反射にちかいはやさで足をとめる。庭に面した桟敷で、つきびとと妹とともに貝合わせに興じていた少女が、わずかに、首をもたげた。  柘榴の眼が、私を貫く。  目が合った、ような気がした。気がした、というのは、一瞬の後には、何事もなかったかのように、少女は遊戯にその睛を戻していたからだ。  傲慢とも酷薄ともとれるその仕草は、至極、少女らしいものだった。  そうでなくては、おもしろくない。喜びに頬を染め、可憐に微笑まれようものなら興醒めだ。  零れる笑みをおさえきれないまま、私は垣根の元に水蜜を置き、その場を立ち去った。  少女が水蜜を見つけたかどうか、私は知らない。  ただ、果肉があの唇を濡らそうが、うちすてられたまま腐ろうが、私は満足だった。  どちらにせよ、あまさに艶めく微笑みが、芽吹き果樹となった果ての蕾が、咲き乱れることにはかわりない。  だからこそ、私は、満足だった。
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