序章  1947年 マイナス16 

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 ところがそうなる寸前、トカレフを手にした男が咳き込んだ。  と同時に真っ赤な鮮血がほとばしる。  男は苦しげに血を吐き出して、引き攣るような呼吸音を響かせた。 「大丈夫……ですか?」  思わず声にしてしまった自分に驚き、慌ててヤクザの方に視線を送った。  しかし動く気配はまるでなく、二人は降り注ぐ雨粒を受け止めている。    少女は少しホッとして、再び仰向けになった男の方へ視線を向けた。  するとうっすら目を開けていて、雨粒が当たるたび眉間にシワを寄せ、  目を瞬かせて辛そうな顔をする。  少女は恐る恐る近寄って、握りしめていた傘を男の頭上に持っていった。  そのままその場にしゃがみ込み、再びおんなじ言葉を声にする。 「大丈夫、ですか……?」  その途端、男の顔に動揺が走った。  左右の瞳がパッと開かれ、途端にその目が少女を捉える。  ところがそんな視線も一時で、すぐに外れて上向いてしまうのだ。  その時、少女は何を思ったか、いきなり男の腕を取り、  そのまま引っ張り起こそうとする。 「ちょっと……待て」  苦痛に顔を歪ませながら、 「俺を、殺す気か……?」  男はなんとかそう声にした。 「違います。このままだと、あなたは本当に死んでしまいますから……」 「どっちにしても、もう助からん……だから、放っといてくれ……」  掠れるような声の合間に、ピーピーという呼吸音がいちいち響いた。  ところが男の言葉にも、少女はその動きを止めようとはしなかった。  もしもあの時、この男がためらいなく引き金を引けば、  雨に打たれていたのは自分の方かもしれない。  ――この人はなぜ、あの時、すぐに撃たなかったの?  そう思う少女の脳裏に、さっきのシーンがあっという間に蘇った。  あれは……まさに困ったという顔だった。  脳裏に浮かんだ男の顔は、「参った!」と言わんばかりに歪んでいる。  ――この人は、わたしがいたから撃てなかった……いえ、    撃たなかったんだわ……。  だからなんとしても助けたい。  そんなことを勝手に思って、  何を言われようが男を捨て置こうとはしなかった。  やがて、その懸命さが伝わったのか……男は視線を左右に動かし、  たどたどしくも少女へ告げた。 「俺を、土手の向こうへ……連れてって、くれ……」 「土手の向こうって、川の方ってこと?」 「そうだ……だから、ちょっと、待て……」  彼はそう言うと、懸命に左半身を浮かそうとする。  少女もすぐにその意図を理解して、腕を離して彼の背中に手を差し入れた。  そんな少女の助けもあって、男はそう苦労することなくうつ伏せになる。  さらに少しずつ肘と膝を折り曲げていき、身体を丸め、  程なく立ち上がることにも成功した。 「どうして、土手なんかに上がるんですか?」  そんなことはやめて、このまま医者のところに向かうべきだ。  何度そう声にしても、男はまるで聞く耳を持たない。  腰を辛そうに折り曲げ、ゼイゼイ言いながら、  土手斜面を必死になって上っていくのだ。  最初は見守っていた少女も、やがて洋傘を彼の頭上にかざし、  一緒になって上り始める。  そうしてなんとか上り切り、そこからは少女の肩を借りて、  さらに川っぺりまで下りていった。  ここ数日の雨で水流は荒々しく、  多摩川はいつもよりずいぶんその川幅を広げている。 「ここで……いい……」  男がそう呟いたのは、茶色い濁流がすぐ目の前まで迫っているところでだ。 「こんなところで、いったいどうする気ですか?」  そんな少女の問いには答えず、  男は草むらに倒れ込むように寝っ転がった。   さらにその手をゆっくり上げて、ヒラヒラと振って見せるのだ。  もういい、どこかへ消えてくれ……。  きっとそう言っている。  すぐわかったが、「はいそうですか」と言えるくらいなら、  こんなところにいやしない。
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