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戦後の生活についてだけは、絶対剛志には知られたくなかった。
だからこそ、陰ながらの支援を選んだし、戦後の苦労話を彼が知れば、
要らぬ責任まで感じてしまう恐れもあった。
ところが運の悪いことに、剛志がリハビリ中に骨折してしまうのだ。
それ以降、彼は一切リハビリをしなくなる。
広瀬からもどうしたものかと相談されて、
いよいよ岩倉節子として彼の前に出て行こうと決めた。
さっそく広瀬と打ち合わせ、ずいぶん濃いめの化粧で彼の病室に顔を出す。
――智子だって、気づかれないかしら……?
最初は少し、そんな心配もあったのだ。
しかしよくよく考えれば、十六歳同士だったのは三十年も前で、
半日ちょっと一緒に過ごしたのだって十年くらい前のことだ。
そのときだって智子は十六歳だから、当然今とはぜんぜん違っている。
とにかく写真も何もない状態で、
記憶にある智子もずいぶん不確かだったろう。
だからそんな心配も杞憂に終わり、
きっと最初は、なんだこの女はくらいに感じていたと思うのだ。
ところがいざ病室を出かけると、
向こうからもう少しいてほしいと言ってくる。
その瞬間の喜びは、言葉では到底言い尽くせないものだった。
そうしてその日から、二人の距離は少しずつだが縮まっていく。
ところがその一方で、終戦後の思い出を語っているうちに、
智子として名乗り出る難しさを嫌というほど思い知った。
十六という年齢で、これまでどうやって生き抜いてきたか?
智子としてそんな事実を、とても口にはできないと痛烈に感じ、
――十六歳だった智子は、あの火事の日、完全に消え失せてしまったのよ。
今後一切、智子を封印しようと心に決めた。
二人は剛志の目覚めた翌年、昭和四十九年にめでたく入籍。
そしてあっという間にあの昭和五十八年が近づいてくる。
万が一忘れていたら困るので、
若い方の剛志にはあの約束を思い出させるよう仕向けて、
ホッとしたのもつかの間だ。
――あの人、まさか邪魔したりしないわよね?
三十六歳の彼が二十年前へ行かないように、
何か手を打ったりしないだろうか?
智子は考えに考えて、あの日を跨いでのフランス旅行に誘ってみるが、
思った通り剛志にまったくその気はなかった。
――彼はきっと、何かしようと思っている。
そんな剛志と同様に、智子だって旅行に行く気はさらさらないのだ。
やろうと思えば、過去の流れを断ち切ることだってできる。
やって来る剛志へすべてを話したっていいし、
門の前にガードマンの二、三人も配置して、
あのチンピラたちを追い払うだけでいいのかもしれない。
ところがそんなことをしてしまえば、
十六歳の智子は昭和二十年に行かなくなる。
そうなれば岩倉と出会うこともないし、当然友子だって生まれてこない。
――そんなのダメよ!
智子はすぐにそう考えて、
――ごめん、ちょっと辛いこともあるけど、
――あなたなら、きっと頑張れるから……。
十六歳の智子に向けてそう念じつつ、
友子のために何もしないと決めたのだった。
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