序章  1947年 マイナス16 

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序章  1947年 マイナス16 

            始まりの16年前             終戦から二年後、          東京の外れで一人の少女が、        広島からやってきたヤクザと出会い、              そして……。   * * * * * * * * * * * * * * *  昭和二十二年九月、カスリーンと名付けられた台風が近づきつつあった。  そのせいで強い雨が降り続き、    そんな中、少女がひとり、布製の洋傘を差し歩いていた。  見れば乳飲み子を背負い、薄汚れたねんねこを羽織っている。    そして時折立ち止まり、赤ん坊の頭に手を近づける。  濡れていないかを確かめるのだろう。    大丈夫だとわかると、また赤ん坊の頭までねんねこを引っ張り上げて、  再びトボトボと歩き出した。  終戦からすでに二年が経っている。    しかし戦前の平穏が嘘だったかのように、  日本中のあちこちで混乱が未だ続いていた。  特に東京は百六回もの空襲を受け、  破壊し尽くされた影響が色濃く残っている。    そしてそれらは建築物に限ったことではなく、  日本人のアイデンティティにまで深く染み渡っていたのだ。  米兵が集まるところに娼婦が立ち、  それを占領軍が見つけては連れ去っていく。    性病の感染防止を理由にしたパンパン狩りで、  今から考えれば人権蹂躙というべき行為だが、  敗戦国である日本にはいかんせんどうすることもできなかった。  しかし東京の外れともなれば、状況はずいぶんと違ってくる。    赤ん坊を背負った少女のような存在でも、  特に危険を感じることなく普通に歩けた。  雨脚はどんどん強くなるが、さりとて少女に帰るところなどない。    彼女には家もなく、頼るべき身寄りさえなかったのだ。  この時代、東京中に溢れていたそんな者たちの中には、  少女より幼い子供たちも多かった。  彼女もあと三つ四つ年若であれば、  こんな東京の外れを歩かずに済んだろう。    さらに幸か不幸か、少女はあまりに可愛らしく、  目を引くほどに美しかった。  そんな美しい少女がどうして、  このような日に乳飲み子を背負い歩いているか?     誰もが気にする余裕などなく、  時折すれ違う者もチラッと視線を向けるだけ。    そこは、多摩川の土手沿いで、  このまま行けば狛江、さらには府中へと続く荒れ果てた道だった。  ――確か、この辺……。    なんとなく、この辺りに見覚えがある。  ふと、そう思った時だ。 「パン!」という音が響き渡って、少女は慌てて振り返った。    するとバタバタっと足音、  そしていきなり視界に二つの影が飛び込んでくる。  影は少女の目の前を走り抜け、そのまま左手にある土手を駆け上がった。    反対側を見れば、二人を追っているらしい姿もある。  その右手には拳銃が握られ、    ――さっきのは、ピストルの音だったの……?  少女はやっとそう思うのだ。  この瞬間、ソ連の軍用拳銃トカレフが二人の男を撃ち抜こうと、  あるいは追っ手の方が返り討ちに遭っても、  無論少女には関係のない出来事のはずだった。  しかし関係ないままでは済まないと、次の数秒で、  少女にもすぐに知れるのだ。  
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